10.鬼ごっこの顛末
私はすぐにばてた。
腰のたまからも、もの言いたげな雰囲気がにじんでいるが、仕方ないではないか。ようやく体力がついてきたとはいえ、元デスクワークの一般職なんだぞ。
加えてここは登山家が週末にうきうきで目指しそうな高山なのだ。空気も薄いし、ちょっとしたことですぐに息が上がってしまう。私は悪くない。
「たしか、こっちの、ほうに、行ってたと、思うけど」
息も絶え絶えとはこのことだ。
走るのはとっくに諦めて、ゆっくりと時間をかけながら山の稜線を登っていく。すでに草原は終わり、ごつごつした岩っぽい地形だ。こんなところまで足を伸ばしたのは初めてだが、山岳部が喜びそうな風景である。
下にいたときは夕方前だったのに、もう陽が暮れかけている。橙色のまるい陽は夕暮れのようにも朝焼けのようにも感じられて、疲れた私はすこし混乱した。
そしてじゃりじゃりする地面をひたすら歩いていけば、ようやく遠くにうずくまる背中が見えた。
私はそれを見てほっとして、苦笑いする。それからふと思い出した。
私がまだ小学生高学年くらいだったとき、母親と小さな口げんかをして家を飛び出し、わりと遠くの公園で夕方まで過ごしたことがある。
その口論のきっかけはもう覚えていないのに、公園の砂場で手持ち無沙汰に砂をいじくっていた、その乾いた感覚はやけに鮮明だ。アニメのキャラクターの時計をしていたけど、針はちっとも進まなくて、私は誰かが時間の両端をゴムみたいに引っ張ってるんじゃないかと思うくらいに、時間は引き延ばされて流れていた。
夕暮れに、母親が見つけてくれたときのあの感情は今でもうまく言葉にできない。
無理に言うならなんだろう。もっと早く迎えにくればいいのにという不遜さ、でも迎えに来てくれてよかったという安堵。
しょうがないようにため息をついて手を引く母親に、私はしぶしぶ家に帰ってあげるというつんと澄ました顔を見せながら、とても安心したのを覚えている。
どうしてこんなことを今思い出したのだろう。岩場に体育すわりをしているナラ・ガルさんの丸められた背中が、砂場で砂をいじっていた少女と似ていたからだろうか。
誰かに愛されたい、愛されていると実感したいと蹲る少女に。
「どうして放っておいてくれないんだ。あなたに何の得もないだろう」
背後まで近づいたとき、今までにない攻撃的な声が聞こえた。それ以上寄るなと言わんばかりの、冷たく硬い声。それはネハが病床から彼に投げつけた言葉にも似ていた。私は無視して、さらに近づく。
「聞きたくないんだ」
すぐ後ろに来た私を制するように言い放つ。私はそうなの? と問い返す。どうして、とも。
「……夢のことを疑っているわけじゃない。あの子は神性も強かったし、とくに夢渡りに長じていたから。だからこそ、聞きたくないんだ」
「どうしてそこまで嫌がるの」
憎まれていたから、と呟いた。
「俺は捨て子だ。ただの捨て子はたくさんいるが、これほど醜く、そして図体の大きな捨て子はそういない。この集落でもプリャの口ぞえがなければとっくに大鷲の餌だった。だからこそここで役立つことで報いようとした。でもネハは俺が何をしても、あるいはしなくても気に入らないようだった。仕方ないことだけど、俺は悲しい気持ちになった。そしてそうやって傷つけられるくらいなら、なるべく関わらないようにしようとした。近づくから傷つく。近づかなければ傷つかないから」
プリャやネハと過ごした十数年を、そんなふうにひたすら避けて耐え続けたのだ。必要以上に近づかないのは、傷つけないかわりに傷つけないでほしいということの裏返し。
「俺は見てくれが不完全なだけじゃない。内側も出来損ないなんだ。だからってまわりの人間が俺を傷つけていい理由にはならない。そうだろう? 俺に触られて汚れ物のように手を払われたり、俺が育てた羊はくさいからと値を不当に下げられたりする理由にはならない。身体が大きいのを不気味そうに見上げられるのも。もう傷つきたくない――それぐらいなら、ひとりでいい!」
そう言って、何者も拒むようにひざに頭をうずめた。あっちへ行けというように。その姿はまるでひとつの繭に篭る小さな生きものようにも見えた。
私は彼の心情を理解したかったけど、うまくできなかった。私は私のことをある程度鈍感な人間だと思っている。嫌なことがあれば寝て忘れることもできる。ときどきは鈍い自分にいやになることもあるけれど、それは生きていくうえで必要なものでもあると知っている。だからそんな自分と折り合いをつけながら日々暮らしている。
一方でナラ・ガルさんは正反対だ。黒鉛のようにやわらかく伸びやすい、豊かな心を持っていて、それを制御できない。他人との接触のやり過ごし方を知らず、もろにそこを削り取られてしまうのだ。
きっと誰もがそうするように、成長しながらうまく二面性を持って割り切ることを学べずに大人になってしまった。それは環境のためかもしれなかった。
プリャはナラ・ガルさんを慈しんだが、そういう心の制御の仕方には干渉しなかったのだ。実の孫のネハですら放牧するように自由に育てていたあたり、そういう人だったのだろう。
私は黙ったまま、彼の隣に人ひとりぶんの距離をあけて座った。
ナラ・ガルさんの身体は荒波のような感情を制御しようと細かく震えていた。彼の中のその波が収まるのを、私はただ待った。
陽が最後のあがきのように空を茜色に染め上げて、やがて沈んでからも、私はただ黙っていた。
ナラ・ガルさんが大きく静かに息を吐いたころには、すっかりあたりは薄い墨色で、かわりにいびつな白い月がひとつ、仕方なさそうに顔を出していた。
私はその月を見て、ククルージャで初めて見たときを思い出していた。吐き気がするほどおぞましかった月、狂いそうになったときに抱きしめてくれた阿止里さんの腕。その熱。
起き出して手当てをしてくれたユーリオットさん、悲しそうに私を見つめた月花、蜜を舐めるかと慰めてくれたナラ・ガルさん。
彼らに守られて、私は本当に恵まれていた。救われたのだ。
だからこの人が救われないなんてことは、あってはならないのだ。傷つき怯え、ふさがらない傷口をどうしたらいいかわからないままの、臆病なライオンのようなこの人が。
「……ナラ・ガルさんは自分が嫌いなんですね」
返事はされなかった。肯定の沈黙が横たわった。
私はたとえようのない悲しみにさらわれる。覚えのある感情だ。ネハの夢で味わったことのある気持ちだ。
「じゃあ、ナラ・ガルさんのことを素敵だと思う私のことも嫌い?」
彼はしばらく動かずにいたあと、聞き取れなかったというように少しだけ顔を上げた。生まれたての赤ちゃんのような顔で、彼は私を見ている。
「私はナラ・ガルさんのことを素敵な人だと思っています。たとえナラ・ガルさんがどう思っていようと。ねえ、私のことも嫌いになりますか?」
ナラ・ガルさんはゆるゆると首を横に振って、眉を寄せた。
「よく……わからない。俺のことを、好ましいという意味なのか」
そうですよ、とうなずく。
「前も言ったかもしれませんが。裁縫ができるところ、料理もそつないところ、壊れた家を直したり、たくましくて頼れるところ。それから」
ナラ・ガルさんの顔を覗き込む。私の言葉が彼の心に届いているか、知るためだ。彼の金色の瞳はどこかうつろだったけど、それでも言葉の先を知りたがっているような色があった。だから続けた。
「傷つきたくないと逃げ出してしまうくらいやさしいところも、臆病なところも、たとえみじめで情けないところでも、ぜんぶ」
そう告げた瞬間、限界まで目が見開かれた。メープルシロップのようにまろやかな瞳が夕闇に輝く。
すうっと光を吸い込んで、月の白色と黄色の光が金と混じって、数千年も前の樹液のように奇跡みたいに美しい色で、私は心から見とれた。
「自分のことを嫌いなら、それも仕方ないと思います。ずっとそう思い続けてきたなら、すぐに変えられるはずもないし。でもここに一人、ナラ・ガルさんをまるごと素敵だって思っている人間もいるって知ってほしい。それを否定することは誰にもできないし、何より私が許しません」
私の好意は私のものだ。誰にも、ナラ・ガルさん本人にもそれは拒めない、私の感情なのだ。それを否定できるのは私だけだから。
ネハが許せなかったことだ。ネハはナラ・ガルさんのことを気にかけているのに、当の本人は自分を無価値なものと決め付けてで、ネハの気持ちにも価値がないと言われているかのように感じていた。
もちろん、最後はナラ・ガルさん自身が自分のことを気に入ってあげるしかない。だけどその過程できっと人は、誰かに認められることも必要なんだと思う。
私はギィのことを思い出した。彼は醜さも卑下される立場も何もかもを知った上でうまくやっていた。きっとニグラさんやジウォマさんという人たちがそばにいたことも大きいのだろうけど、やはり誰でも自分で自分を受け止めないとやっていけない。
「……許さないか」
「はい」
「ずいぶん手厳しいな」
「女ってわりと強いし手厳しいんですよ」
知らなかったんですか? と微笑めば、ナラ・ガルさんはしばらく黙ったあと、大きく息を吐いた。長く深く、まるで体中の酸素をまるごとぜんぶ入れ替えようとするかのように。そうして同じくらい深く息を吸った。
そんなふうに深呼吸を繰り返して、ナラ・ガルさんは膝の上にあごを乗せて正面を見た。彼の視線の先にはまるくすべすべした石が置いてあって、ほんの少しだけ口元を緩めてからもう一度、深呼吸をした。
まるで肩に乗せていた重い荷物をようやく降ろせた旅人のように。
「そうだな。知らなかったのかもしれない」
手の甲を額に押し当てて、ナラ・ガルさんは呟いた。
「近づいちゃいけないって暗示をかけて、そもそも知ろうとしなかったせいじゃないですか」
すねるように、あるいはからかうように私は言う。ちょっと意地悪かもしれないが、夢の中のネハの心情に少なからず影響されていたと思う。ナラ・ガルさんはぱちぱちと瞬いてから、まいったなとうなだれた。
落しものに気づいた子どもみたいにな声音で、あるいは、と言葉を続ける。
「……俺は。あるいは、何も知らずにいたのだろうか? もしかしたら人生のどこかしらで、誰かから好意を差し出されていたかもしれないのに。それにも耳をふさいで目を閉じて」
うんうん、と私はうなずく。聞けば聞くほどもったいない。生い立ちから考えると仕方ないのかもしれないが、なんともへたれ青年ではないか。
「自分を嫌いでいようとするよりは、好きでいようとしてみませんか。ひとつ、だまされたと思って」
少なくとも私はナラ・ガルさんが刺繍をしているのを見ると、かわいらしくてほっこりしますよと言えば、彼は煙が目に染みるのを我慢するように目をぎゅっと閉じた。それからもう一度言って、と呟く。
もう一度って、何を? そう問えば、素敵だってところ、と返された。
私はひとつうなずいて、体育すわりしたままのナラ・ガルさんの肘あたりに手を置く。彼の身体は小さく揺れたけど、しっかりと腕に触れる。
「ナラ・ガルさんは、とても素敵な人です」
目を閉じたまま、ナラ・ガルさんはしばらくじっとしていた。それからもう一度、とねだるようにその頭を私の肩に乗せてきたので、私はその後も何回も、おなじことを繰り返し続けた。




