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8.独白

 そして私は、最後の夢を見た。


 痛みを伴う夢だった。私は目が覚めてからもしばらく天井を見つめたまま動けずにいた。共有していたネハの身体と心の痛みに、心臓がどくどくと早鐘をうっていた。


 大きく深呼吸をしながら、細かく震える指先を握りこむ。なんとなく、ここで彼らに起こったできごとが何だったのかわかった気がした。それはあくまでネハからの視線で、ナラ・ガルさんからのものではないのだけれど。


「……どうにもこうにも、人の心って難しい」


 私がひとりごちれば、枕元のたまが眠たげに訝しむ気配がした。猫の拓斗も、よく昼寝をしながらこういう感じで薄目を開けていたものだった。


 なんでもないよ、と小さく返して寝返りをうつ。


 誰もが劣等感やうまくいかないことで悩んでいる。私だっていちおう、コンプレックスみたいなものはある。

 そういうのって誰かと比べるものではないし、自分で折り合いをつけないことには乗り越えられないと、私は思っている。


 だから私は他人事ながらも、ナラ・ガルさんのそれが少しでも軽くなればいいのにと、無責任に思いながら毛布にくるまって、拓斗を思い出しながらもう一度眠った。







「寒い」


 日暮れである。私は外に薪を取りに行って、吹きすさぶ風の冷たさに身震いした。夕方の冷え込みがつらい。


 まだ夕方前だけど夕食の準備だ。体感では五時前に日が沈んで、七時には就寝しているような。生き物としてはとても正しい生活かも。


 持ってきた薪の中から乾いているものを選んで、丁寧に囲炉裏にくべる。ちなみにこの置き方ひとつで火力や燃えるスピードなども調節できるくらいには扱いも慣れてきた。木の種類と乾燥ぐあいがポイントだ。


 室内は暖まるそばから冷えていくので、火が大きくなっても気温が上がった気はしないのが悲しい。身体を温めるために飲む白湯も、口をつければ冷えてぬるま湯になっていく始末だ。いくら移住する民族とはいえ、もう少し仮家ガダに手を入れてもいいと思うと、ぼろぼろの壁にある小さな穴を睨む。

 

 ナラ・ガルさんは雪が積もる前にルガジラを去ると言っていたけれど、その日は遠くなさそう。火からちょっと離れると部屋の中なのに吐く息が白いよ。


 私は土間の壁に引っ掛けておいた上着を羽織る。数日前から上に重ねる服が増えた。


 羊毛をふんわりと編んだケープのようなもので、やはりというかもちろんというかナラ・ガルさんの手作りだ。

 彼が手渡してくれたときに礼を言った。きちんと目を合わせてはにかんだ顔はククルージャを思い起こさせた。


 以前の砂風呂のいざこざのあとからだろうか、ナラ・ガルさんの態度が少しずつ――下手したら気づかないくらいの速度で――変わったようにも思える。


 彼らしく、とても慎重な変化だ。ユーリオットさんや月花のように懐いてくれるわけでなく、私の反応を見て探りながら、伺うように彼なりの距離を測りはじめたというふうな。


 大切なのはナラ・ガルさんのほうから近づこうとしてくれているところなのだ。その一歩がたとえカタツムリのものだろうと関係ない。私は臆病な野生動物にくんくんにおいをかがれながらまわりをうろうろされている心地である。 


 なかでも食事の支度を任せてくれるようになったのは大きな変化だ。時間だけはたっぷりある生活、どの食材をどう扱えばおいしいか、私は全身全霊で模索する日々である。


 食事の楽しみは全世界、津々浦々、どこでも一緒なのだ。







 さて、ルガジラでの生活にもだいぶ慣れたが、この土地には興味深い食材がある。


 ここには米や小麦がない。代わりに登場した、驚きの保存食だ。


 その名も乾燥芋ジュニョ。真っ黒にカビ尽くしたジャガイモもどき! まっくろくろすけから毛を抜いたような見た目で、パンチ力がものすごい。

 

 秋口に掘り起こしたジャガイモを、そのまま凍てつくまで放置して水分を抜いた天然のフリーズドライだ。なんと数年、もつという! すごすぎる。


 おそるおそる持ち上げてみれば驚くほどに軽い。茶碗洗いのスポンジとまではいかないが、完全に乾燥しているとわかる。まあ、思えば高野豆腐だって似たようなものか。保存食のパイオニアだ。


 食べるときには数日前から水に漬けてもどし、カビきった皮をこそげ落として料理する。お味はちょっとモチモチしていて、芋の風味がふわっと鼻に抜ける。ややカビくさいが、その見た目のわりにはおいしかった。


 それをすりつぶせば、粘りのあるモチのようになる。濡らした手で一口大に丸め、鍋に放れば白玉団子ならぬジュニョ団子。もっちもちで美味しい!


 甘みというものがないこの異世界、果物だって日本みたいに品種改良された甘さなんてなく、だいたいが酸っぱすぎる。だからこそほのかな甘さでも脳みそが喜んでいるのがわかんだけど。贅沢なんて言えないのは承知だが、お米が食べたいなあ。


 もし今お米がひとくちぶん手に入ったら、私は10分くらい噛み続けるかもしれない。お米の味を堪能しつくし、お米の甘みのその向こうに浸るのだ……。


 というアブノーマルな思考に走るくらいには米に飢えている。


 ちなみに野菜からの栄養はどうしているのかと言えば、これも寒晒かんざらしみたいにして水分を飛ばして長期保存してあるものを少しずつ使っていく。たくあんみたいな食感で、ふつうにおいしい。


 たんぱく質は家畜の肉を食べる。ほふるのをはじめて見たが、壮絶だった……。以来、羊さんに心から手を合わせている。スーパーで当然のように並ぶお肉も、誰かが血まみれの手でやってくれてるんだよね。ただ感謝です。




 


 鍋をかき混ぜていると、背筋も凍る風が入ってきた。入り口に目をやれば、羊の世話を終えたナラ・ガルさんのご帰宅である。手には道すがら拾ったのであろう小枝たち。すぐ燃える薪がわりだ。


 おかえりなさいと言えば、目を合わせてただいまと、恥ずかしそうに微笑む。


 私も微笑んで、できたばかりの鍋を器によそい、一緒に夕食を摂る。静かな場所、まるい湯気、薪の爆ぜる音。


 沈黙が心地いいのって、お互いを尊重できているからなのかもしれない。


「西の空は雲もなく晴れ渡っていたから、明日は冷えるよ」

「今朝以上にですか……怖いなあ。そしたら薪を外から持ってきておきますね。朝すぐ燃やせるように」

「それは俺がやるから、この小枝を細かく折っておいてくれる? 火を熾しやすくなる」

「わかりました」


 そんなふうに、一日にあったことや思ったことを、ゆっくりと交換しあう。不思議だ、と思う。実家の家族とさえ、こんなふうに素直で穏やかな気持ちで会話をしたことがない気がした。


 食事を終えれば、器を洗うために外に出る。夕焼けの空が透き通って寒々しい。鳥の鳴き声がして北のほうを見れば、数羽の渡り鳥が南へ下っていくのが見えた。季節が変わろうとしているのだ。


 鳥はどうやって方角を知ることができるんだろうと、寒さに震えながら洗っていると、畑に出ていたナラ・ガルさんが私を呼んだ。ちなみにまだ名前は呼んでくれない。しぶとい。


「はい。どうしました?」


 私はケープについている帽子をかぶりながら裏手へ回る。ナラ・ガルさんは黄色い花を片手に持ちながら、そっと足元を指差す。


 わあ、と私は息を呑んだ。


 スミレのような青い花に、鮮やかな羽の蝶が止まっていた。その羽はまるでオパールを薄く割ったかのように、あるいはステンドグラスのように角度によってゆらめいている。


「秋の終わりにだけ現れる蝶だ。とても希少で、年頃の男たちが求婚相手に贈る髪飾りにこぞって捕まえたがる」


 どんなにきれいでも、蝶の羽をプレゼントされるのはぞっとしないが、地域性というものだろう。私は昆虫もそう得意ではないが、その揺らめく美しさにはただ見とれた。


「このピンク色、何かに似てませんか」

「何かって?」

「どこで見たっけな……確か、カラブフィサだったか……」


 私は記憶を掘り起こす。そうだ、この色は。


「ピンクグレープフルーツの色だ! ああっ……食べたいっ……!」


 私はあふれる唾液を飲み込んで目を細める。この蝶々、控えめな桃色がつやつやと輝くピンクグレープフルーツの果肉にそっくりなのだ。

 あたたかい地域で生る木だ。このあたりでは絶対に食べられない果物である。ユーリオットさん(子ども)は、酸っぱさが苦手だと好まなかったのを思い出す。贅沢なあたり、くさっても貴族の子息である。


 私は大きく息を吐いて思い出に浸っていると、ナラ・ガルさんが笑い出す。


「まさかなあ、果物を思い出されるとは。このあたりでは、すごく色っぽい話題の生き物なんだけどね。あなたにかかればなんでも胃袋に直結するわけか」

「違いますって。ほら、今はたまたまデザートがほしい気分だったから」


 いつもじゃありませんよともっともらしく肯けば、本当に? ときらきらした目で見つめられる。

 

 その無垢な瞳に私はすぐに白状して、そうしてひとしきり笑いあう。弾けるようなナラ・ガルさんの声。


 あ、と思う。


 それはククルージャにいたころとも違う、新しい彼の顔だった。無邪気で屈託のない、見ているほうまで笑ってしまうような。


 けれどやっぱり徐々に、その笑顔は貝が閉じるように消えていってしまう。まるで楽しむ自分などあってはならないというふうに。

 ナラ・ガルさんはうつむいて、ぎゅうっと目を閉じた。罰を受けたがるかのように。何かに耐えるようなかすかな沈黙のあとで小さく呟く。


「あなたは、なんなんだろう。どうして、あなたのような人が俺の前にあらわれたのか」


 それはククルージャでも言われたことのある言葉だった。高い太陽、乾いた風、砂風呂をつくったあの中庭で。

 ナラ・ガルさんは額に手を当てて、黄色い花を握り締めて、丘の上をぼんやりと見つめて、やがて力なく独白した。


「あれは墓なんだ。おれが殺した許婚の」






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