8.涙
動物だって家族です。
「めがみ」
阿止里さんの口から出た、その大げさな単語に、私はほとほと困り果てた。
まだ奴隷の「商品」にすら仕上げられていなかった私は、お風呂どころか身体を拭うことすらできず、つまり今の私は垢まみれ皮脂まみれのこ汚い女なのだ。
あっ、だからみんな目を合わせてくれないのか。
「あんた、名は?」
ぶっきらぼうにユーリオットさんが聞いてくる。そういえば、まだ名乗っていなかった。
いまだ夢のように思っているけど、私は奴隷という立場だった、そういえば。しかも、四つんばいになってない。
奴隷の心得を破っている私に、鞭は打たないのだろうか……?
「佐藤 縁子と申します、ご主人さま」
そう言って、こっそり膝をつき、四つんばいになろうとしてみた。今まで二足歩行だったこと、見逃してくれるといいんだけど。
「ゆかいこ?」
「いかいこ?」
「ゆうかり?」
「ゆかりこ」
正解したの一人だな! 25%の正答率。まあ日本人にもちょっと発音しにくい名前だし。
「縁子、です。阿止里さんのお声が、一番近かったです」
阿止里、という名前は、どこか日本を思わせる。黒髪に黒い瞳ということも。
だからだろうか、日本人に名前を呼ばれたように、私は感じた。
そう感じた瞬間、どうしたことだろう。
目の奥が急に熱くなって、まばたきをした瞬間、世界がにじんだ。
ご主人さまたちが、息を呑む気配を感じたが、だめだった。
この世界に来て、初めて流した涙は、この家の日干しレンガの壁をぜんぶ溶かしてしまう気がした。
「なぜ、泣く。私たちに名を呼ばれるのは、そんなに嫌か?」
「ほら。やっぱり、幻想なんだ。おれたちを普通に扱うやつがいるなんて」
「女性の涙ほど、男に無力を感じさせるものはないな。まったく俺たちは役立たずだ」
「でも、でも。このひとの涙、なんて綺麗」
綺麗?
私はほとんどしゃくり上げながら、綺麗だったのは拓斗の瞳だ、と思った。
トラ猫の拓斗は捨て猫で、社会人三年目のときに拾った猫だ。
絵に描いたような捨て猫だった。「佐賀みかん」とかかれたダンボールに入れられて、雨にぬれて、みーみー鳴いていた、みすぼらしい猫だった。
ちょうど私は仕事でそこそこ大きなミスをしてしまった日で、怒ったように鳴くその子猫と一緒に泣きたくなった。
でもあまりにもその猫が鳴くから、かえって私はちょっと冷静になってしまったのだ。
わかるかな、卒業式にちょっと感極まってるんだけど、ほかの子が号泣してるのをみて、ちょっと我に返ってしまう、あの感じ。
気づいたら、家の風呂で洗ってあげていた。
猫用シャンプーなんてないから、ふつうのボディソープでごしごし洗っているあいだ、こちらの心中を推し量るようにじっと見つめてきていた。
はちみつ色の、飴玉みたいな瞳だった。
『そう尖らずに』
私は思わず、そう話しかけた、気がする。
『捨てられたのは、あんたのせいじゃない。残念だけど、そういうこともある。それは、泣きたくもなるよね』
猫は、まばたきもせず私を見ていた。
『だから、あんたが泣くのはいいことよ。あんたのせいじゃないんだもの。でも私って、だめだ。あのミスは、確かに私のミスだもの。泣く権利なんてないんだけどね。でもやっぱり、悲しいっていうか』
そこまで言ったとき、猫は思い切り身体を震わせた。
あの、ぬれた犬がよくやるやつだ。
おかげで私も、泡まみれ。
『……よくもやったね』
そしてシャワーを思い切りかけて、わしわし洗ってやった。
抗議するように、みーみー鳴いていた。拾ったときの鳴き声より、ずっといい鳴き方だった。
そして私は、翌日、有給を取って、人生初の動物病院へ行ったのだ。
拓斗、拓斗。
たかが猫と、みんな言うだろうか。
けれど私にとっては、拓斗が生きる縁だった。