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6.刺繍の時間ですが、どうやら私には向かないようです 

 それからも夢は私の中に忍んでくる。逃れられない私は少女の心情を共有しながら、ナラ・ガルさんの過去に触れる。


『嫌よ! なんであたしがナラ・ガルと婚姻しなければならないの?』


 少女の憤りの感情が、望んでもいないのに押し寄せてくる。夢の中の私は、彼女の感情という部屋の片隅に体育座りする状態なので、いやでも伝わってきてしまう。

 目の前に座っている老婆はネハとは対照的に、まるで深い森の中にある一本の大木のように動じなかった。


『ネハ。もうすぐおまえも名を得るだろう。男と一緒になり、子を産みなさい』

『だからって、なぜナラ・ガルなの。プリャだって知っているくせに。あたしはあいつが大嫌いなのよ』


 こぶしを握って肩を震わせるネハという少女は、まえに夢で見たときよりも成長しているようだ。耳に届く声が、いくぶん低い。

 プリャと呼ばれた老女は静かな瞳でネハを見つめている。ほんとうに? というように。ネハはその視線を受けて、ほとんど地団駄を踏む勢いで叫んだ。


『プリャは何もわかってない。あたしにはわかるのよ、あいつはただの亡霊なんだから。得体の知れない化け物だわ!』


 言い捨てて、ネハは家の外へ飛び出した。あの重いマットの仕切りを引きちぎる勢いで出て行くと、薪をいくつか抱えたナラ・ガルさんとぶつかりそうになる。からん、と薪が落ちる乾いた音。


 身長の伸び止まったネハとは対照的に、ナラ・ガルさんはすでに頭が天井に届く勢いだ。若木のように伸びやかな四肢。


 ネハの言葉が聞こえていたのだろう、気後れしたように眉を下げる。


 ネハの感情が揺らいだ。怒りから、戸惑い、苛立ち、もどかしさへと――それから、悲しみ?


 ナラ・ガルさんはただ申し訳なさそうに目を伏せ、落ちた薪を拾おうとした。ネハの怒りの原因が自分であると知っているのだろう。


 ネハの焦れったい気持ちが流れ込む。


 いつもそうだ、とネハの心の声がこだまする。こいつはいつも女というものを遠くから守るだけ守って、自分の気持ちを表に出さない。そんなのは生きたまま死んでいるようなものだ。もっと、感じたままを言えばいいのに。


 少女はそう思っている。


『あんたのそういうところが一番きらいよ。あんたは何もかもを、見ているようで見てなんかいないんだわ』


 あたしが何を望んでいるかも、知ろうともせず。


 はっとしたように顔を上げるナラ・ガルさんを置いて、ネハは暮れゆく草原を駆け登っていく。

 場違いかもしれないが、私は彼女の視点で仮家ガダの外に出て、ネハの視力の良さに驚いた。両目1.5の私だったが、山育ちのネハは世界が違う。はるか遠くの梢にとまる鳥の数までわかるようだった。 


 そして高原の中に一本だけある大木に抱きつくようにして、頬を摺り寄せる。同時に、ネハの心がとたんに凪いでいくのを感じた。かんなぎとはこういうふうに世界を感じるのだろうか。


 木の根が水を吸い上げ、枝から葉の先までめぐる脈々とした音。よそ者である私には、口では言い表せない不可思議な感覚に包まれる。


 あるいはそれは山の奥、人の立ちいらない朽ち果てた神社に足を踏み入れたかのような。


 たまが魔力が響きにくい、澄んだ場所だと言っていたが、あるいはそれはここの土地が持つ力のせいなのだろうか。


 私はネハの感情の波に揺られ、苛立ちの原因がナラ・ガルさんであることはわかったけど、その奥深い理由は明確な形を持たなくて理解することはできなかった。


 結局ふたりはまったく歩み寄ることのないまま許婚いいなずけとなる。ネハが真名まなを手に入れたときに夫婦になると決められた。


 しかし、その時は来なかった。







「後味が、悪い!」


 私は目が覚めるたび、開口いちばんにため息をつく。

 

 誰だって言いたくないこと、知られたくないことのひとつやふたつあるはずだ。きっと彼の心に眠るであろうそれを、私は目を塞ぐこともできずただ眺めている。


 ナラ・ガルさんの私への態度も、依然として堅いままだ。


 私はのろのろと着替えながら、改めてナラ・ガルさんについて考えた。


 これは私の予想だけど。

 ユーリオットさんや月花ユエホワとは違って、ナラ・ガルさんは成人した大人である。そのぶん、ひとりの時間もまた長かった。だからこそ余計に他人との距離を簡単に崩したくないのだと思う。それは私が会社にいたときも同じだったからよくわかる。


 たとえば休みの日に何してるのとか、個人的なことを聞かれてちょっとめんどくさいと感じるとする。その場合は普段から、そういうことを聞かないで下さいという雰囲気を出しておくのだ。そういう人だと一度見なされてしまえば、あとは誰も踏み込んでこない、決まった距離が出来上がるから。


 ただ今回はそうはいかない。もちろん日本に帰りたい、拓斗ともふりたいという感情が先には立つけど、今の私はこの世界で出会い助けてももらった彼らにきちんと向き合って、前向きに過ごしてほしいと思っているのだ。


 だから私はナラ・ガルさんが嫌な気持ちにならないような距離感を保ちつつ、でもどうせなら一緒に楽しく過ごしたくて、彼の好きなことに興味を持とうとしてみた。


 残念ながらというか、彼の好きなことと言えば。





「……私もやってみようかな」


 他にやることもないし、という言葉は飲み込んで、今日も今日とて刺繍に没頭するナラ・ガルさんの隣でそう呟けば、彼の金色の瞳がきらりと光った。


 いそいそと彼の部屋へ行き、そんなにその部屋に収納できていたのかという信じられない量のはぎれの山を持ってきて、このときばかりは満面の喜色をのせて、普段の距離もなんのその、あれこれと教えてくれた。人とは自分の好きなことを話すとき、こんなにいい顔になるのである。


「ひとくちに刺繍といってもいろんな刺し方があってね。人それぞれ得意は違うから、得意なやつをたくさんやるといいんだ。まずは初めて刺繍をするときの手習いの型から。これをまねしてやってみてごらん」


 そう言って差し出されたのは、一輪の花が縁取られた見本の布だ。レベル1といったところか。


 ハンカチくらいの茶色い布に、緑色の葉と茎、それから花弁は水色っぽい水仙のような植物が手本のように縁取られている。

 刺繍ってまじまじ見たことないけど、ひたすら糸を往復させたりくぐらせたりして模様を浮かび上がらせているんだ。


 おそるおそる葉っぱから初めてみたが、布の表面から刺して裏から引き抜くのにも五秒くらいかかる。そしてまた裏から差し込む位置をずれないように確認して、表面へ戻ってくる。


 これだけでかなりの時間がかかった。ようやく一目。肩もこったし首も目も疲れたんですけど。私は完成までの道のりを思いくらりとした。これで手習い?


「な、ナラ・ガルさん。これって慣れるまですごく疲れますね。ちょっと休みたいっていうか」

「あとで揉みほぐしてあげる。大丈夫、俺は上手に疲れを取れるよ」

「私にかまってばかりで、ご自分のができてないですね? 申し訳ないので、どうぞ進めてください」

「うん、だからあなたが一人でもできるようになったら、俺は自分のを縫い始めるよ。さあ続けよう」


 逃げ場なし。


 私は腹をくくってひとつ深呼吸して、やったるわいと再び針を手に取った。

 そのまましばらく、ちくちくと見よう見まねで進めてみる。沈黙の中でふたりして小さな布を覗き込み、私が間違うとナラ・ガルさんの巨体がぴくりと揺れる。私は慌てて針から糸を引き抜いて、反対側から糸を引きずり出す。間違いひとつ直すにもすさまじい労力が必要だ。


 それをひたすら繰り返す。なんともいえない沈黙が横たわった。

 

 ようやく葉の部分が出来上がった。見本はチューリップの葉っぱのように美しい平行脈なのに、私のは道路で干からびた業務用手袋みたいになっている。


「……ほら。さっきも言ったけど、得手不得手あるわけで。誰しも経験を積む必要があるわけだし」


 ナラ・ガルさんは辛抱強く微笑んだが、できる気がしない。私は変な疲労でくたくたである。日本でもふとんカバーとかハンカチとか、刺繍されてるものもあったけど、あれってすごい手間がかかっているんだなあ。いわんや着物をや。


 まあ時間はあることだし、しょうがない、自分で言い出したことだ! と息巻いて、その日私は取り組んだ。すごくまじめに取り組んだ。次の見本はレベル2の羽ばたく鳥。ピンクっぽい色でかわいい。


 なんだ、さっきのより簡単そうではないか。一色だし。私は気安く考えて、意気揚々と針を取る。


 結果、ナラ・ガルさんなら数十分で終わるものに一日かかったうえ、出来上がったのは名のある抽象画家が口で描いたミジンコみたいになった。


 ナラ・ガルさんは始終フォローをしてくれたが、頭の中の「この子どうしよう」感はごまかせていなかった。


 得手不得手と彼は言うが、私の得手はどこにある。







 そんなふうに日々は過ぎていった。


 打ち解けるとはいかないが、どちらかというと馴染むように過ごすことができているかもしれない。


 多くを言わなくても何をしたいかわかるだとか、こういうことを考えているのかなだとか。少しずつだけど、表情も和らいでいっているようにも見えた。


 だけど楽しそうに表情を崩した次の瞬間には、彼ははっとしたように表情を凍らせて、また殻にこもるように私を遠ざける。まるで自分が楽しむことに罪悪感でも覚えているように。


 そして彼は毎日欠かさず、朝と夕方に仮家ガダを上った先にある大木のふもとの石へ足を運ぶ。黄色い花を持って。


 その石が何なのかを聞けば、今の彼は話してくれるのかもしれないけど、私は聞かないでいる。


 彼が自分から話したいと思わなければ、何も変わらないのだ。







「次はね、これ。この模様が大事。どの図案にも入れられるやつでね」

「……」


 私の刺繍の腕も、あまり変わらないんだけど。






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