5.少女の夢、たまとの話、彼の説教
奇妙な感覚に包まれている。
それはたとえて言うなら、自分の靴を履いていたのに、気づけば他人の靴に替えられていた、そういう奇妙な居心地の悪さに近かった。
『朝だよ、起きて』
朝? それなら起きなくちゃ。でも瞼が重くて言うことを聞いてくれない。
『ネハってば。プリャに怒られてもいいのか?』
それはいやだ。私はそう思ってしぶしぶ目を開ける。低い天井、薄っぺらい毛布。そして覗き込んでいる少年を見て、あたしは反射的に声を上げる。
『ナラ・ガル! あたしの部屋に入らないでって、何度言わせるつもりなの』
私の声ってこんな細くて高かったっけ。勝手にすらすらと言葉が口から出て行く。そんなことを思いながら少年を見つめる。
小学生のなかばくらいだろうか。その少年は燃えるような赤い短い髪に、金色の瞳を持っている。
教会のステンドグラスから飛び出してきたように清らかで、衒いのないまなざし。その目元の柔らかさに見覚えがある。
えっ、ていうかナラ・ガルさん? どういうことだ。
『だって、ネハが来ないから。プリャが呼んでこいって』
困ったように眉を下げるナラ・ガル少年。まじか、こんな華奢でお人形のように可愛らしい少年が、将来あんなにごつくて雄々しい用心棒になるというのか。
男性ホルモンとか成長期ってすごい、とショックを受けていると、身体がひとりでに動いた。手元にあった枕をナラ・ガルさんに投げつける。
『神性の高いこのあたしの部屋に――。出てって、次やったらプリャがどうかばっても追い出してやるんだから!』
拾われ子のくせに、と吐き捨てた私の言葉がナラ・ガルさんの顔から表情を奪った。
悲しむわけでも怒るわけでもなく、ただ静かに私を見つめ返している。幼い顔立ちからは、どのような感情もすくい取れなかった。彼はごめんと小さく呟いて部屋から出て行く。
心底からの怒りの感情が、私の意識に流れ込んでくる。それはまるで耳に油を注がれるように不愉快で抗いがたいものだった。
これは私の感情ではない。どういうことだ――そう思っているうちに、身体が勝手に動いた。寝台から降りて、部屋の隅にかけてあるいびつな鏡に向かう。
足裏にはしっとりと冷たい土を感じるのに、どこか現実的な手ごたえのない状況。
そして鏡に映った顔を見て愕然とする。
腰まで届く三つ編みの茶髪。浅黒い肌。やや釣り気味の紅茶色の瞳。見知らぬ少女。
そして私は目を覚ます。
※
目を開くと、薄闇の中にある風化した天井とぼろぼろの土壁。それは昨夜寝る前に目にしたものと同じで、しかし夢で見たものにも酷似していたから私は混乱した。
慌てて身体を起こして自分の頬に両手を当てる。ぺたぺたと触ってから離し、目の前に広げて手のひらをじっと見つめる。見覚えのある手相。私の手だ。ピアノは弾けないがブラインドタッチはそこそこできる、人生の苦楽をともにしてきた、私の手だ。
はっとして顔を動かす。夢と同じ位置に、壁と同化するほどに汚れた板のようなものがあった。
寝台を降りて、その前に立ってみる。ひやりと冷たい湿った土の感触が裸足の足裏に伝わってくる。私の顔の位置よりもだいぶ低いところにあるそれは、まだ伸び盛りの子の顔の位置にあるように思える。
屈んでそっとその表面を手でこすると、土と埃が嘘みたいに固まったものが薄く剥がれ落ちて、傷だらけの曇った鏡が出てきた。ぎりぎり鏡としての役目を果たすそれを覗き込めば、ちゃんと私が映りこんでる。
「……ネハ?」
って、誰? うつろに呼んだ見知らぬ少女の名前が、空気に溶けた。
「おはようございます、ナラ・ガルさん」
ナラ・ガルさんから借りた服を着て居間へ出ると、彼はいつものように火を熾し終えて、斧の手入れをしていた。
ちなみに借りた上着はそれだけでワンピースになってしまうので、縄で浴衣の帯のように調節して着ている。靴は羊毛でざっくり編み上げたサボっぽいもの(ナラ・ガルさんお手製)をもらえている。
彼はいつも、朝と夕方はいなくなるのだが、今朝はもう戻ってきていたようだった。
そういえばククルージャでも誰よりも早く起き出して活動していたのは彼だった。勤勉で優しくて器用って、現代日本ではモッテモテでは?
「……ああ、おはよう」
ナラ・ガルさんは一緒に過ごし始めてしばらく経った今でも私への態度に変化はない。バス停で待っている他人どうしのように、ちらりと視線を合わせた。
そんな彼に対して、私はとりあえず距離を保つようにしている。
ここでどう振る舞うべきか、やっぱり私にはわからないのだ。だったら衣食住に感謝して働いて、天珠の出現を待つしかない。
そう、天珠。
私は改めてそう考えて、気が重くなる。今まではごたごたの中で天珠が現れたけど、冷静に思い返せばひたすら恐縮することではないか。人が人を心から大切にするというのは、そう単純なことではない。
天珠は愛情の上澄みだ。そんな貴重なものをもらっていいのか、そもそも私相手に愛情を持ってもらえるのか、そしてそれが必要でここに居候させてもらっているという後ろめたさで、不安と居心地の悪さがないまぜになっている。
「ナラ・ガルさん、この家に女の子って住んでいたんですか」
そんなことをつらつらと考えていた私は、ナラ・ガルさんとの距離を考えずに不用意にも尋ねていた。起き抜けでいくら頭が回っていなかったとはいえ、あまりにもうかつだった。その質問をすべきではなかったとすぐに思ったのは、金色の瞳がにわかに薄くなったせいだ。
「……どうして、そう思うのかな」
部屋に鏡がと、なるべく軽く聞こえるように返せば、そうか、そうだったなと呟いて目を伏せた。顔から表情がすっぽり抜け落ち、そのくせ言いようのない苦味だけは感じ取れた。
まるでつつかれた貝みたいに、その全身をまるで殻のように固くし、拒絶している。
出会ったばかりの私だったら、きっと何も言わずに見なかったふりをしただろう。だけど今は、関わった以上は力になれたらと、そう思うのに。
届かないのだ。私の言葉は。
今ここでできることは何もないと思ったので、私は静かに部屋を出た。
外へ出れば、昇りたての光が目を焼く。山の麓から吹き上げる、朝の乾いた冷たい風にぶるりと身体が震えた。通り抜ける緑のにおい。
不用意な質問をしてしまったと反省する。けどきっとこのまま過ごしても、ナラ・ガルさんとは平行線だ。だとしたら遠ざけられる覚悟をしてでも、こちらから踏み込むことも必要なのかもしれない。いずれは通る道だったと、ちょっと開き直りもした。どちらにしろ口から出た言葉は取り消せない。
私は切り替えるつもりで、大きく深呼吸をして伸びをした。
それにしてもこの、目の前に広がる牧歌的な世界。
ゆったり流れる雲の影が草原を横切り、羊は何もかもを知っている大賢人のような顔で口を動かす。耳に届くのは葉擦れと、羊の歯の音だけ。
「連休に来たい」
ぽつりと呟く。日本で働いていたなら大型連休に、できれば夏に、ぼうっとするために来たい場所だ。
さて、と私はあたりを見回した。働かざるもの食うべからずという信条を実践しなければならない。
外の作業には、薪割りや畑の手入れ、食べられる植物の摘み取り、羊と家の管理などがある。が、どれもすることを許可されていない。本当に見かけによらず頑固な人だ。
「そうだ、水汲み」
いつもはナラ・ガルさんが済ませてしまうけど、甕を覗き込んでみれば今朝はまだのようだった。これなら怒られないだろうと、手ごろな甕を両手で持ち、仮家から少し下ったところの泉へ向かう。
草は青々と一面に茂り、中には腰のあたりまで伸びているから、足元はまったく見えない。うっかり石でも巻き込めば足をひねってさらに邪魔者になってしまうので、慎重に降りていく。
泉まであと少しというところで腕が疲れたので、ちょっと休憩する。坂を転がらないように注意しながら水甕から手を離す。取っ手がないからとても不便だ。工夫したのを作れたらいいのになあ。
草むらに座って後ろ手を突けば、背の高い植物にすっぽり覆われてしまう。
「ねえたま、けさ不思議な夢を見たの」
あのね、と続けようとして、返事がないのに気づく。聞こえなかったのかなともう一度尋ねるが、やはり何も聞こえない。
腰の巾着(ヒルダがくれたのを、ナラ・ガルさんが貸してくれた服に付け替えたものだ)に入った頭輪の気配が今までになく薄いような。
手のひらに取り出して呼びかけると、ようやくかすかな声が聞こえた。縁子、とか細い声。
「たま? どうしたの、声が遠い」
(――以前も言ったが、この場所はひどく魔力が通りにくい。加えて不思議に澄んだ力も感じる。縁子と疎通するのに、ひどく力を割く)
届いた声は、遠いだけでなく奇妙にざらついていた。昔のテレビで、画像が乱れたときのような。
そういえば魔力が響きにくいとか言ってたっけ。そのせいで、本当は私のことを忘れているはずだったナラ・ガルさんが、少しのあいだ私の名前を覚えていた……のだったか。
ただそう言われても相手はあくまで頭輪なので、正直あまり気遣おうとは思えなかった。本体じゃないし、たまだし。
(それで、何か用か。手短にしてほしいが)
「ああ、うん。びっくりするほど鮮明な夢を見たの。その夢の中で私は小さな女の子で、それもここの家だったっぽい。小さいナラ・ガルさんまでいて」
夢を思い返しながらたまに話す。その子の言葉も、感情までも自分のものみたいに感じられた。他人の喜怒哀楽を避けようがなく共有するだなんてぞっとしない。特に流れ込んできた怒りの感情にはあまり免疫がないので、ひどく疲れた。
ふむ、とたまは考えを巡らせるように沈黙した。
(なにかの書物で読んだことがある。不毛の山岳地帯、小柄な遊牧民族が暮らし、中には巫じみた性質をもつものもいると)
小柄な遊牧民族。仮家の天井が低いのはそのせいか。
でもかんなぎとは何だ。
(魔法とはものごとを体系づけて整理し、目的に合わせて編み上げる論理的な技だ。緻密さと忍耐強さと数多くの試行錯誤の末に得られる道筋のこと。対して巫はむしろ生まれ持った勘や感性の鋭さでものごとに繋がる者のこと。その娘、夢に近しい体質だったのだろう。その娘の寝台を使ったならじゅうぶんありえる事象と思うがな)
へえ。なんか初めてたまが魔法使い(の弟子)っぽいと思えたぞ。
「つまり、私は夢を通じて彼女の小さいころを覗いてるってこと? 現実にあったできごとを?」
そうなるな、と言うたまの声が疲れてきた。私は手早く、もうひとつ聞きたかったことを尋ねた。
「あとさ、これが最後の転移って言ってたよね」
切り込むように聞けば、たまは黙った。
「なによその反応。これって最後の転移なんでしょ。あとひとつ天珠を手に入れれば、阿止里さんたちへの借金はたまに返してもらって、私は日本に返してもらえるんだもんね」
ちょっと都合よく確認をすると、案の定たまはほだされなかった。
(待て。天珠については正しいが、借金のくだりは初耳だぞ)
ちっ、ばれたか。私は開き直ってみる。
「魔法使いの弟子でしょ、お給料よさそうじゃん。私にさんざん迷惑をかけてきたんだから、ちょっとは融通してくれてもいいでしょうよ」
(あいにく魔法使いの弟子は無給でな。丁稚奉公のようなものである。なんとか糊口をしのいで生きている涙ぐましい存在なのだ)
「あんたね、今の私の状況って、実質あんたのために働いてるようなもんじゃないの。立派な雇用関係よ。賃金として四人への借金、協力しなさいよ!」
(前向きに検討しよう)
こいつに口で勝てる気はしない。こういうことになるから、世界では契約書というものが必要なのだ。私は下唇を噛みながら半眼で頭輪を見下ろして、なんとか乗せられないものかと持ち上げてみることにする。男性にはわりと利く、よいしょ法だ。
「それにしても、たまって本当にすごい魔法使いなんだね。あんたの予知だっけ、時間を越えたり、転移したり、人の記憶まで変えたり。て独り立ちもできるんじゃないの」
たまはまんざらでもなさそうに鼻を鳴らした。
(ふん。ようやく敬う気になったか? 予知はその絶大さゆえ使用を禁じられるくらいに、世界でもまたとない特殊な力。我輩は稀なそれを使える、すごい魔法使いの卵なのだぞ)
敬う気にはならないので、私は黙っておく。すごいとは思うが、そもそも私は権威主義とは縁遠い。こっちの世界ではたまは有名大学を出ているかのような特権階級なのかもしれないが、私の尊敬する対象からは程遠い。私がこういう目にあっているのは、だいたいこいつのせいなのだ。
「禁じられてたのに使いまくってんじゃん……。まあでも、魔法使いの弟子って響きはかっこいいね。唯一無二って感じがする」
これはわりと本心だ。
映画とか小説でも、魔法使いとその弟子って一蓮托生、師弟愛! のイメージだ。横柄なこの弟子も、師匠の前ではかしこまったりするのだろうか。
そんなことを考えていると、たまが面白くなさそうに呟いた。
(……唯一無二ではないぞ。我輩には兄弟子がひとり、いるからな)
「えっ、そうなの?!」
聞いたことないと言えば、別に聞かれていないしなとしれっとしている。いちいち癇に障る。
しかし意外だ。たまとの会話からアレクシス以外の第三者の話題が出るなんて初めてかもしれない。兄弟子ってことは先輩なのか。こんな後輩いたらすごく面倒かけられそうだとか想像したところで、たまが続ける。
(失礼なこと考えてないか? 兄弟子とはいってもだな、我輩のほうが面倒をみたりしているんだぞ。魔法使いの弟子にあるまじき無気力なやつで、まったく世話のやける……)
なんだか個人的な恨みをぶつぶつと言っている。魔力の動かし方の教本を広げた上で寝てよだれまみれにしただとか、ごはんも好みの味付けじゃないと無言で見つめてくるだとか。
あっ、そういう……と、結構苦労性だったのかもしれないたまの生活が垣間見えた。
ナラ・ガルさんと再会したときも思ったけど、人って集団の中にいるときとそうでないときでずいぶん印象が違うことがある。
私はふと、学校のクラスを思い出す。だいたいいくつかの集団に分かれて、いったんその集団ができあがると、他の集団との接点はあまりなくなる。でも委員の話とかでいざ他の集団の人と話すと、意外なくらい話が合ったりする。かと言ってまた集団の中に戻れば、ぜんぜん関わらなかったり。
その集団の中でさえ、ひとりひとりよく見てみると無理してそこに属そうとしていたりもする。部活とか仕事でも、相手が年上か年下かでも態度が変わるっけ。誰もがお祭りの屋台みたいにいろんな仮面を持っていて、そのときに合ったものを無意識に選んでいるかのよう。
まあ、きっと私だってそうなんだろうし、いいとか悪いではなく人間はそういう生き物なのだろう。
私以外の誰かと一緒にいるたまを想像したとき、声が聞こえた気がして振り向いた。
草の隙間、遠くに赤い頭がきょろきょろと動いている。草が深いのであのあたりからは私は見えないかもしれない。
膝立ちになって頭を出すと、彼の焦ったような顔から表情が抜け落ちた。安堵とも困惑とも取れる顔。直後、ナラ・ガルさんは唇を引き結び、ゆっくりと近づいてきた。
「私の名前、呼びました?」
「あなたの名前は呼んではいない」
頑なだ。この人は未だに私の名前を呼ばない。私は私でちょっと意地になってなんとか呼ばせようとしているが成功率は0パーセントである。
「こんなところで何をしている?」
「水を汲もうとしてました」
そう答えると彼は私の隣に置かれた水甕を見て、それから近くにある泉を見て、もう一度私を見た。
「そんなことは、しなくてもいい」
「え」
「水の入った甕が、どれだけ重いか知らないようだ。可憐な女性になどとても持たせられない」
「可憐」
「うっかり転んで甕の破片でけがをしたらどうするつもりだ。女性の肌は赤子のように薄く脆いだろう」
「もう肌の曲がり角過ぎてます」
「一人で出歩くことも危険と言ったのに。かどわかしがないとは限らないんだ」
「はるかな地平線のその先まで人っ子ひとり見当たりませんが」
過保護モードに入ったナラ・ガルさんは、私の話を聞いてくれない。このあたりではいわゆる”誘拐結婚”の風習もあるらしく、男性は気に入った女性を文字通りかっさらって仮家に閉じ込め、諦めて婚姻を受け入れるまで監禁するのだと。悪しき風習としてだんだん失われつつあるらしいが、まだまだ名残りがあるんだって。
そんなことを言われても、テレビの向こう側の話にしか聞こえない。実感と危機感を持てないのはけして私のせいではないぞ。360度、私たちと羊さんしかおらんのだ。
ただ訥々(とつとつ)と話すナラ・ガルさんに言い返すのは火に油だともう知っているので、私はただ黙って聞いていた。穏やかに見えて、地雷っぽい部分を刺激すると頑固な一面があらわれる。前に反論してすごく長引いたのだ。二の舞はごめんである。
言いたいだけ言って気が済んだのか、それからナラ・ガルさんは母親が転んだ幼子にするように、慌しく私の全身を眺めて、手早く甕を拾い水を汲む。
私はその様子に、こんなに女性を壊れもののように扱う彼に違和感を覚えた。
いくら何でも、行き過ぎてはいないか。
いつも、「女性だから」というカテゴリで話をするのも。気づかうようにこちらを見る瞳のその奥、襞を掻き分けると、一種病的な強迫観念のようなものすら感じられるのだ。
不思議な夢。幼い少女とナラ・ガルさん。女性への固定された態度。
彼の怯えと笑顔が遠いことに、関係あるのだろうか。
「聞いている? なにかあってからでは遅いわけで」
「心から反省してます」
「心を感じなかったけど」
「込めましたって」
それから一緒に仮家まで登っていったけど、その間もずっと説教された。なぜ。




