1.そろそろ本当に休息がほしいです
私は怒ることが苦手だ。
苛立ちを覚えない、というわけではない。並んでいた列に割り込まれれば腹も立つし、注意もする。
私の管轄ではない仕事を回されそうになるとき。言っていることが矛盾している人。そういうものに触れたとき、不愉快な感情を覚える。
ただそれを、持続できない。
ずっと怒っていることは、疲れるからだ。それに、怒りの感情が抜けてからは、どうしてあんなことで腹を立て、労力を使ったのだろうと自己嫌悪に陥ることもよくある。
だから、ぐっと瞬間的に苛立ちを感じても、やり過ごすように心がけてきた。家に帰って、拓斗に愚痴を言って、一晩寝ればそれで解決だ。
ゆえに、久しぶりなのだ。
こんなにも、何かに、百パーセントの怒りを覚えるのは!
※
「無理。もう無理。もうね、いいかげん、取り決めよう。私はたまに協力している。たまは私に、その理由を話す。それから、私を日本に返す。相互理解って、大切だと思うんだ」
いつもいつも、大事なポイントは微妙にずらして情報を小出しにしやがって。
背後は東尋坊さながらの崖。
私はたまを、指先でぷらぷらとつまみ、いつでも眼下の雄大な密林へ放り込めるんだぞ、とアピールした。
たまはいつもの高慢をひっこめ、なだめるように優しい口調だ。
(ま、まて。話せばわかる)
話せばわかる。
そうでしょうとも。対話とは、いつでも交流の架け橋なのだ。
問題は、「どこまで」、そして「真摯に」話すのか、という点に尽きる。
いますぐここで膝を突き合わせ、その魂胆を洗いざらい知りたいところだが――そうもいかない。
私の背中に、今度こそ、ごりりと硬いものが押し当てられた。
「さっきから黙って聞いていれば、それは独り言なんですかね? 奇矯にも程がある」
月花の声だ。はにかむように微笑んで私の名前を呼んでくれた声が、ふわりと蘇る。
しかし今、背中に刺さるその声は。暖かな、春の日差しを思い出させるものではない。刃のように、鋭い声。
まったくもう、とため息を吐きたくなった。というか、吐いた。信じがたいこの状況も、どうにかしなければならない。
たま、これは私を日本に返すだけでなく、「その他特別報酬」として色をつけるべき、激務では?
なんにしろ、ひと段落したあかつきには、今までなあなあにしてきたことをぜんぶ、話してもらうんだから。
私は心の中で、たまに約束を迫った。
ぜんぶ、きちんと話すこと。あと、日本に返すときに、「ちょっと色をつけて」くれることも! 迷惑料だ。こっちは呑んでくれたらラッキー程度だが、言ったもん勝ちというやつである。
たまはばつが悪そうにしながらも、是と答えた。
安心と期待に、内心胸をなでおろす。理由を聞ければ、ひとまず、心のもやもやも晴れるはずだ。
私はそれから、ゆっくりと背後を振り返る。
以前は、高校生にもなってないくらいだったけど、今の月花は20代半ばのようにも見える。私よりもちょっと背が大きかったのが、目の前の彼は頭ふたつ分は高い。
衣服は厚手の皮の、簡易的な鎧のようにも見えた。胸当てと肩当て、腰や太ももを覆うようにつなぎ合わせられている。湿度の高い密林に適してはいない気もするが。腰には短剣も下げている。
むきだしの腕にはしっかりと筋肉もついていた。サンダルではなく、木靴を履いているのは意外だった。このあたりの風習なのだろうか。
何より目に付くのは、顔の上半分を覆う、木彫りの狐面だ。全体は白く塗られ、ところどころ赤い線が、何かの儀式のように入れられている。
釣りあがった狐の目。そこは細く繰り抜かれているようだ。五百円玉もぎりぎり通せないのではという狭さのため、奥にあるであろう瞳はまったく伺えない。
完璧に対称的なうつくしい唇が、開かれた。
「さあ、返答を。あなたは、斥候でも使者でもない?」
たまの背後は崖だったが、言い換えれば私の背後も同じである。ときおり風が強く吹きぬけ、ふらつくたびに足が震えた。
押し付けられている、巨大な飛去来器は、見覚えのあるものなのに。
どうやら月花は、私のことを覚えていないようだ。これも、たまの転移の影響なのだろうか。
それにしても、斥候? 使者? どういう状況なのだろう。
「ええと。どちらでもないです。あの、気づいたら、ここにいてですね」
事実なのだが、すごく胡散臭く聞こえる! 我ながら呆れてしまう。
月花もまた、話にならないというように鼻を鳴らした。酷薄そのものといった雰囲気に、私はただただ戸惑ってしまう。
「中立地帯に、女がひとり。珍妙なことだけれど、どちらでもないのなら、取るに足らない。兵たちへの慰みものにでもしようか」
不穏なことを呟いて、億劫そうに首を傾げた。私への態度ににじむのは、もはや不用品の処分先に困った家主のようだった。
兵。慰めもの。
これってどうやら、まずいことになってない?
「暴れるのなら、ご自由に。谷へ落ちて、熟れた果物みたいになりますけど」
むしろ、そうなれば手間が省けるといった声音で、月花は私に手を伸ばしてくる。
私は呆然とした。
これは、誰?
別人のような月花。陽だまりのような彼が、こんなふうになってしまった経緯を、過去を思って、私は言葉を失う。
「ゆ、ゆえ」
ほわ。そう呼ぼうとしたとき、右足がすべる。
一瞬の浮遊感に、背筋が凍ったとき、腰をさらうように引き寄せられる。
薄く開かれた口元が目の前にあって、狐のお面の、木彫りのでこぼこまで見える。これだけ近くても、お面に厚みがあるせいか、奥にある瞳は窺い知れない。
でもその近さより何より、月花があまりにも愕然とする気配が伝わってくる。
「いま、なんて」
「い、いま?」
「何を、言おうとした」
「なにを」
何を言おうとしただろう。名前を呼びかけたっけ?
「名前を、呼ぼうと」
「どうして、僕の名前を」
私はようやく気づく。過去で、一緒に過ごした記憶が彼にないのなら、名前を知っているのってかなり怪しい!
「誰も知らないずなのに。なぜ」
「だ、誰も?」
「あなたは、何? 僕を混乱させるもの。よくないものだ。そう、よくないもの――」
惑うように移ろった唇の端が、機械的に閉じられた。月花の声が、冷たく昏く沈んでいった。腰に回された腕が、離されてしまう。熟れた果物になってしまう。そういう鳥肌のたつ予感の直後、新たな声が、その場に落ちた。
「違うわ。そのひとは、精霊の御使いよ」
分厚い木と、金属がぶつかり合う音がしたと同時に、私は地面に引き倒されていた。ざりりと頬を砂がこすり、土ぼこりが喉に絡みつく。
私の背中には、ふわふわ波打つ黒髪の少女が小弓を構えながら、その身を投げ出すようにしてかばってくれていた。親猫が、子猫を守るように。
月花へ視線を動かす。青年が、槍のようなものでぶつかり合っている。ブーメランと鍔迫り合いのような状態。
青年は腰巻きのようなものしか身に付けていない。やはり波打つ黒い短髪、日に焼けた、浅黒いたくましい背中。
一瞬のあいだに、この二人が間に入り、助けてくれたの?
「播族が、出て行け。この地に、二度と立ち入るな」
青年が言った。地を這うような、低い声だ。深い恨みが込められた声だ。
「カムグエンの民ですか。出て行っていただきたいのは、そちらのほうですよ。こんなところで遊んでいるなら、はやく返答をしてほしいものです」
月花は、丁寧な言葉にも皮肉を載せた。
右も左もわからない私だが、彼らが親友ではないということだけはわかった。
「そうやって、すぐに力に頼ろうとするのは、よくないですよ。待てて、あと五日です。お早くどうぞ」
歌うようにそう言って、月花は色黒の青年を思い切り押しのけた。ブーメランを軽く揺らして、私に一瞥もくれずに悠然と去っていく。
明らかに敵意を向けるふたりを、歯牙にもかけない風情だ。月花のその大きな背中からは、どんな状況にも対応できるのだという自信を感じた。
広く、厚くなった肩。大人になってしまった月花から目を離せないまま、私は地面に這いつくばっていた。
月花が森の薄闇に紛れて消えてようやく、おそるおそる目線をあげる。すると、かばってくれていた少女と、目が合った。
青年と似たような、麻の布地を腰と胸に巻いている。頭や耳、首から腕まで、鮮明な色の鳥の羽のアクセサリーを身につけている。足元は、月花とは違って裸足だ。
彼女も、ずっと私を見ていたのだろう。賢そうに瞬く、ココア色の瞳。
「……あ、あの。ありがとうございま」
「あなたは、御使いなのでしょう? ねえ、そうだと言って! 私は、ずっと、待っていたの!」
「は」
「伝承のとおり。まっすぐでつややかな黒髪、黒い瞳。私って、なんて幸運なの!」
「いえ、あの」
憧れのアイドルに会えたかのようにはしゃぐ少女。その奥から、賞味期限が十年は過ぎたチョコレートを見るように視線を投げてくる青年。
転移そうそう、めまぐるしい。
めまぐるしすぎる。
寄る辺なくて、手元のたまをぎゅっと握り締めた。ねえねえ、どういうこと? という意味を込めて。
そこから伝わってくる気配ときたら、ひどかった。もしもたまが人だったなら、静かに目を閉じて手を合わせ、合掌するかのような。そういうものだ。
次から次へと、ほんとにもう!




