11.福となれ
そして夜になり、明け方を迎えた。
夜明け独特の、冷えと湿気で私は目を開けた。
私はリビングの床で眠ってしまっていたようだった。丸めていた背中が痛む。
ゆっくりと身体を起こせば、かけられていた毛布がしゅるりと滑り落ちた。誰かが、かけてくれたのだろう。
まだ薄暗い部屋。その隅には、背を壁に預け、体育座りをしたような格好のゾエさんもいた。眠りは深いようで、目を覚ます様子はない。彼女の身体もまた、毛布に包まれている。
観音開きの窓から斜めに差し込む、まだ控えめの朝の光が、宙に舞う埃を照らし出していた。
私はゆっくりと立ち上がって、エッサラさんがいる寝台を伺う。
真夜中を過ぎたころには、エッサラさんの痙攣はおさまり、呼吸も穏やかなものへと戻っていた。
薄闇のなか、目を凝らして、顔を覗き込む。その色はまだ青い。しかし昨夜の、蒼白とも言えるときよりずいぶん回復しているようだ。
今も、かすかな呼吸音とともに胸は上下している。私は大きく息を吐いた。
寝台わきのまるい椅子にも、ソファにも、誰も座っていない。ユーリオットさんとディオゲネスさんは、ここにはいないようだった。
私は物音を立てないように、そっと足を運ぶ。かたっぽ脱げてしまっていた、役立たずのサンダルが邪魔に思えたので、脱いでしまうことにした。それを指でつまんで、中庭へ出る。
さあっと、清潔な夜明け前の空気が身体を包む。私は無意識に大きく息を吐き、身体を伸ばした。
朝の湿った地面の感触が、足の裏に心地いい。
私は改めて大きく深呼吸して、あたりを見回す。エッサラさんの小さな庭。腰の高さまでの薔薇の木の茂み。目の前にある、小さな池。アメンボが、気まぐれに水面を蹴る。
その池の奥、大きな樹が何本か身を寄せあうそばに、瀟洒な東屋がたたずんでいる。まるで白亜の鳥かごのような中に、親子の姿を見つけた。
私は思わず胸が詰まった。
明け方、透明な空気の中。咲く花々、翻る蝶の羽。白い東屋の、よく似たふたり。それはまるで、よくできたひとつの映画のワンシーンのようだった。
異なる「世界」が、近づいた瞬間。ごみを拾うことを善きこととする人と、悪しきこととする人。仮に今までそうであっても、すべては対話から始まる。終わりと始まり。
何も悪いことはしていないのだが、居心地はよくないので、そっと近くの樹に身を寄せる。そのまま覗き込めば、彼らは正面から対峙し、小声でなにやら会話をしているようだ。
私はちょっと眉をひそめた。遠くから見ても、そこには静かな緊張があるのがわかる。
ただ、お互い激しく憎しみ合うような様子でもなかった。
まともに会話をしたことなど、今までなかっただろう。しかし今は、近くに座って、目を見て、話す努力を、し始めている。
私は静かに踵を返して、もう一度エッサラさんの様子を伺うため、部屋に戻った。異常はない。
再び外に出る。裏手の井戸から、新鮮な水を汲みなおし、寝台の近くに置かれたたらいの水を入れ替える。
水差しにも、冷たい水を入れなおし、コップを机においておく。
さあ、帰ろう。私にできることは、もう何もない。
※
「……ここにいたのか」
「あっ、おかえりなさい。ちょっと待って下さいね。もう少しでできますから」
ユーリオットさんの邸に戻った私は、朝食を作っていた。いまやすっかり日も昇り、ガラス窓を通して差し込む光が床や壁を反射して、部屋じゅうをきらきらと輝かせている。
完徹をし、さらに父親と会話をしてきたのであろう彼の顔は、さすがに疲れが滲んでいた。私が座るように声をかけると、うなずいて、ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。
パンは、おそらくユーリオットさんには重いだろうと思ったので、スープを作った。たまねぎを刻んで、キャベツもちぎってゆでる。塩で味を付けるが、どうしても旨みが足りないので、肉を入れたかった。だが、あいにく生肉はないので(冷蔵庫、ほんとうに欲しい)、保存用の燻製肉をえいやっとぶち込んでごった煮にしてみた。
結果。燻された感じがスープに染み出て、独特の風味が出た。悪く言えば、ちょっとえぐい感じになってしまったが、それはそれ。栄養的にはね、ばっちりなので! と、心の中で言いわけしつつ、皿へ盛る。
貴族のお坊ちゃまに出すものではないが、まあいいでしょう。厨を出て、食堂のテーブルへ運ぶ。カトラリーは、すでに置いてある。
「食欲は、ないんだが」
「だめですよ。すこしでいいから、おなかに入れてください」
私が丹精込めて作ったスープを、まるで毛虫のプールのように見ないでほしい。
一日のエネルギーは、朝ごはんからなのだ。
ぐいぐいとお皿を押し付けて、スプーンも手渡した。私もご相伴に預かるので、いただきます、と手を合わせる。
スープをすくって口に含み、レモン水(井戸水に、庭になっているレモンを薄切りにし、水差しに浸したものだ)でのどを潤す。
ユーリオットさんは渋々というように、たまねぎをスプーンでつついた。
かちゃかちゃと、お皿と金属のこすれる音が、食堂に響く。
「――おまえが、言ったことだが」
はい。と私は、小さくうなずく。
「エッサラが、おれを、たいせつにしているって」
私は手を止めて、ユーリオットさんに向き直る。彼もまた、意を決したかのように、唇を引き結んでいる。
治療をしたときにあった、あの人形。彼はそれを、すでに見ている。賢い彼は、きっとおおよその見当は、ついているのだろう。
「そうですよ。彼女は、生まれる前から、あなたのことを大切にしていたんです」
私はゆっくりと、順を追って話した。
エッサラさんは、ディオゲネスさんとユーリオットさんのふたりとも、愛していること。
ユーリオットさんを、嫉妬に狂う父親の妻から守るために、毒杯を手にしたこと。
一日のうち、わずかな間、正気を持っていたこと。
ふたりに、認め合ってほしいこと。
ユーリオットさんの幸せを、願っていること。
そうして、毒花を食べたこと。
「……こう言っては、不快に思うかもしれませんが。彼女は、家から出たこともない、貴族の娘だったわけで。ましてや、ユーリオットさんを生んだのも、十三のときです。追い詰めたら、深く考えずにやってしまうようなところがあっても、やむをえないというか」
だから今回も、自分がいなくなれば、父親が息子を愛すだろうと、浅はかにも、楽天的にも、ドクニンジンを食べたのだ。
ユーリオットさんは、詰めていた息をほそく、長く、吐き出した。
それから、そうか、と呟いた。
「こっそり街へ下るたび。広場や道で、家族のやりとりを目にした。いたずらをした子どもを、母親が叱る。父親は、なんていうんだろうな、子どもを首に乗っけて、すごく高い目線にしてやっている。おやつをねだる子どもがいる。母親が、仕方ないように買い与えている。そういうものを、おれはずっと、異国の果物のように見ていた」
美味しそうなのはわかる。
だが、どうしたらいい。剥き方も、食べ方も、わからない――。
「遠くから、仕事をする父親を眺めたこともある。こっそり、母親も。だが、目の前に飛び出して、こんな子は知らないと、生まれてはいけない生き物だと、そういわれるのが、こわくて」
肘をつき、頭をくしゃりと抱えるようにうつむいて、ユーリオットさんは堰が切れたように話し続ける。
「何が悪いのか、どうすればいいのかもわからず、おれはただすべてを憎んだ。ぜんぶ、この世界が悪いんだって。すると気持ちが、少し楽になる。そして同じぶんだけ、寂しくもなった」
私は黙った。黙って、彼の震える声を聞いていた。
「きっと、母の白痴からの回復は、時間がかかる。それに、完全には治るのは難しいかもしれない。そしてディオゲネスはやっぱり、おれが気に食わないだろう。あいつは、母を独り占めしたいんだ。そのことが、よくわかった。ただ、さっきふたりで会話をした。無視を、しなかったんだ。あいつはおれの存在を、はじめて認めた」
ユーリオットさんの存在を、頑なに拒絶していたあのディオゲネスさんが。
エッサラさんの望みだと、知ったからだろうか。だとしたら、彼もまた、愛する人のために変わろうとしているのかもしれない。
ユーリオットさんの語尾に滲むのは、苦々しさでもあり、喜びでもあり、そして長年耐え続けたあとの、開放感でもあった。
私はそっと、微笑んだ。エッサラさん、あなたは、これで満足するかな?
そして私は、これからの、この家族について考えた。揺り椅子で寛ぐ母親。その側で、静かに勉強する息子。開け放たれたテラスから風が抜け、ゾエさんがお茶を淹れてくれる。夕方には、父親が花束を持って帰宅する。
夢見がちだろうか。でも可能性は、もうゼロではないのだ。
「――それにしたって、おまえは女中失格だな。雇い主を引きずりまわしたり、怒鳴ったり。以前、部屋に飛び込んできて押しつぶそうとすらしたな? まえの勤め先で、どういう教育をされたんだ」
湿っぽい空気を押しやるように、ユーリオットさんは顔を上げて、渋面を作った。私は彼のこういうところが、とても素敵だと思う。他人のために、自分を立て直すことができる人。さめざめと泣かれて感謝されるより、よっぽど気持ちがいいではないか。
私はそれに合わせるように、にっこりと笑ってみせる。
「そうですね、とても素敵なご主人さまたちでしたが、厳しい教育ってされなくて」
とても、を強調した言葉をきいて、ユーリオットさんはぴくりと眉を動かす。
「ふうん。複数、いたのか。ずいぶん、可愛がられていたようだ」
「四人、いました。可愛がる……そう。そうですね。今思えば、そうだったのかも」
そのうちのひとりは、あなたですとは言えずに、私はククルージャにいたころを思い出す。
乾いた風が、洗濯物の間を通り抜け、中庭の椅子に座っている私。気づけば、手の届くところに座っているご主人さまたち。
いま思い返せば、ほんとうに甘やかされていた。あそこが居心地よくて当然だ。彼らは私を、いつだって守っていてくれたのだ。
平和な箱庭。だが、それに慣れることは危険を意味する。私は守られるために、彼らと一緒にいたわけではない。
もりもり稼いで、借金を完済し、拓斗の待つアパートへ帰るためだったのだ。
そういえば、もういいかげんたまと腹を割って話をせねば。そろそろ回復しただろうし、ギブアンドテイクの関係ならば、私にも情報は開示されてしかるべきだ。もう、探り合いはなしにしたい。
そんなことをつらつらと考えていると、隣でかたん、と椅子の動く音がした。
見ると、正面にいたユーリオットさんが、すぐ右隣に移動したところだった。
「何を、考えていた」
「拓斗のことを」
「は?」
「いえ、過去にあったできごとを、考えていました」
「おまえの、いまの主人は、おれだろう」
「そのとおりです」
「おれ以外のことを考えるのは、怠慢では?」
「ああ、確かにそうですね。失礼しました」
「わかればいい」
そういいながら、じっと私の目を覗き込んだ。
確信を求めて揺れる瞳。そうだ、彼はようやく、人に愛され、愛することをはじめたばかりだ。私はふっと微笑んだ。花が土と水、光が必要なのと同じで、子どもには親の限りない愛が要る。
「そんな、不安そうな顔をしないでください。きっと、これから、うまくいきますよ」
「は。知ったような口を」
「なんなら、私はいつでもお母さん代わりになりますよ」
「なに?」
「年齢的にも、なんとか母親と言える年ですし。寂しくなったら、甘えたくなったら、ほら、寄りかかってもいいわけで」
「ばかな」
仮にユーリオットさんが14、15歳くらいだとして、……ぎりぎりアウトか。姉のほうがよかったかな?
ユーリオットさんは不機嫌そうな顔になる。
腹を立てることは、大切だ。守りたいものがあって初めて、人は怒れる。
「母親は、ひとりでじゅうぶんだ」
「では、姉でもいいですよ」
答えながらも、私は彼がしっかりと母親の存在を認めていることが、うれしくてたまらなかった。
「姉も、いらない。おまえが母親でも姉でも、俺は困る」
「困りますか」
「そうだ。どうしようもなく、困るんだ」
語尾に滲むのは、確固とした意志だった。私はちょっと驚いて、彼の目を見返した。
先ほどまで不安に揺らめいていた瞳では、なかった。
熾火のように、かすかな、しかし確かな熱が、そこにはあった。私はびっくりしてしまう。確かに男の子だった顔つきが、いまや男性のものへと、変化しているのだ。どうして、こんな一瞬で変わってしまうのだろう。
彼はそのまま、とっておきのないしょ話をするように、私の耳に口元を寄せた。私はちょっと身構えたが、せっかく人に対して近づこうとしているユーリオットさんを否定したくなくて、受け入れるように首を傾けてみる。
「なあ、聞け。おれはこの前、名を手に入れた」
「な?」
「そうだ。そして真実、女を愛せる身体になった」
なんの話だろう、と頭を巡らせて、私はあっと、思い当たる。
前にたまが説明してくれた、真名のことだ。家族にすら明かさない、真実の名。たしか、女は初潮とともに、男は――
彼が言わんとすることがぼんやりわかり、私は真っ赤になった。そういう、個人的なことを、下働きに言うのって、ふつうなの?
「書物では、知っていたが。興味深いものだ。そこに定期的に血がたぎるのは、ふつうのことなのだという。女に、"男忌み"があるのと同じように。だが、どうしてだろうな。おまえのことを考えると、より熱く、苦しくなるんだ。のみならず、心臓までがどくどくと、脈打ちだす」
私はとても聞いていられなかった。ユーリオットさんは同世代の男の子との関わりもなく、学校で保健体育の性教育も受けていないのだ。恥ずかしい、とか、そういう概念がないのかもしれない。
不思議に思ったり、不安に思うのは当然なのだろうが、男きょうだいのいない私には免疫がなさすぎる!
「おまえの目は、心地いい。おれの肌を、肉を通り過ぎ、奥を見ている、そういう目だ。おまえの声も、おんなじだ。他意のない、清い水のような声。そしてその目と声は、誰に対しても平等だ。ゾエを見る目も、エッサラを見る目も、そしておれへの目も、おなじ温度」
ユーリオットさんは椅子から身を乗り出し、ちょっと身体を引いた私を下から見上げるようにして、話し続ける。
顕微鏡を覗き込むように、目を細めながら私の瞳を見ている。もどかしそうにくすぶる熱。
「おれは、わがままだ。向けられる視線が、ほかの子どもと同じならいいのにと。平等に見られたいと、ずっと思っていたのに。でも、おまえには」
困ったように、それとも怒ったように。ユーリオットさんは小さく息を吐いた。
「おまえ――おれのことを、とくべつに思えばいい」
私は鳥肌が立った。彼の声は苦しげに震え、切なげに眉が寄せられた。溺れる人間が助けを求めるかのように、私を絡めとる。
言わせてはいけない。
「おれの、名は」
「だめです。ユーリオットさん、それは、だめ」
私は彼の口を、あわててふさぐ。無礼にも、手のひらを彼の口に押し当てた。
ユーリオットさんは驚いたように目を見開いて、私の卑怯を責めるようにこちらをにらむ。
「いろいろあって、いまのユーリオットさんは心が弱っているんです。そういう状況で、たいせつな名前を与えてはいけません」
そう。どんなに大人びて見えても、まだ少年。ずっと軟禁状態で、人と接したこともわずかの。少しずつ、これからいろんな人と知り合って、いろいろな感情を知るだろう。
少なくとも、こういう場面で口にしていいことではない。
すると彼は、舌を出して私の手のひらを舐めた。ぎょっとして手を引くと、腕を掴まれて、思い切り引っ張られた。
私は座る椅子からずり落ちそうになる。とっさに、目の前の肩にしがみつく。想像よりも、ずっと厚みのある、硬い身体で、私はそれにもまた、驚いてしまう。
腰に、彼のもう片方の手が力強く回される。中途半端に、抱っこされているような格好だ。すごく居心地が悪いのは、彼が誰かを抱きしめ慣れていない証拠のよう。前髪が、彼のあごに当たっている。
「うるさい」
うるさい!?
「子どもだからと、甘く思ってるんだろう。見てろよ。すぐに大人になる。立派な医師にもなる。おまえは、それをずっとそばで見てるんだ。おれから、離れてはならない――」
そして、もどかしそうに額を額にこすりつけられた。男の子の、汗のような体臭に包まれる。それを不快と思えない自分に、私は焦る。
「待って、ユーリオットさん、まって」
「うるさいから、名を渡すのは、またにしてやる。いまは、これだけで」
そう言って、彼は私の手を持ち上げた。私の目の前に誘導し、私の目を焦がすように見つめながら、その掌に、そっと唇を押し付けた。やわらかく、あたたかいものが吸い付いて、ちゅ、という微かな音を立てる。触れ合ったところから、彼の心が流れ込んでくるかのような、無垢なのに扇情的な口づけ。その視線はずっと逸らされることなく、私の身体の奥にある、眠った熱を揺り動かそうとした。腰に、肩に回された腕もまた、離さないという彼の意思を反映して、稚さからは程遠い。
口づけられた手のひら、そこから、鈍色の光が生まれた。瞬く間にその光は強く、大きくなり、まぶしくて目を閉じる。
ユーリオットさんが触れている箇所が、溶かした鉄を埋め込まれたかのように熱くなる。身に覚えのある熱だ。
そして光が弾けた。ちかちかと、まぶたの裏が点滅している。
そして、徐々に光が弱まっていく。ゆっくりとまぶたを開けば、ふたつめの天珠が、生まれたての蒼玉のように輝いていた。




