10.災い転じて
高校の、倫理の先生を、よく覚えている。
中学校と異なり、高校では専門分野に特化するためか、どの教科も灰汁の強い先生ばかりだった。
その中でも、倫理の教科担当は一段上を行っていた。
哲学、形而上的なことを(つまり、目に見えないものごとについて)探求することをこよなく愛し、よく授業から脱線した。
そして過去の偉大な哲学者たちの逸話や、その半生を嬉々として語ったものだった。もちろん、生徒たちは興味のかけらもないので、右から左。もちろん、私もそうだった。
ソクラテスを死に至らしめた毒についても、なんと写真まで用意し、解説してくれたのにも、もうそれ、理科の授業じゃん! と辟易した。だが、それがこんなところで役に立つとは、まさか彼も思わなかったに違いない。
「エッサラさん!」
なぜ、と思う。この世界では自死を堅く禁じていたはずだ。多神教、あるいは無宗教である私には理解しがたいほどの、強い影響力のある唯一神。
だからこそ、あの四人は生き抜いている。いまここで、ユーリオットさんも。
つまり彼女は、この世界の誰もが恐れ戦く、ありえないことを実行したのだ。強靭な意志によって。
どうしてこんな毒草を飾っていたのかとか、なぜ突然、自殺を図ったのかとか、私はそれ以上考えることをやめた。
たしか、早く回る毒と言っていた気がする。吐かせるべきだ。だが、どうやって? 人生で故意に吐いたことなどないし、吐かせたこともない。
「何事です」
私の叫び声が聞こえたのだろう。廊下から、ゾエさんが顔を覗かせた。テラスで倒れこむ主人を見て、血相を変えて駆け寄ってくる。
「これは――ドクニンジン? まさか、どうして」
焦る彼女の様子を見て確信する。やっぱり、この世界でも毒草なのだ。
私はある有力な打開策を思いつく。
愕然としているゾエさんに、倒れこんだエッサラさんを渡した。
そのまま、家を飛び出し、邸へと全力で駆け出す。遠くに見えているのに、なかなか近づかない。
足が空を切る。
サンダルが片方脱げた。それもどうでもいい。
邸の扉を引きあけることすらもどかしくて、乱暴な音が立ってしまったのは仕方ない。そのままユーリオットさんのいる私室へ乗り込んだ。
息を弾ませている私を見て、彼は不審げに眉をひそめた。私は近づいて、その腕を取る。
「エッサラさんが、ドクニンジンを食べました。救えるのは、ユーリオットさんだけです」
その言葉が彼の脳に伝わり、理解されるまえに、私は腕を引っ張って、来た道を駆け戻る。
だが、道半ばというところで、ユーリオットさんに振り払われた。振り向く。
見たことがないくらいにうろたえている彼がいる。私が掴んでいた腕を胸に当て、もう片方の手でぎゅうっと握っている。
「なにを、言ってる。だれが、毒を」
「なにって、あなたのお母さんですよ。それに、あなたは薬の知識があるわけで」
「いやだ。いかない」
「は」
「どうしておれが、行かねばならない? 一度も、望まれたことなどないのに。そうだ。一度だって! ただの、知らない人だ! だいいち、おれは邸を出ることを禁じられて、あのひとに会うことも、だめだって」
私はいろいろな感情がごちゃまぜになった。彼の立場からすれば、そう言いたくなる気持ちもわかる。
ただ彼は、知らないのだ。どれだけ彼女が――。
「――うるさい」
「なに」
「ごちゃごちゃ、うるさいです! 望まれていないですって? いいえ、彼女はあなたを誰よりも、たいせつにしています! それに何より、あなたは医師を目指しているんでしょう。急病人を放っておくなんて、言語道断。邸をこそこそ抜け出したりするくせに、こういうときだけ盾にしない! だいいち、禁じられているからなんです。親の危篤に駆けつけないことほど、ひどいことはないんです!」
言いたいだけ、言った。
私は言ったあとすぐに、ほんの少し後味の悪さを感じた。年端もいかない子に大人気ない、と、そう思ったのだ。
なぜなら、どれだけユーリオットさんが賢くても、まだ子どもなのだ。外の世界や、道理というものを知らないのは当然のこと。
一度会っただけの父親。それでも禁じられたことを遵守しようするのは、子どもなら一度は身に覚えのあることだろう。
誰にも顧みられなかった彼の、父親からの言いつけは、ある意味では唯一の「与えられたもの」だったわけで。
理屈ではないのだ。家族とは、ひどく厄介で、ときにうっとうしくて、うんざりもするものだけど。
それでも。
「もう一度、言いますよ。エッサラさんは、ユーリオットさんを、深く深く、愛しています。あとで、お伝えしますから。その彼女を、死なせてはいけない。さあ!」
私はもう一度彼の腕をひっつかんで、ひた走った。抵抗されるかと思ったが、今度は彼は逆らわなかった。
そして、ずっと引き離されていた親子は再会する。
こんなに、あっさりと。
私たちは息を切らせながら、テラスのそばで仰向けにされているエッサラさんのそばへ駆けつけた。ユーリオットさんは彼女の様子を見るなり、表情を変えた。
見知らぬ場所へ迷い込んだ幼子のようなものから、引き締まった、職業的なものへ。
すぐに身を乗り出して、彼女の目を確認する。苦しげに開かれた口の中を確認し、てきぱきと私とゾエさんに指示を与えた。
小刻みに痙攣する彼女の足のそば、転がっている人形を見て、ユーリオットさんは下唇をかみ締めたのが、視界の端に写った。
私たちは彼の指示のままに動いた。たらいを持ってきたり、井戸から水を汲んできたり。ユーリオットさんは、エッサラさんに吐かせたあとは、胃の洗浄をしようとしているようだった。
そうしていると、ばたばたと誰かがやってきた。廊下からの入り口のほうへ目をやれば、ディオゲネスさんが呼吸を荒くしている。その表情を支配しているのは、恐怖だ。ゾエさんの下の女中が、知らせにいったに違いない。
彼は状況を見て憤り、その肩を震わせた。つかつかと詰め寄り、口汚くユーリオットさんを罵り出す。ユーリオットさんは、びくりと肩をすくませた。ただ、父親のほうは気にかけず、エッサラさんに懸命に処置を続けている。
私は持ってきた清潔な布をユーリオットさんのそばに置いてから、ディオゲネスさんの胸ぐらを掴む。ほとんど、反射的な行動だった。
そのままぐいと引き寄せて、私は彼にこんこんと、エッサラさんとの会話を説き伏せた。
ちょうどいい。きっとユーリオットさんも、治療をしながら聞いているに違いない。
私に、ユーリオットさんに毒を盛れと命令したときの、彼の言葉を思い出す。
それを引き合いに出した。エッサラさんの望むことを、してやりたいと言っていただろう、という言葉が、決定的だったかもしれない。強烈な皮肉だ。
私の話を聞くにつれ、憤慨に赤らんだ顔は徐々に青ざめ、彼はその唇を引き結んだ。
「エッサラが。それが彼女の、望みだと……?」
「あなたは、エッサラさんの愛がユーリオットさんにだけ向かったと言ったけれど。違うんですよ。どうして想像しなかったんですか? 成長したユーリオットさんが、庭で遊んでいる。彼を遠目に見守るエッサラさん。彼女のとなりで、手を握って座る、あなたがいる未来を」
子育ては、とても、ものすごく、大変なことなのだ。どんな大掛かりなプロフェクトを成功させるよりも、なお。
十三歳でユーリオットさんを生んだエッサラさんが、赤子にかかりきりになるのは当然ではないか。どうして、それをわかってやれなかった、と、歯がゆく思う。
手の甲で汗をぬぐいながら、懸命にエッサラさんを治療するユーリオットさん。ディオゲネスさんはそんなユーリオットさんをぼんやりと眺めた。そして力なく、そのまぶたを伏せ、洗濯ばさみをはずした服のように、ソファにへたり込んだ。
ゾエさんも、その鉄面皮をゆがめ、泣きそうになりながらユーリオットさんを手伝っている。
エッサラさん、と私は呟く。
あなたのしたことは、誰も幸せになれないことだけど。
でも、その捨て身の行動が、絡まった彼らの関係に一石を投じたのは間違いない。
彼女は、今後どういう実を結ぶか見届けなければならないはずだ。
私は新しい水を汲みに走りながら、彼女に呼びかけた。
どうか、踏みこたえて、と。




