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9.母親

 それから数日のあいだ、いつまたあの男が来るかと身構えていた私だったが、声をかけてきたのは意外な人物だった。


 買い物に出かけようと、邸を出たところ。裏口から数メートルのところに立っていたのは、ゾエさんだった。

 背中に定規でも入れられているような、まっすぐな佇まい。両手をおなかのあたりで組み、あごは軽く引いている。以前と同じように、頭の上で結い上げられた髪は、ひとすじの乱れもない。硬質な瞳と、真一文字に引き結ばれた唇は、筆頭女中、という冠をいただくにふさわしく思える。ひざかっくんとか、怖くてぜったいできない。優秀なのだろうが、部下にはなりたくないな、とつい思ってしまうタイプである(まともに話したことなどないので、もちろん偏見だ)。


「ついてきなさい」


 明らかな待ち伏せ。ユーリオットさんに、知られたくないことなのだろうか。私は逡巡したが、彼女の瞳が、今までとは違い、どこか焦っていることに気づく。小さくうなずいて、彼女に続いた。


 案内された先は、やはりというか、エッサラさんがいる別邸だった。


 私が呼ばれる理由も何もわからないまま、リビングへ通される。庭のほうを向いた揺り椅子が、今日も静かに揺れている。

 ゾエさんは、そのまま辞してしまった。


 私と、エッサラさんだけが残された。


 開け放たれたリビングの、ガラス張りの扉の奥には、ほどよく整えられた庭が広がっている。鳥の囀りと、風が草花をこするやさしい音が、部屋にも流れ込む。

 揺り椅子のそばに、ベッドテーブルのような、小ぶりの机があった。その上には以前見た人形と、白い陶器の花びんがあり、まるで線香花火を逆さにしたような、あるいはパセリのような可愛らしい花が活けられていた。

 ただ、その匂いはけして芳しくなく、どころか不快とも取れる香りで、私は不思議に思った。どこかで見たような気もする花だ。


「お人形を、とってもらえる?」


 静かな部屋に落ちた声は、思いのほかしっかりしたものだった。私は戸惑いながら、机の上にある人形に近づいて、それを彼女に渡す。

 バスケットボールほどの大きさの、赤子を模したような綿の人形。


「あの子は、大きくなったのかしら」


 彼女は受け取って、まるでわが子のように髪を撫でた。私は会話の向かう先がわからず、言葉に詰まる。


「もうずっと、見ることも叶わなかった。立ち歩きもできなかったのに。今は、ひとりで歩けているのかしら。ちゃんと食べているのかしら。つらいことは、ないのかしら」


 そのもの言いに、私は息を呑む。彼女の顔を注意深く見る。以前感じた白痴は影を潜め、代わりに思慮深い光が、その瞳に宿っている。


 そこにいるのは、子どもを取り上げられた、痛々しい母親だった。





「エッサラさん。いつから」


 軽い混乱に陥った私は、どういうことだろうと頭を巡らせる。嫉妬にかられた、父親の妻から脅されて、毒を飲んだというのは嘘だったのか。

 いや、あの父親の様子からは、嘘やごまかしの気配は感じなかった。


「先に教えてほしいの。あの子は、ユーリは、無事で過ごせている? ひどい目に、あってはいない?」


 人形を抱きしめて、切羽詰ったように見上げる瞳。私はとりあえず、うなずく。

 環境の面では肯定しがたいが、肉体的にひどい目にあっているかといえば、否だろう。

 彼女はほっとしたように息を吐き、背もたれに身体を預けた。疲れたように、言葉を続ける。


「こんなふうに、正常にものを考えられるようになったのは、ほんとうについ最近のこと。それも、まともな時間は、一日にとてもわずかなの。いつも、もやがかかったような中、泥に身を浸している感じなの。わかるかしら?」


 以前、偶然会ったときのことを思い出して、私はうなずく。ゾエさんの対応からも、ああいったことが日常の一部だと想像がつく。


 それも、体調次第で正気でいられる時間は左右するらしい。一週間ずっとものを考えられないときもあれば、数時間、まともなときもあるという。

 そしてエッサラさんは、そのことを誰にも言っていない。言おうという考え自体が、ないようだった。


「どうして。どうして、そのことを言わないんですか」


 正気になる時間が、わずかとはいえあるのなら。ふつう、それを父親やゾエさんに言うのではないか。私は理解ができなくて、尋ねてしまう。


 するとエッサラさんは、お気に入りのおもちゃが壊れてしまったような顔をした。

 こわいの、と呟く。


「こわいのよ。だって、わたしはずうっと、ずうっと、長い間。切り取られた箱の中にいたような心地だったのに。気づいたら、ゾエはすっかり年を取っていて、つまりはわたしも、老いているんだわ。ユーリにとっては、知らないおばさんかもしれない。ディオゲネスは、もうわたしを愛してくれないかもしれない。だとしたらわたしは、どうしたらいいのかしら? そう怯えているうちに、また頭は重くなっていく。そういう時間の、くり返し」


 私は彼女を理解しようと、努力した。

 心中で反芻するうち、ぼんやりと納得のいく筋道にたどり着く。

 つまり、こうだ。彼女は育ちのいいお嬢様で、なんと十三でユーリオットさんを産んだ。子どもが子どもを産むようなものだ。兄にも頼れない。そんな中、子育てに奮闘している日々に、兄の妻から毒を飲まされた。彼女の時間は、ほとんどそこで停止している。中身は、無垢で無知の、少女のままに。

 ようやくまともに考えることができたとして、周囲の変化に怯え、身を縮こめてしまうのは――情報の遮断されたこの世界でなら――納得がいく、かもしれない。


「ときどき、ディオゲネスが会いにくるのを覚えているわ。哀しそうな顔をして、わたしの名前を呼ぶの。宝物のように。そしてユーリを罵るの。あの子さえいなければ、すべてうまくいっていたって。違う、と言いたいの。でも、わたしはうまく言うことができないの。口に出そうとする言葉が、のどのあたりでばらばらに分解されて、結局言いたくもないことばかりが、口から吐き出されるの。それって、すごくつらいのよ。わかる?」


 ディオゲネス。それが、エッサラさんの兄であるあの男の名前なのだろう。


「でも、あなたが来たのを、強く覚えている。あなたの目が、とても新鮮だったの。わたしたちの瞳を正面から見る人なんて、親くらいのものだったから。不思議なすがすがしさのある目。だから、もう一度会いたくて、ゾエには無理を言ったわ」


 そういうことか。確かに大貴族の目をずけずけと見つめる下働きは、あまりいないかも。

 それにしても今の彼女は、意志の疎通にまったく不便しない。ずっとこの状況でいるのは、無理なのだろうか。


「それで、新鮮だったから、私を呼んだんですか?」


 彼女は焦れったそうに首を振る。


「いいえ、いいえ。あなたは、ユーリの下女なのでしょう。教えてほしいの。あの子のことを。わたしがわたしでいられるうちに」

「でも、私はユーリオットさんと一緒になって間もないですよ。何も知らないに等しいです。それなら、ゾエさんのほうが」

「だめよ。ゾエは、ディオが雇っているのよ。何も教えてくれないわ」


 存外、頑なな女性である。そのあたりは、よく言えば大切に、悪く言えば甘やかされた少女が透けて見えた。

 私は心底、やっかいな状況にいることを知る。

 エッサラさんがときおり正気になることは、私しか知らない。そして彼女は、息子のことを知りたがっていて、息子は父も母も憎んでいて、父は息子の存在を憎んでいる。


「今日ほど、頭が冴えている日は、今後もあるかわからない――どうか」


 人形を両腕に抱えて、私の服のすそを掴むエッサラさんに、天井を見上げてた。諦めた。 


 そして、問われるままに答えた。

 ユーリオットさんの好む食べ物。ふだん、どういう勉強をしているか。庭にどういう種を蒔いたのか。何時ころに眠るのか。どういうときに怒り、どういうときに笑うのか……。

 答えられないことも多かったけれど、彼女はすぐに次の問いかけをしてきたので、私はしゃべりっぱなしだった。背中を汗が伝う。のどは、粉薬を含んだときのように水分を欲している。


 そして会話が終わったとき、彼女はゆっくりと目を閉じた。


 私たちの声が途切れると、今まで追い出されていた庭で鳴く虫の声と、葉擦れの音が、そろりと部屋に入り込む。彼女の横顔を注意深く観察したが、その奥にある感情はわからなかった。

 自分がつばを飲み込む音が、彼女にも聞こえてしまうようだ。しばらくして、ようやく彼女は目を開いた。庭の草花を、ぼんやりと見つめる。


「……たとえ誰になにを言われようと、わたしはディオもユーリもたいせつなのよ。ディオに、ユーリを愛してほしいのに。ふたりに、ユーリに、幸せになって、ほしいのに」


 それが彼女の望みなのか。

 悪魔の子(テクナトディアボル )、と吐き捨てたディオゲネスさんを思い出す。それだけでなく、エッサラさんの愛を独り占めしたユーリオットさんを憎んでもいた。

 なんて大人気ないと、そう言うのは簡単だ。


 けれど、ディオゲネスさんとエッサラさんのご両親は、彼らを顧みなかった。ディオゲネスさんの愛が歪んでしまうのを、誰が責められるだろう。

 子どもを疎むほどに、ディオゲネスさんはエッサラさんを愛しているのだ。


 だが、その愛に奥行きはない。

 なぜなら私の知る愛ならば、愛する人が慈しむものもまた、無条件に大切にできるものだ。

 そうでなければ、それは歪んだ自己愛のたぐいでしか、ないと思う。


「――わたしがいるのが、いけないのかしら」


 エッサラさんの口調が、だんだんと沈んでゆく。


「ディオの心にわたしがいるかぎり、彼の愛はユーリには向かないのかしら。だったら、どうするべきなのかしら」


 抑揚のない、平坦な声。彼女の瞳から、ゆっくりと理知の光が遠ざかっていく。太陽が沈み、月が昇るように。以前と同じ、境界線をまたいだ面持ちへ。

 私は違う、と言いたかった。それはあくまでディオゲネスさんの問題であって、エッサラさんがどうこうできることではないのだと。


 ただ、一歩遅かった。


 ディオゲネスさんも、言っていたではないか。彼女は穏やかで控えめな性格だが、思いつめると自分だけで突っ走ってしまうと――


 人形を堅く抱きしめていた腕をほどいて、机の上の花に手を伸ばす。


 どくり、私の心臓が鳴る。見たことのある花だ。だが、どこでだっただろう。

 部屋に漂う、不快ともとれる芳香を放っているものは。鼻腔へ入り込む、不吉な香り。


 彼女はそれを優美につまんで、まるで食後のデザートのように、その花を食べた。


 それが、かの有名なソクラテスの処刑に使われた、ドクニンジン(シクータ)だと思い出したのは、彼女がその喉を鳴らせた後だった。




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