空の浴槽に溺れる羊 ―月花―
稲光が黒々とした雲の中を走る。
たらいをひっくり返したような雨の中、月花は家への道を走っていた。
夕暮れ時である。
いつも通り、四人でギルドの仕事に就いていた。しかし、日暮れ前の、めずらしい豪雨がククルージャに降り注ぎはじめた。とりわけ音を立てて唸りを上げる雷鳴に、四人は縁子の身を案じた。
異世界から来たという彼女が、もし迅雷というものを知らなければ、きっと怯えるに違いない。
ひとりを家に帰らせ、縁子の様子を伺うことにしたのが、つい先ほどのことだった。
月花の武具は、飛去来器である。四人の中では、雨風の影響をもっとも受けやすい。
そのため、今日に限っては対魔獣で戦力になりにくい。月花はそのような理由で、縁子のもとへ走っているのだった。
家にたどり着き、懐から門の錠前を取り出す。誰もいない間、妻や女子どもが奪われたり、襲われたりしてはいけないので、家はぐるりと塀に囲まれ、鍵をするのが当たり前なのである。
濡れた錠前は黒々と光り、月花の手のひらにひんやりと重い。
一瞬、そのようなもので縁子を狭いところへ閉じ込めているような錯覚に陥る。あながち、錯覚ではないのかもと自嘲して、扉を押し開けた。
中へ入り、建物へと身を滑らせる。髪や肩の水滴を手で払いながら、縁子はどこだろう、と視線を巡らせた。
居間のじゅうたんの上にも、台所の机にも、彼女の姿はない。寝ているのかと思って寝室を覗けば、かつて自分たちが使っていた、いくつもの空の寝台がひっそりと横たえられているだけだ。
不思議に思って中庭のほうへ足を運べば、驚くことに、ひさしの下、椅子に座る縁子の姿がある。
机に肘をつき、ぼんやりと雷鳴轟く曇天を見上げている。
突き刺さるような雨はいや増すとともに、あらゆる音の振動を妨げている。
そのせいだろう、縁子はすぐ後ろに立つ月花に気づくことなく、稲光の光を受けて白く浮かぶ横顔を晒しながら、無防備に思いを馳せている。
まるで知らない女のようだった。
名を呼ぼうと、口を開く。けれどそれは思いとどまったかのように、ゆっくりと閉じられた。
声をかけて、自分を忘れていたらどうしようと怖くて、月花は声をかけることもできずに、ただじっと見つめていた。
すると縁子は、ふと首を傾けて、首をぐるりと回した。まるで、こりをほぐすかのように。その拍子に、月花が中庭に通じる入り口に立っていることに気づく。
「えっ、月花? どうして」
お仕事は、と、きょとんと訊いてくる縁子に、月花はようやく、少しだけ安心する。
「あなたが、迅雷に怯えてはいけないと、みな心配したのです」
でも、心配無用でしたね、と続ければ、縁子はありがとうと微笑む。
「私の世界でも、雷はあるから。でも、この世界ほど近くは感じないかな。規模が大きいよ。まるで、地面を引き裂くような雷だね」
「でも、ちっとも怖がらないんですね。ふつう、女子どもは震えて寝具にくるまるらしいですよ」
「屋根のあるところにいれば安全だし、このあたりにはもっと高い木もあるから」
そう言いきられてしまえば、迅雷から身を守ることなど、造作もないことのように思えてしまう。
超然とした態度と、垣間見える知恵。そんなふうに、なんでもないことのように言われるたび、改めて彼女が異世界からの客人なのだと、月花はあたりまえの事実を突きつけられる心地になる。
客人。いつかは、彼女の属する世界へ帰る。
「……それに、ククルージャで雨ってめずらしいよね。だからかな、ちょっと、思い出すこともあって」
タクトを拾ったのって、こういうどしゃ降りだったんだと、縁子はかすかに口の端を上げる。遠くに心を飛ばしているようなその表情は、刃物を振り上げられるような畏れとともに、月花の心を容易く抉る。
とっさに、月花は縁子の手首を掴んだ。縁子は驚いたように月花を見上げて、月花はその黒々とした瞳に自分が映っていることを確かめて、ようやく少し落ち着く。
この瞳に、いつだって自分だけを映していればいいのに。
「どうしたの、月花。あっ、もしかして、小腹がすいたとか」
ちょっと待ってて、と言い置いて、縁子は台所へいそいそと姿を消す。否定する暇もなかった。
月花は自分でも理解できない感情を持て余し、仕方なく彼女が座っていた椅子へ腰をおろす。
壁際に置かれた鉢植えに溜まった雨水を見る。とりどりの、縁子が増やした香草たち。
縁子は自分たちに、とても優しい。親身にもなってくれる。
けれど、あと少し、というところで、絶妙な距離をとり、踏み込ませてくれないようにも、感じている。それは会話でも、日常の接触でもだ。
無意識ではない。縁子はそういう自分に気づいていて、ときおり後ろめたいような、気おくれするような顔をするのだ。
それはおそらく、彼女が彼女の世界に残してきたもののせいだろう。
彼女が全身全霊でその心を傾けているもの。月花は心臓をくり抜かれるような、それとも全身をちりちりと焼かれるような、不愉快な感情に付きまとわれる。
そしてそういう自分を恥じた。縁子の幸せを願うのに、それと自分の望みが対立するとき、どうすればいいのだろうと途方にも暮れる。
「はい、ちょうど、市場でお値打ちだったの」
うきうきと戻ってきた彼女の手にあったのは、甘草の飴玉だ。黒々としたそれは、のどをすうっと爽快にし、甘さは疲れを和らげる。
私はそんなに得意じゃないけど、地元の人たちの一番人気って、店主が言うから。縁子はにこにこしながら、不思議そうにそれらを見ている。
「最近、なんだか寒暖差がすごいよね。甘草は免疫を高めるって、昔どっかで聞いたんだ。休憩時間にでも、つまめたらいいかなと思って」
前掛けを袋のようにして、たくさんの飴玉を渡してくる。
市場の飴屋で売っているときは、それらは裸のまま小さな籠に山盛りにされ、店頭に並べられている。客は好きに選び、量り売りされるのだ。色もとりどりの玉が目に楽しく、あまい匂いも魅力的ではあったが、月花たちはその容姿から、購入できたことはない。こんなふうにたくさんの飴玉を手にすることは、昔からの憧れだった。
しかし、縁子はただ購入してきたのではなかった。飴玉は、湿度が高いと、すぐに溶け出してべたべたするのだが、縁子が台所から持ってきたものは、粉の糖を振りかけて、広葉樹の葉で包装してある。
持ち運びやすようにと、縁子がひとつひとつ包んだのだろう。さらにそれらを、小さな巾着に入れて渡してくる。けして彼女が得意ではない裁縫をして、作ったものだ。
こんなふうに、とめどない優しさを与えないでほしい。
卑怯な考えばかり、浮かんでしまう。
「それにしても、髪の毛がびしょびしょだねえ。タオルタオル」
そうして、中庭の机に畳んであった布地を取り、髪をわしゃわしゃと布地で拭いてくれる。迅雷がやってくる前に取り込んだものかもしれない。
しかし、月花は閉口してしまう。それこそまるで姉弟のような年齢差があるからか、縁子は月花の頭を平気で撫でるのだ。
最初こそひどく戸惑った。けれど、そういう触れ合いに飢えていたのだと。与えられて初めて気づかされた。
一度得てしまったものは、失うことはできない。火というものの便利さも、木陰の涼しさも、触れ合ったときの熱も。
もう、知らなかったころには、戻れないのだ。
縁子、と、名を呼ぶ。
「はい。どうかした?」
嫌悪も阿りも含まない。美しい声。そう、彼女は声のひとすじだって、鈴のよう。
月花は知っている。
大人というのは、清濁どちらも知ったうえで、状況に応じてどちらにも身を浸すことができるのだ。
笑顔や表情をいく通りも持ち合わせている。それらを使い分け、その場にいちばん効果的なそれを、瞬時に引き出す。
まだまだ人生経験の足りない自分は、とても不利だと自覚する。
であれば、ほかの方法で。
「縁子。僕はけさ、まえに言われたように、ひとくち一口、30回噛んで食事をしたよ」
「おっ、えらいですね」
「それに、道具の手入れも、いつもよりも念入りに」
「メンテナンスは大切です」
「書物も、数の本だけでなく歴史書も読み始めました」
「めざせオールラウンダー」
会話の向かう方向がわからないのだろう。縁子はうんうんと頷きながらも、不思議そうに月花を見下ろしている。
「だからね、縁子。わかりますか。僕がほしいもの」
「ほしいもの」
「うん、そうです。少しでいいから」
「何でしょう」
「ほら、前にやってくれたように、やさしく――」
月花は少し腰を浮かせて、縁子の耳に吹き込むように、そっと告げた。
「撫でてはくれません?」
そこでようやく縁子は、合点がいったように瞬いた。頭を拭いていた布地をよけて、にっこりと微笑えむ。月花の髪を撫で撫でした。
「月花は、やっぱりすごい。えらいです」
飾り気こそないが、心からの賛辞。
髪に触れる手。月花は自然とうつむく。
いい子、いい子。
ざあざあ、雨が地面を叩く音。白くけぶる視界。やわらかな指先。
こちらを完全に子ども扱いか、弟扱いして撫でられてしまえば、その位置を失いたくない、甘んじていたいと少なからず思ってしまうのが常だった。
罪の落とし子のような自分に、こんなあたたかな手が与えられることが、信じられなくて。
けれどそろそろ。
「ありがとう、縁子。久しぶりにしてもらえると、嬉しいものだね」
「恥ずかしいからやめてって、言っていたのは月花なのに」
撫でられながら、落ち着いた縁子の声を耳の底に溶かしこむ。
基本的に彼女の周りの空気はひどく穏やかだ。こうして頭を撫でられながら声を聞いていると、眠いような、面映ゆいような。不思議なくすぐったさと安心が胸を満たす。
「でも、縁子。あんまり男の人にこういうことしてはいけません」
「男の人って」
「例えば、阿止里とか、ナラ・ガルとか」
「撫でるには、彼らの身長は高すぎるかな。それに、三人にならいいじゃない」
「それでも。気安く触れてはいけません。それに、僕だって、男なんですが」
意志を込めて、しっかりと視線を絡めとる。少しだけ、いつもは注意深く隠している熱を、瞳にのせた。
笑いながらじいっと見つめると、不意に頭を撫でる手が止まった。
醜い自分たちを受け入れてくれる縁子。その事実を信じきれず、何かの拍子に悲鳴を上げて逃げ出すのではという恐怖は。月花の中にまだある。
でも、と月花は思う。少しずつでいい。きちんと進んでいきたい。
どうかした? と笑いながら首を傾け、縁子の目を正面から見つめると、縁子はちょっと困ったように呟いた。
「……そっか、そう、ね」
先ほどまでは穏やかに会話していた縁子の声は、日にちのたったパンのように硬く変化していた。月花は少しだけ距離を詰めて、縁子の手を取る。それから顔を覗き込んでみた。
「縁子、どうかした?」
「ううん。別に。べつに」
頭を撫でてくれていた縁子の手のひらは、しかし月花よりも小さく、彼の手にすっぽりと収まるのだ。
「そう?」
「う、うん」
「でも、顔が赤くなってきた。何か、あったの」
「ちがくて。ええっと」
「もしかして、僕が手を握っているせい?」
「そ、そうなのかな。そうかも」
「なら、よかった」
月花ゆっくりと立ち上がる。そうすれば、頭ひとつぶん背が低い縁子は、見下ろされるかたちだ。そのまま首を傾けて、縁子の瞳を覗き込む。甘草の飴玉よりも、この訝しげに輝く黒色が、月花を惹きつけてやまない。
我慢しきれずに、縁子の瞳――そのまぶたを、ぺろりと舐めた。驚いたように目を見開く縁子を、正面から見つめなおして、その目じりにも唇を落とす。ついでのように、涙袋のところにも。
ゆえほわ、と掠れた声で呟く縁子に、月花はようやく、心の底から満足する。
飴玉、ありがとう。みんなにも渡しておくねと言い置いて、立ち上がった。
そのまま中庭を後にして、家の外へ出る。錠前を元どおりかけて、三人のいる城壁へと走り出す。
とりあえず、意識させることには成功しただろう。
にわかに雨降りを弱め始めた空を見上げて、月花はにっこりと微笑んだ。雲間からまっすぐに差し込むいくつかの光が、天へ続く梯子のように煌めいている。
いつか崩れる均衡。それは楽しみでもあるし、怖くもあるのだが。
自分にだけ触れてくる、ということならば大変結構。
しかしながら、幼子や、ましてや弟扱いされることは、きっぱりお断り申し上げる次第なのである。




