10.ようやくひと段落と思いましたが、そうはいかないようです
いいにおいがする。
鶏肉で出汁をとったような、スープのにおいだ。それから、キャベツを煮たときの、独特の香り。
暖かい。とても、いい気持ち。
においに誘われるように、目を開く。ひびの入った漆喰の天井。石造りの壁。暖炉の薪の爆ぜる音。
数回、まばたきをして、身体を起こそうとする。とたん、全身の関節という関節が悲鳴を上げて、私は身悶えた。
(小娘、起きたか)
幼い、小学生くらいの声がする。幼いながらもはっきりした意思を感じる声。ともすれば高慢にも聞こえる声。たまの声だ。
たま?
「たま!?」
アブドロに、粉々にされたのではなかったか。私は痛みも忘れて、首を動かし、声の出所を求めて視線をさまよわせる。
しかし、どこにも腕輪はない。
不思議に思って、しばらくどういうことだろうと考えていると、寝台のすぐ隣、机の上に置かれていた頭輪が、きらりと光った。
私がククルージャにいたときから、身につけていたやつだ。頭衣を上から押さえる、ティアラのような形状の。
(あの畜生に砕かれたのでな。ここを借りているぞ)
そんな、ヤドカリみたいなかんじなの? 思いのほか単純な仕組みに、ちょっと肩透かしをくらう。そういう装身具なら、なんにでも取り付ける感じなのか。
心配して損した、と息を吐けば、たまは呆れたようにやれやれと肩をすくめる気配がした。この癇に障るかんじ。間違いなく、たまである。
「なによ。腕輪が壊されたときに、たまも死んじゃったかと思って、心配したのに。ぴんぴんしてるじゃない」
たまはふうん? と、面白がるように呟く。しまった、心配したなんて言うんじゃなかった。そう思いながらも、たまの気配を、懐かしく思う。
(我輩の本体、つまり物質的な身体はだな、アレクシスのもとにある。腕輪に宿らせていたのは、意識の一部だ。それが砕けて、いくぶん手間取ったがな。ここのところ、魔力を溜めることに注力していたから、なんとかなっている)
たまが言うには、こんなふうに、一度意識を宿した物質からほかの物質へ移ることは、とても魔力を喰うのだそうだ。
私たちの引越しと、似てるのかな。確かにあれはすさまじく面倒くさい。
とにかく無事でよかった、と思うが、なんとなく口には出さない。
「それより、ここって」
私は痛みをこらえて、上体を起こす。
私の格好は、ニグラさんの身代わりになっていたときのまま。つまりは汚れた奴隷服の、ワンピースである。
見覚えのあるこの家は、ジウォマさんの家だ。暖炉にはほどよい大きさの火が保たれている。その上には、鍋でくつくつとスープが熱されている。薪はまだ燃え始めたばかりのものもあるので、つい先ほどまで誰かが管理していたのだろう。
(あの男が、ずっと世話を焼いていたぞ。まあ、とんでもないことに巻き込んだのだから当然ではあるが)
とんでもない、と私は鸚鵡返しに呟いてみる。確かに、まるで嵐のような、すさまじい出来事だった。映画というか、夢というか。
そもそも、私、どうなったんだっけ。
(あの男と妹を拘束していた証文をな。燃やしていたぞ。主人も、灰になった羊皮紙を見て、糸が切れたようになっていた。抜け殻のようにな。諦めも、ついたのではないか?)
そうだったのか。それなら、よかった。
(だめ押しのように、脅してもいた。彼らと、それから小娘に手を出すようなことをしたら、次こそ地の果てまで追い詰めてでも、息の根を止める、とな。いや、あれは小気味よかった)
小学生の声で、小気味いいって。おじいちゃんみたい。
それにしても、私の身の安全まで確保してくれるなんて。ギィってやっぱり、いい人だ。
(小娘にだけ、かも知れぬがな)
ほんに、上々。と、満足げに囁いた。
まるで、期待どおりというような声。それって、どういう――。
そのとき、かちゃりと音がして、それから冷たい空気が忍び込んだ。
見ると、果物やら野菜やらを抱えた、ギィがいた。
※
「気づいたか」
ギィは抑揚なく聞いてくる。ニグラさんを救出して、晴れて奴隷の身分からも解放されたのだ。なんというか、もっと晴れ晴れとしていてもいいのに。
そう言えば、性分だとでも返されそうだが。
「ギィ、ニグラさんたちは」
机に布袋をごとりと置く。またたくまに袋がたわんで、入っていたみかんやらイチジクやらが転がり出た。イチジク! 大好物だ。こんな寒冷地では出回りにくくて、高級品のはずなのに。
「そうだな、ちょうど今ごろは、かつての俺たちの家にでも着いたんじゃないか」
机の上に出したチーズを手に取る。ショートケーキのような形状のものだ。
暖炉の前に座り、チーズを小さくちぎってスープに入れている。パンも取り出し、串にさして、火のそばに立てる。とても穏やかな動作。
火を眺めている、その横顔を見て、私は不思議に思った。
「ギィは、帰らないんですか」
あなたのふるさとに。問えば、ギィは火を見たまま、独り言のように呟く。
「あんたの言ったとおりだ。俺は、アブドロを葬り、俺も葬られる。そうしてきれいに終わるつもりだったんだ。ニグラも自由で。ジウォマはいいやつだ。何を憂えることがある?」
返事は必要とされていなかった。私は黙って、続きを待った。
ギィはそれから、身じろぎもせずに暖炉を見続けていた。
私は、たまの気配がおかしいことに気づく。何かの期待に満ちて黙っている。どこか、奇妙な熱を孕んだ気配。
だが、と、ギィは口を開いた。
「あんたは、言ったんだ。俺が、やわらかい心を持っていると」
言ったかな。
私はちょっと斜め左上を見上げて、記憶を探る。いかんせん、いろいろありすぎて、ここ数日の出来事はごちゃごちゃなのだ。
しばらくして、思い出す。アブドロに捕まっているときに、彼に向けて言った言葉だ。
って、ギィ。あのとき聞いていたのか。
「ええ、まあ。言いましたかね」
なんというか、ちょっと照れくさいので、私は暖炉に視線をやって答える。ギィがじっと私を見ているのが、視界の端に映って、面映い。
「生きろ、とも」
言った。それはすごく覚えている。そりゃあ、死ぬ気の人がいたら、生きて、って言いたくもなるでしょう。暖炉のスープ、ぐつぐつしてきたよ。ギィ、食べごろでは? もう話をやめて、食べませんか、それ。
私はじりじりと空腹を覚えてきたので、痛む身体を無理やり動かし、暖炉の前へ移動する。
ギィから人ひとりぶんの距離を空けて、体育座りする。パン、もうちょっとで焦げますよ、これ。
「女だったんだな」
パンをちぎって、つまみ食いしようとしていた私は、動きを止める。怖くて、隣が見れない。
何をどう弁明しようと、私は性別を偽っていたわけで。隠し事をしていたわけで。
お、怒ってるのかな。そう思って、そろり、横目でギィを盗み見る。
どくり、心臓が鳴った。
ギィの黒色の瞳は暖炉の色を吸い込んで、煌々と揺らめいている。意思の強さをそのまま示す視線は、暖炉のせいではない熱をはらんで、まっすぐに私に向けられている。
全身が粟立った。息がうまくできない。
ギィは強張った私を見て、こらえきれないというように口の端を吊り上げた。初めて見る、深い微笑み。
「怖がらせたいわけじゃない。責めるつもりも、まるでない。どうにも、うまい言葉が見つからないな」
ギィはやれやれというように、スープを木匙でかき混ぜる。
「……思えば、奇妙なめぐりあわせだ。俺は十年以上まえから計画していた。その直前に、あんたは都合よくあらわれた。最初は、あいつの回し者かとも思ったが、それにしてはあまりに貧弱で」
あいつ、とはアブドロのことだろう。貧弱で当たり前だ。こちとらただの会社員だったんだぞ。
「いつからだろうな。あんたとはただの、ひとときの道連れのようなものなのに。わかりきった事実を、ねじまげたくなるような火種が、俺の中にくすぶりはじめた」
私は黙っている。彼が私に向けているものに、うすうす気づいてはいる。十代の少女のように、まわりの男からの視線に疎くはない。しかし、何を言えるだろう。
これで、借りは返したのだ。たまと、アレクシスのもとへ向かうことを、考えなければならない。
だが、肝心のたまはずっと息を潜めている。何かを待ち焦がれているような気配に、私はいよいよ不思議に思う。
「目も合わせられないくらいに、恥じらってはくれないのか」
からかうように囁きながら、適度に焦げ目のついたパンを渡してくれる。それを受け取ろうとして、私は一拍ののち、真っ赤になる。
そうだ。出会ってまもないころ。まっすぐギィを見る私を不思議がった彼に、「もし私が女だったら、見とれる」ようなことを言っていた気がする!
あのときは、まさか女だとばれるほど深い間柄になるとは思っていなかったのだ。
どうしたものか、と思いながら、パンを受け取る。
そのとき。手首を掴んで、引き寄せられた。ぽとり、パンがじゅうたんに落下する軽い音がした。ギィの肩に頬が当たる。腰と、首とに腕が回され、強い力で抱きしめられていた。
目だけで見上げると、鼻と鼻がぶつかるくらいの距離に、ギィの顔がある。気おくれするほどの、衒いのない瞳。
「――俺に、欲しいものが、できるとは」
それは、私が今まで受け取ったことはないくらいの、純粋な気持ちだった。
いや、あの四人が、与えようとしていたもの。私が意思の力で拒んでいたもの。
全身で、求めている。慈しみ、保護欲、触りたい、それとも真綿でくるむように大切にしたい。その一方で、荒々しく組み敷いてしまいたい。しかし根底にあるのは、深い思いやり。
なんていう熱量だろう。私はくらりと、めまいがした。ギィは一言も口にしていないのに、彼の瞳はありとあらゆる感情を私に伝えようとしている。
名を、渡したい。そう呟いた。
「俺の名は。ギィルツクヤ=ウィツィロポチトリ」
「は」
「ギィルツクヤ=ウィツィロポチトリ」
「ぎ、ぎぃるつく……?」
ギィはそれ以上は何も言わずに、ただじっと私を見ている。その瞳にあるのは、期待と畏れ、憧憬と緊張? アブドロが、ギィのことをギィルツクヤ、と呼んでいたことを思い出す。彼の名前なのだろうか。だとすると、名乗り返すべきなの、これ?
「さ、佐藤縁子、です」
ギィの瞳が、ふうっと愉悦に満ちて細められる。天使のような無垢と、普段からは想像できないほどの色気と淫蕩さが混在していて、私はそのまま、頭からばりばりと食べられてしまうような錯覚に陥る。
そのとき、ギィと私の胸のあたりに、鈍い光が生まれた。
ちいさな豆電球のような――と思う間もなく、その光は膨張し、目を開けていられないほどの強さになった。
触れ合う胸部に熱が集まり、私は混乱のただ中に落とされた。いっそ心臓が溶けてしまうような熱。
(待っていた。――ああ、やはり我輩の予知の力は正しかった! 縁子、おまえが!)
たまが歓喜をのせて叫んでいる。光が膨らみきって、はじけるように霧散した。
目の前には、ギィの驚き顔と――まるでダイヤモンドのように、輝く玉が浮かんでいる。
(なんと、美しい。見事な天珠であることよ)
蕩けるように、うっとりと、たまは囁いた。




