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8.彼らの過去

 頬が、熱い。

 ちりちりと、あるいはじんじんとするような熱を持っている。いや、これは腫れている痛みな気がする。

 ぱちん、ぱちんという音も、聞こえてきた。


「お目覚めかな、お嬢さん」


 この男は、誰だったろう。長身で細面、美しいと言える顔立ちなのに、その目の奥に潜むのは、なにかよくないものだ。

 ついでのように、最後にもう一発、私の頬をぱちんと叩く。私は声を出そうとするが、ひどくのどが痛い。砂漠の不毛地帯のように、乾いている。


「だ、れ……」

「おや、私のことも忘れてしまった? そろそろ、お遊びはおしまいにしたいんだけれど」


 ため息をついて、男は私の目の前にある椅子に腰を下ろす。あくまでゆったりと、上品に。まるで貴賓室のソファでくつろぐかのように。

 私は身体がひどく重く、だるいことに気づく。この極限の状況と、寒さのせいで、おかしくなったのかもしれない。不自然にかたかたと震えている。壁に寄りかかるように座り、両手は錠をかけられ、ばんざいをさせられたままだ。


「お嬢さん、君はまったくの素人だ。何をしようとしても、すぐに気を失ってしまう、ただの人間。いったいどうして、ギィルツクヤが君を使ったのか、理解不能なほどだ」

「言った、はず。私は何も、しらない」

「そうだとしても。君は唯一の手がかりだ。なんでもいい。彼らの会話でもいい。私は君との、ありとあらゆる対話を望んでいる。話しているうちに、知らぬ事実に気づくこともあるというもの」


 私は心底、ギィが私に何も話さなくてよかったと思う。苦痛に負けて、情報を話した瞬間に、確かに私の肉体は自由になるだろう。

 ただ私の心は、取り返しのつかない苦痛をずっと負うことになる。話すべきものがないなら、諦めもつくというものだ。

 誰に恥じることも、私はしていない。そう思えば、少しだけ気持ちは軽くなる。


 アブドロは繊細な眉をひそめて、こまったねえと呟いた。


「ギィルツクヤは、私の懐刀ふところがたなでね。彼がいなければ、私はこの地位にはいないんだ」


 男はおもむろに話し出す。あるいは私の反応を探るためかもしれない。会話のとっかかりを見つけるためかもしれない。上品に椅子から立ち上がり、通路へ移動する。そこにあった水がめの水を、壁に掛けてあったなべに移し変え、通路にある明かりから火種を取り、その場で火を熾す。私はそれをぼんやりと眺めながら、彼が熱湯を作る気だと、ようやく気づいた。


「あの兄妹を手に入れられたのは、本当に運がよかった。知ってる? 彼らはここから遠く離れた山岳地帯に住む、牧畜と戦闘で細々と暮らしていた少数民族」


 かつてはそれなりに大きな街を築いた民族だったが、西から侵入した遊牧民にその地を追われ、山岳へ移り住んだ。ギィたちは戦闘を得意とする民族ではあったが、圧倒的に数で負けていたという。結果、家畜の毛皮や乳で生計を立てるようになった。

 瞬く間に育った火になべをかけ、アブドロは再び私の前にある椅子に腰を下ろす。通路でふつふつと温度を上げる水を眺めながら、滔々と話していく。聞きたくないのに、それは耳に染み込んで、脳に届く。


 ギィとニグラさんは十数年まえ、病気の母親の医療費として多額の金銭が必要になった。父親はとうに故人。まだ幼かったギィは、アブドロから金を借りた。担保は、家の家畜五頭ぶん。

 しかし甲斐なく母親はじきに息を引き取った。ギィは家畜を売り払い、金を工面し、返済しようとしたが、借用書にはありえないほどの利子が記載されていた。

 ギィは抗った。アブドロは紙面を突きつけた。

 そうして、烙印奴隷スティグマートに身を落とされた。アブドロは戦闘民族に伝わる戦いの技の有用性を知っていたのだ。とりわけ、暗器の汎用性は高い。彼らの一族は人間の身体の秘孔ひこうなる急所を、代々教えついでいたという。

 ギィはあらゆることに手を染めさせられた。アブドロには、政敵から何から、弱みを握りたい相手には事欠かなかった。

 年に一回、ニグラさんとの面会を許される日だけが、彼が息をつける場所だった。


 聞きたくなかった。聞いてしまえば、彼らに心を傾けてしまうとわかっていたから。

 あくまで借りを返すだけ。それは私の「大人としての」線引きで、防衛線だったのに。


 哀れなギィ。哀れなニグラさん。心の奥から、ふつふつと込み上げる熱。私はそれをやり過ごそうと努める。


「私はね、お嬢さん。ギィルツクヤを失えないよ。愛してさえいると思う。あんなに醜く、哀れで、惨めな化け物を、この私以外に誰が愛せる? それなのに、あいつは今回、私を裏切った。報告に来たときの様子が、いつもと違う。どこが、というわけではないんだけどね。まあ、勘ってやつさ。そうしたら、ほら、こんなざまだよ。逃がしやしない。証文がある限り、あいつは逃げられないんだ」


 そううっとりと微笑んで、煮えたぎったお湯を見つめている。私は恐怖と怒りのせめぎあいを感じた。我慢しろ、ここで言ってしまえば、自分の首を絞めるだけだ。


「なんとしても、取り戻す。なに、あいつも満更ではないんだ。知ってる? あいつは表情ひとつ変えずに、子どもの皮だって剥ぐことができる。ひょっとしたら、楽しんでさえいたのかもなあ。呪われた戦闘民族の、血筋かな」


 それを聞いた瞬間、私の中で何かが切れた。


「――馬鹿じゃないの。ギィが、好き好んでやっているとでも? あんたは、知らないだけ。ギィは、やわらかくってあたたかい心を持っている。とっておきの相手にだけ向けるように、ちゃんと大切にしている場所がある」


 こいつは知らないのだ。ギィが、街中でぶつかった子どもを、どういう目で助け起こしてあげていたか。

 そりの手綱が壊れて、立ち往生しているおじいさんに、無骨ながらもさりげなく直し方のアドバイスをしていたか。

 辛い味付けのスープを、懐かしそうに見ているか。

 裁縫に失敗した私に、どう苦笑したか。

 暖炉の編みぐるみを、どういう目で見つめていたか!


 ギィが借用書に署名してしまったことは、仕方ない。日本でもよくある、詐欺まがいの手口だろう。私たちはいつでも、ある程度の危険に取り巻かれている。自衛のために学校で勉強をし、社会で活かす。自己責任というのは簡単だ。

 けど、けど!


「ギィをおとしめることは、許さない! 好き好んで悪事をしたことなんて、ない! 訂正して!」


 ずっと黙っていた私の突然の抵抗に、アブドロはしばらく目を丸くしていた。

 しかし、徐々にその目じりを吊り上げる。顔にも血がのぼり、赤くなっていく。


「小娘が、さかしらな口を。きさまがあいつの何を知る。あの誇り高い死神を語っていいのは、この私だけだ!」


 拘泥こうでい。この男は、ギィにすさまじい執着心を持っている。愛というものを、ななめ下から見ると、あるいはこういうかたちに見えることもあるのかもしれない。

 そうして、ひしゃくに汲んでもなおぐつぐつと蠢く熱湯をたっぷりと汲み、私の前髪を鷲づかむ。ぐっと顔を上げられて、反射的に顔をゆがめる。熱湯の飛沫が飛んできて、反射で顔を背けようとするが、頭皮ごと固定され、動けない。


「手始めに、二度と消えない火傷をつくってやろう。その後で、おまえにも奴隷印を押してあげよう。ギィルツクヤとお揃いだ。死ぬまで、この地下で過ごすがいい」


 ああ、やってしまった。私は投げやりに反省する。基本的には事なかれ主義なのに、ときどきどうしても自分を抑えられなくなる。矯正したい、私の癖だ。ただ、黙っていられないのだ。他人を見下ろして、人としての尊厳を傷つけるようなことを言うのは、聞くことも耐えられない。

 ひしゃくが額に当てられる。もうだめだ、とぎゅうっと目をつぶる。来るべき熱と痛みに、少しでも備えようと身体を硬くした。


 しかし、待てど待てど、痛みは来ない。


 おそるおそる目を開けると、そこには驚いたような顔で動きを止めているアブドロがいた。


 どういう状況、と思ったとき、声が響いた。


「――この日を、どれだけ待っただろうな」




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