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7.冷たくて暗い目覚め

 アブドロとは、どういう人物か。

 ジウォマさんが言うには、ビエチアマン有数の権力者で、人の使い方とタイミングの掴み方が非常にうまいという。

 

 私の知る限り、人をうまく使えて、機会を逃さない人は、だいたい社長である。そして、そういう人たちの一部は狡猾で、常人には思いもつかないことを、平気でやってのける。

 私のもっとも苦手な種類の人たちだ。どう逃げようとしても、からみとって利用される。


「おまえの兄は、本当に優秀だね。どんな無理難題を与えても、期日に合わせて仕上げてくる。おまえは、幸せものだ」


 どうしてだ。どうしてこの男は、わざわざ地下へ来た。ギィの話によれば、アブドロは基本的には地下に寄り付かない。そう言っていたのに。

 くるまっている毛布の中で、手のひらがじっとりと冷たく濡れた。具合が悪いときにも似た、嫌な冷えと汗。


「愚かでかわいい、私の死神。どうした、ニグラ? 久方の主人の御前だ。這いつくばって慈悲を乞え」


 文字どおり、鼠をいたぶる猫のような声だ。

 ギィはどうなったのだろう。ニグラさんは、ジウォマさんは。そして私は、どうしたらいい。


「来ないのなら、私が行こうか」


 えっ、と思う間もなく、金属のこすれ合う音がした。錠がかちり、乾いた音を立てて回る。かつかつと音を響かせて、声の主が寝台のすぐ脇までやってきてしまう。

 硬直したままの私から、粗末な毛布が剥ぎ取られる。

 こんなときなのに、空気にさらされている腕や足首に冷気が触れ、鳥肌が立った。

 首のうしろの服をつかまれて、思い切り壁に叩きつけられる。


「また、ずいぶんと小汚い娘を用意したものだ」


 痛みに耐えながらも、こきたないとは失礼な! と、思い切りにらみあげれば、そこにあったのは、思わぬ容貌だった。


 奴隷の主人、街有数の権力者――その言葉から、いかにも太って、年かさで、がはは、と笑うタイプの実業家を想像していた。

 しかしそこに立っているのは、どちらかというと涼やかな面持ちの30台半ばの男だ。

 その目に浮かぶのは、瑣末さまつなものへの侮蔑と苛立ちだろうか。男は確かに、腹立たしげだ。だとすると、ニグラさんたちはまだ捕まっていないのかもしれない。


「貴様らは、用なしだな。ニグラを失ったこと、どう落とし前をつける」


 私を見ながら、歌うように呟いた声は、どうやら看守たちに向けてのものだった。

 いびきをかいていた男と、鼠を追い回していた男はひどく焦って、言葉もでない様子である。すさまじい罰則でもあるのかもしれないが、知ったことではない。ちなみに、鼠を捕まえられたのかどうかは、すこしだけ気になる。


 すぐに、捕らえてまいります。大きな図体のわりに声を震わせて、男たちは答えた。がちゃがちゃと武器を鳴らして、地上の人となっていく。

 遠くで、たくさんの人間があわただしく動く気配もしていた。地下牢には、私と男だけが残された。


 アブドロと呼ばれるこの男は、さて、と私を見下ろす。


「おまえはどういう女だろうね。ギィルツクヤに、金で雇われた? それとも、質を取られて脅された?」


 聞きなれない名前に、私は眉をしかめる。ギィ、とは彼の愛称だったのだろうか。私の表情を、まるで占い版の結果を読み取るようにして、アブドロはのぞき見る。


「まず、これを奪わねばね。みだらな魔のにおいがする」


 そう言うやいなや、左腕にはめていたたまを奪われる。驚きで声もでないうちに、壁に叩きつけ、破壊される。

 間髪いれずの行動だった。薄いガラスの割れる音。私は床にちらばった、たまねぎ色の破片を見て、思考が追いつく。


「たま、たまっ! やだあ!!」


 とっさに拾い集めようと、床に四つん這いになった私の手の甲に、ブーツの先が食い込んだ。痛みに顔をしかめながら、何をする、と見上げる。キャベツを見るように私を見下ろす瞳とかち合う。

 私は背骨を抜かれて、代わりに氷柱つららを入れられたかと思った。煮ようか、それとも刻んで炒めようか。邪気のないその表情。この男、私を人間とは思っていない。


「だんまりを決めこんでも、おまえにいいことは無いのだが。――よろしい。私がこの手で聞いてあげよう」


 アブドロはゆったりと微笑んで、檻の外へと手を伸ばす。

 外に吊るされていた手枷が、楽しげにじゃらりと鳴った。





 どこかで水音がしている。


 台所の蛇口を締め切っていなかっただろうか。シンクに溜めた洗い物に、水滴が一滴ずつ落下するような音。

 この音を聞くと、拓斗の飲み水が満ちているか、いつも気になる。


 毎朝、家を出る前にすること。窓の戸締り、ガスの元栓、拓斗の食事と水の確認。それから靴をはいて会社に向かうのが、拓斗と暮らし始めてからの習慣だった。

 拓斗は捨て猫だったくせに、舌が肥えているところがあって、硬いかりかりだけだといつも残していた。

 夜に帰宅して、お残しをしている拓斗に呆れて見せる。すると彼は甘えたように擦り寄るのだ。そして足元にちょこんと座り、見上げてくる仕草に陥落して、高級魚肉をあげてしまうのだ。

 もしホストだったら、絶対にナンバーワンだ。とにかくほかの場面でも、いたるところで抜け目がない。

 賢くかわいい、私の拓斗。


 でも、おかしい。水音がする?

 最近は洗い物なんて、たらいに水を張ってゆすぐ程度ではなかったか。

 たらい? 現代社会でたらいを使うっけ。


 ぴちゃん、ぴちゃんと、規則的に響くそれは、考えの邪魔をする。


 不本意ながらも、ひどく重いまぶたを開けば、薄暗い中に足が投げ出されている。

 ふくらはぎからは血が流れ、固まりかけの血ははだしのかかとに留まっていた。肌つやも悪いそれが私の脚だと気づくのに、しばらくかかった。


 壁に寄りかかりながら座っているようだ。

 床は真っ黒な石で、水を流したように濡れている。留まるところのない凍えるような冷気が、濡れた石と接するところからを私を包んだ。

 壁に上半身を寄りかけて、私はそこに、座っている。


 いや、違う。


 ボウリングの玉のように重い頭を、ぐるりと回しながら、無理やり上げる。

 頭上には、手錠をかけられた私の両手が見えた。壁に打ち付けた釘みたいなものに、引っ掛けられている。

 すでに感覚は失われ、暗闇の中では不健康な紫色に見えた。

 その左腕になにもないことが、小さな喪失感を私に与えたが、なぜだかは思い出せない。


 ゆるり、横を見ると、いくつもの棒が上下にはめ込まれている。

 ようやく私は気づく。

 そうだ。ここは地下牢だ。


 でもどうして、こんなところにいるのだろう。

 どうして、こんなふうに拘束されているのだろう。


 私は、そもそも、誰だっけ?


 自分の名前を思い出せるうちは大丈夫って、なんかの映画で誰かが言ってた気がする。

 ええと、ええと。


 そう、大丈夫。私は縁子ゆかりこ。佐藤縁子。

 凍える唇を動かして、呟いてみる。ゆかりこ。

 おかしな名前だ。小学生のときは、給食にゆかりご飯が出るたびにからかわれたものだ。悪い意味の漢字ではもちろんないが、名前にするのはどうかと思う。

 そんな名前を、まるでとっておきの飴玉のように口にしてくれた人たちを思い出す。


 あの四人は、元気だろうか。

 ちゃんと、ご飯を食べているだろうか。

 悲しいことは、ないだろうか?


 こんなことになるのなら。あの四人としっかり向き合えばよかったのかもしれない。

 私の卑怯の、報いなのかもしれない。卑怯は、必ずどこかでしっぺ返しがくるものだから。


 身体がひとりでに身震いをした。私の服装はひざまでの粗末な麻のワンピース一枚で、寒さを凌ぐ役にはもちろん立たない。

 見下ろせば、胸のところにちゃんと膨らみがある。なんだか久々に見た気がするが、けして大きくはない私の胸だ。

 

 息を吸い込めば、乾燥した空気がのどを切り裂く。

 全身が水分を欲していることに気づいたが、もちろん飲み物などない。ここは牢獄。


 そう、牢獄だ。

 だんだん、思い出してきた。しかし思い出すと同時に、ひどく眠くもなってきた。


 こうなっては、どうにもならないのだ。眠れるだけ眠っておこうと、眠気に逆らわずにまぶたを下ろす。


 遠ざかる意識。どこかで声がする。聞いたことのない、女の人の声。


 たすけて。

 ころして。 


 相反する言葉。疑問を抱く前に、私は暗闇へ落ちていく。




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