6.新たなイケメンには、取り付く島もないようです
私はしばらく、放心していた。いっそ暴力的なまでの、荒々しい美を前にしたせいだ。
美術館で一枚の絵を眺めるような私とは対極に、彼はまるで、部屋の壁を歩く蜘蛛を眺めるように、私を見上げていた。
それから、いかにも腹立たしいというように眉根を寄せた。小さく息をついて――
「!?」
一瞬の間に、私と彼の位置関係は逆転していた。
すなわち、私が彼の真下にもぐりこんでいて、彼は私を見下ろしている。
何を、と言う前に、私の手首はひねりあげられ、頭の上あたりでひとまとめに拘束された。
両手首を、片手で悠々と締め上げられる。
その力強さと、男の余裕に、ぞっとする。
そう、男と女はこんなに、差がある。
阿止里さんたちは、その力を、私を守る方向に使ってくれた。でも、この男はそうじゃない。
ぎりり、と力を込められて、私は喘いだ。寒さと拘束とで手首から先の感覚が、すでにない。
「……おまえ、男か?」
生理的な涙を浮かべる私を間近に見て、彼は問いかけてきた。
疑わしそうに私の上半身を観察しているが、その胸は魔法でまっ平らになっている。
そう、触られない限り、私は男に見えているはずなのだ。これ、きっと女ってわかったらやばそう。
なんとかして、触られることだけは避けなければ。
「もっ、もちろん! 男です。故郷には愛するものもいます! だからっ、町に行きたいんです!」
拓斗のことだが、嘘ではない。
彼は目の前にあるのが、道にへばりついたガムなのか一円玉なのか、見極めるように目を眇めた。
空いているほうの手で、彼は頭衣をはぎとった。
とたん、薄い肌着のような布しか纏わない私は、冷たさに全身を刺されるような心地になる。
男はそんな私を尻目に、あらわになった私の顔と、身体の線とを眺めている。見た目はいよいよ、男にしか見えないはずだ。
次に男は、ゆっくりと私の顎に添えて、そのまま頬を滑らせ、耳に触れられる。まるで医者のような、ひどく中立的な触れ方。
そのままゆるゆると首筋をなぞられて、私はびくりと身体をすくめる。
そんな私の一挙手一投足を見逃さないような男の瞳には、次第に疑惑が宿っていく。
「男にしては、貧弱にすぎる。女にしても、丸みのかけらもない。おまえ、いったい何なんだ?」
貧弱とは、いかんともしがたい。
というか、鋭いなこの男!
「私は、奴隷でした。いえ、今も奴隷です。食生活がひどすぎて、育てなかったっていうか」
ぎりぎり嘘ではないことを言ってみる。実際、奴隷小屋で与えられたものといえば、まるっきり家畜の餌だ。
あれを摂取し続けていたら、冗談ではなくこういう体型になっていただろう。
男はまだ納得がいかないように首を傾けて、私の首筋に顔を近づけた。
何を、と思う間もなく、首筋に噛み付かれた。
ちいさな生き物が鳴くような声が、私の口から漏れた。
男はそのまま、今度はなだめるようにやさしく舐め上げ、耳たぶへとその舌を伸ばす。
水音を立てて、耳の輪郭もねっとりと口に含まれる。
ぞくぞくと、寒さからではない震えが腰の辺りから広がっていく。
私はわけがわからないまま、必死で息を止めた。何だ、どういう目的でこうなっている。
もしかして、男が好きな男なのだろうか、とも思うが、そう判断するには男の瞳は渇きすぎている。
そして始まりと同じように突然、それは終わった。
彼が身を起こした瞬間、舐められた皮膚が冷たい空気に触れて粟立つ。
「どうやら、男で違いない。色気のかけらもない」
私は言いたい放題の男に、怒りと羞恥で声も出なかった。
なんて、なんて失礼なやつなんだ! いや、結果オーライなんだけど。
もし、今後、実は女だったんだよと明かせるときがきたとしたら。全力で女らしさを出しまくって、色気の塊だと思わせてみせる!
元気だせ、と、たまが呟いた。こういうときだけ優しいのって、どうなの。
うるさい、と心の中で答えると、たまがおかしそうに笑った。
※
(小娘、安心するのは早い。この男に、なんとか我らを運んでもらわねば)
わかってる、と私は慎重に言葉を選び、再度切り込んでみる。
ちなみにたまの声は、どうやら私にしか届いていないのだと、このとき初めてわかった。
「乱暴な引き止め方をして、すみません。どうしても、私は行くべきところがあるんです」
私、と言うと女と思われるかな、といまさらながら思ったけど、阿止里さんも私と言っているし、いいだろう。
男はしかめっ面で上半身を起こし、手を膝に乗っけている。
そのまま私を、頭の毛の一本から足のつま先まで、まるで脳裏に焼き付けるかのように、凝視した。
ありとあらゆることを、見透かすような瞳の強さ。
男に化けて、だましているという負い目に、私は心苦しくなる。嘘やごまかしという、自分を消耗する行為は、学校生活からずっとしていない。
一度嘘をつくと、その嘘を守るためにほかのごまかしが必要になる。
まるで坂道を転がる雪玉のように、嘘は増え続け、自分の心を重くする。だから私は、嘘をつかない。
まあ、そもそも嘘をついてまで守りたい何かとかも、ないんだけどね。
ただ、今はこういう状況なので、私は仕方ないと思いつつも、負い目を感じたままだ。
女だ、って言ったら、本当にいろんな危険性がある。
無防備に出歩けるのは、法が整備された世界でだけなんだなあ、と改めて感じたりした。
男は、黙ったままだ。
私も、何を言うべきかわからない。こういう交渉ごとなんて、事務方の私には経験がないのだ。
とりあえず、まくりあげられた頭衣をしっかりと直してみる。こんな布でも、一枚あるのとないのとでは段違いに体感は変わるのだ。
なにか、会話をと思い、私はもごもごと口を動かす。
一度は様子を見に来てくれたのに、踵を返したのはどうしてだ、と尋ねると、男はうっとうしそうに口を開いた。
「別に。もし女なら、売ろうと思ったが違った。金持ちだったら身包み剥ごうと思ったが違った。それだけだ」
たいがい、人でなしらしい。
というか、男に見えるようにしておいてもらって、ほんとによかった。
「あんたは町に連れて行けというが、それで俺に利点はあるか? そんな格好をしている男に、まとまな頭があるとは思わないが」
そうなのだ。私の格好は、ククルージャで買出しに出かけたときのままである。
つまり、いまだに目のところしか見えていない、女性用の頭衣をかぶっているし。
サンダルだし、防寒具なんて持ってないし。はたから見たら、完全にやばい人だが、こっちにも事情というものがある。
「お金はありませんが、そうじ、洗濯、炊事なら一通りこなせます。ほかにも、やれることなら、なんでも」
念のため、繕い物ははずしておいた。結局、ちっとも上達していないのだ。
男はゆっくりと首を傾けた。私を見定めるように目を眇めて、心底億劫そうに眉を寄せる。
その表情ときたら、厄介な取引先から電話がかかってきたときの課長の顔にそっくりだったので、何を考えているかだいたいわかる。
どうやったら私を追い払えるか、すばやく計算しているに違いない。
それから彼は、ちょっと思いついたように唇を曲げた。そしてゆっくりと、自分の袖をまくり始めた。
「――これを見ても、俺についてきたい?」
男が露出させた、右の上腕のあたり。
そこには、赤子の手のひらほどの大きさの、醜い焼印があった。
山羊だろうか。何かの動物を模したような模様らしかったが、あまりに皮膚が引き攣れていて、よくわからない。
痛々しさに私が眉根を寄せると同時に、たまが苦々しく呟いた。
(烙印奴隷か――!)
ああ、また新しい言葉。
ほんっと、異世界って、厄介!




