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藍色心中  (ユーリオット)

幕間の番外編のようなもの。

日常の小話です。


三人称です。

 今までひとりで生きてきた。


 いささか語弊があるかもしれないので、補足する。自分も生物である以上、どこかに母胎である女はいたのだろうし、その種である男もいたはずだ。身体を維持するために、他の生物を取り込んでもいる。そういう意味あいでは、人とはひとりでは生きられないのだけれど。

 それでもやはり、ユーリオットはひとりで過ごしてきた、と断言できる。


 途中、「連れ」や「居場所」というようなものができそうになったことも、数えるほどではあるが、あった。しかし、結局は失われた。いつだって独りだった。今の「仲間」といることは、その数えるほど稀なことのひとつである。

 彼らとはわりと長く一緒にいるが、明日の保障など、どこにあるだろう。人間など、生まれるときもひとりなら、死ぬときだってひとりなのだ。


 そう思ってきたし、今でも、そう思っている。だからこそ、この不可解な感情をどう扱うべきなのかと、ユーリオットは苛立ちながら、それを持て余している。





「……おい」


 呼びかければ、女はんん、と小さく息をついた。重たげに震えるまぶたが、やがて気だるげに開かれる。とたん、生い茂る木の葉の隙間から差し込むひかりに透けて、その瞳が飴色に輝く。ユーリオットは縁子の瞳が炭色だと信じて疑わなかったが、このときばかりはその虹彩の輝きに驚いた。認識はいつでも生まれ変わる。頭上を覆う木々の梢が風を閉じ込めたように揺れ、さやさやと耳触りのいい音を立てた。


 ゆーりおっとさん。まどろみの中にいることがすぐに知れる、たどたどしい声がユーリオットの呼称を紡ぐので、もどかしくてたまらなくなる。

 ユーリオットは、自分が笑うことが苦手なことを自覚している。月花やナラ・ガルのようにとはいかずとも、せめて阿止里くらい笑顔を制御できれば、ともどかしくなる。

 笑みとは対人関係を円滑にするものであり、有益な道具のひとつ。自分には使いこなせないが。あるいは武器だとユーリオットは思っていた。誰かのために笑うなんてことを知らなかったから、彼はいまだに、目の前の女に向かって微笑むことができないでいる。

 

 縁子が背中を預ける木の横まで歩み、ユーリオットはしかし座り込むことはせずに背をもたせかけた。中庭というにはいささか狭いこの庭は、女が居つくようになってからずいぶん様相を変えたように、彼は思う。

 壁わきに置かれる鉢植えは、日に日に増えているような気がしてならない。そこからは種々のハーブが芽を出し、よく女は手早く数枚摘み取っては、湯を注ぎ、ハーブティーなるものをいそいそと差し入れてくる。洗濯物を効率よく乾かすために張り巡らされた縄には、いつもしわひとつないように衣服が干されている。台所まわりは清潔に保たれ、仕事から帰ってきてじゅうたんの上に砂ひとつないことに、いまだに驚く。彼女のたっての願いで庭に設置された机と椅子は、時に月花が書物を読んだり、ナラ・ガルが裁縫をしたりするのに使われている。阿止里も書物をよく読むのだが、部屋のランプの油はいつもたっぷりと保たれていると感心していた。

 そういうことからは、まるであたりまえの、「人間らしい」生活がそこに息づいていることを感じさせる。


 自分たちが、いままでずっと無縁だったもの。


 中庭の奥、日時計をかろうじて邪魔しない位置に生える木のふもとは、最近の女のお気に入りの場所らしい。

 気がつくとそこに腰を据えて、繕い物やら文字の勉強やら金勘定やらをしているようだった。


 無造作に女のわきに広げられている巻物を見る限り、今日の本は子供向けの物語を読んでいたらしい。最低限の文字を覚えないと、ろくに値切れないのだと、月花に教えを乞うていたのは、いつのことだったろう。


 異世界からきたのだと言う、その言葉はきっと事実だ。

 この世界で生まれ落ちた女にしては、ものごとの成り立ちや金回りへの知識が豊富に過ぎた。通常、自分の生業とする分野への知識は深く、それ以外は最低限というのが当たり前なのに、この女ときたら信じ難いほど多くの分野に通じている。もちろん、深くはないけれど。


 彼女が読んでいたのは、この世界の文字だった。

 そのことに切ないような安堵のような感情が泡のように生まれて、消える。


 女がここにいるのは金のためだ。金が必要なのは彼女の世界に帰るためで、帰るためには。

 ――いつか自分たちのもとから去っていく。


 ユーリオットは考えを止めるために瞼を下ろす。こんななりで、曲がりなりにも生きてくると、余計なことを考えずに生活できるようになる。疑問を持たず、逆らわず、与えられた役割に没頭できるようになる。

 ただ時々、鏡の中で白髪を見つけるように、虚脱と疲労を覚えることだって、ある。そういうときに支えとなるのは、家族だぞと、遠い昔どこかの酒場でとなりの男がわめいていた。その酔った男の顔も思い出せないというのに、下品な笑い声とそう話していた声だけはいやに頭に残っていることが不思議だった。軽口ひとつたたかず、人目につかないように女のごとく頭衣をかぶり、ひとり淡々と飲んでいたユーリオットに興味を覚えたのか、その男はさんざん話しかけてきた。所帯を持つのはいいことだ、いつでも、隣にいて支えてくれるいい女なしに、男は生きていかれない、とさんざんのろけてきたものだから、思わず辟易していたユーリオットも憎まれ口をたたいた。そうはいっても、仮に醜い男だったらどうするのだ。所帯をもてない男は、どう生きていけばいい。すると男は、ずっと黙って飲んでいた陰気な男の切り返しに、ちょっと目を丸くして、さらに笑った。

 生まれついた見てくれは、確かにどうしようもないが。けど、大事なのは心だろう。醜くとも、言葉を尽くして、手を尽くして射止めるんだ。だってそうだろう。俺はこのとおり、力だけが自慢の、出稼ぎの石切の工夫だが、いつだって俺は夢を見る。遠く離れた家で、あいつが帰りを待っている。へまをした日も、疲れた日も、あいつが夢の中でやさしく微笑む。どうだ、生きていけるだろう――。

 どうだかな。そう返しながらも、男の言葉には疑問が残った。では、この世のものとは思えないほど醜い男に惚れられた女の気持ちはどうなる。容姿のみならず、唾棄すべき生まれの男の、身勝手な、一方的な想いを押し付けられて、迫られて、女はそれでも、幸せになれるのか。よっぽどそう返してやろうと思ったのに、どうしてだかできなかった。


 目の前を、樹上から離れた葉がくるりくるりと落ちていく。

 広げられた巻物から目をうつし、自分の足元を見下ろせば、心地よさそうに目を閉じている縁子が視界に映りこむ。遠い過去の残像から抜け出すように上を見上げれば、緑の隙間から真白い太陽と、それに染め上げられる青い空とが網膜を刺激した。目を細める。酩酊するような白さが、頭を支配する。


「……夢を、見ました」


 足元から、寝起き特有のかすれた声がした。ちらりと見下ろせば、やはり目は閉じられたままである。ユーリオットはみたび上を見上げる。星のように輝く木漏れ日。


「そうか」

「不思議な夢で」

「へえ」

「でも、どことなくいい夢」

「それはよかった」

「ユーリオットさんにも教えてあげたいけれど、よく覚えてはいない」

「それは、残念だな」

「思っていないでしょう、その口調」


 ちなみにユーリオットはちゃんと残念だと思っていた。縁子の、媚びを含まぬ涼しい、耳障りのよい声が一定の抑揚を保ち空中に溶けていく、その声に包まれる余韻。それに意識を奪われすぎて、きちんと感情を込めて残念がれなかっただけだった。


 縁子が呆れたような気配とともに、ユーリオットを見上げた気がしたので、ユーリオットも視線を落とす。こちらへ向けられた、蜜色に瞬く瞳とかち合った。けれどすぐに眩しげに伏せられてしまったことを、ユーリオットは不愉快に思った。もっとその瞳に自分を映してほしい、という欲が沸いたのだ。それを恥じ、ごまかすように口を開く。


「覚えていなくとも、いい夢だということを覚えているなら十分だろう」

「……思い出して、言いたいんですよ」

「ずいぶん、こだわる」

「そりゃあ、まあ」


 だって、と縁子は唇を尖らせる。


「あなたたちの、夢だった」


 縁子はうまく伝えられないのがもどかしいというふうに、すこし眉根を歪めて、けれどすぐにどうでもよくなったのか、またあっさりと瞳を閉じた。

 そうすれば夢の続きでも見られると思っているのか。子どもじゃあるまいし――。ユーリオットはそう言ってやろうかと思ったのだけれど、結局できなかった。きりきりと、みぞおちの上あたりに、熱い何かが脈打ったせいだ。それは振動するかのように、かすかな痛みと痺れをともなってユーリオットの血管という血管を流れていく。指先を巡る。その熱は再び胸の奥あたりに戻って、切ないような苦しいような余韻をもたらす。何かの、病だろうか。


 ――縁子。


 思わず名前を呼んだ。縁子の顔がふわりと、ほんのわずか上向き、瞳を開けようとした。なに、と言いたげに。けれど瞼がどうにも重いといわんばかりに眉根が寄せられて、諦めたように首を傾けた。それをやさしく受け止める木の幹に、ユーリオットもまた体重を預けなおして、深く息をついた。

 乾いた赤土、木漏れ日の緑と反射された白、手を差し入れれば蒼く染まりそうな、藍色の空。ユーリオットはつい先ほどに、誰かが顔料をばら撒いたのではないかと疑った。なぜなら今まで世界はこんなに、色で溢れてはいなかった。


 縁子の、肩まである髪が風にあそばれて、いたずらのようにユーリオットの太腿をかすめている。そこからたしかに感じる、彼女の熱。息づいている、生きている。


 これは、この感情は、何なのだろうか。もしかしたら、今までこの世のありとあらゆるものすべてを一度は憎み、諦め、深く関わることを避けてきた罰だろうか。


 ひとりで生きてきたのに、もう独りでは生きられないのかもしれないと、ユーリオットは空恐ろしく思う。


 手のひら乗るような寸法まで小さくして、どこへかしこへも連れていけるように、できないものか――。


 ユーリオットは真剣にそれを三人に提案し、満場一致でそういう魔法を探しだそうと奔走して、事情を知った縁子が全力で止めたのは、この数日後のことである。




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