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7.サンチマンタリスムと、三つの月

 ここは、地球ではないのかもしれない。


 獣人がいるし、魔獣だっている。生活様式や食物は似ているが、やはり異なる。


 それでも私は、まだどこか、現実として異世界だということを受け入れられずにいた。

 心のどこかで、異世界なんてばかげている、夢でも見続けているだけなのではと。


 昔、学校を休んだときに似ている。いつもは学校で2限目を受けている時間なのに、私は家のベッドで寝ていて、枕もとのゼリーなんかも、好きなときに食べれる。

 現実なのに、どこかふわふわと夢心地のような、そういう感覚。


 けれど、違ったのだ。

 ここは、間違いなく異世界なのだ。

 その現実を受け入れたのは、私がこの世界に来てからおよそ数ヶ月後のことだった。



 ある真夜中、私はのどの渇きを覚えて目を覚ました。

 昨日から、急に風が強くなり、それも冷たくなっている気がする。

 そのせいだろうか、いやにのどが渇いていた。


 窓から差し込む星明りがやけに明るいなあと思いながら、私は水瓶のある外へ向かった。


 そして、庭に出て――目を疑った。


 月が、三つあるのだ。


 この世界に来てから、一度も見たことのない月が、それも三個も。


 しかも、見慣れたまるく、白い月とはまったく似ても似つかない。

 それはまるで、河原で適当に拾ったかのようないびつな形。色だって、苔が生えた石のようなものや、火山灰を練り固めたような赤銅色、カレー粉のような、黄土色だ。それらの物体が、子どもが無造作に置いたような配置で貼り付けられている。


 その歪さと異様さは、理科の教科書に載っていた、火星の衛星フォボスやディモスを思い起こさせた。


 私は自分が震えていることに気づいた。

 夢や、妄想ではないの?

 毎日通っていた会社は? アパートだって、もうすぐ更新月だった。インターネットだって、光回線に工事しようか悩んでいて、金曜日は近くのスーパーの冷凍食品割引で、ハンバーグを買おうと思っていて。


 そういう現実には、もう戻れないの?


 私はいてもたってもいられなくなり、地面に転がっていた、手ごろな石を拾って、手首を思い切りこすり上げてみた。


 皮膚が削られる、熱を感じた。痛みはない。じわりと、血があふれ出て、手首から腕をつたい、肘で一呼吸置いて、地面に落ちた。

 地面には、砂場に水を落としたときみたいな、みじめな跡が残るだけだ。


 これは、現実なのだろうか。

 いや、きっと夢だ。

 だって、手首はちっとも痛くない。


 頭を抱えるように、両手で覆う。脚からかくんと、力が抜ける。よろけたはずみで、壁際に干していた土製のコップが斜めに揺れて、落ちて砕けた。


「――縁子?」


 声がした。台所のほうを見ると、不思議そうに私を見る阿止里あとりさんがいる。

 その表情は、徐々に訝しがるものに変わり、それから幽霊でも見るような表情に変わっていった。


「どうした」


 何があった、と、私の手首に気づいて、ゆっくりと問いただしてくる。

 いつでも沈着冷静な阿止里さん。あなたも、私の妄想なのだろうか?


「三つあるんです」

「何のことだ」

「つきが」

「月?」

「色も、とりどりで」

「おい、しっかりしろ。月が出たのは、シャワークの暦に入ったからだろう。それに、月は三つあるものだ」

「ああほら、また、わけのわからない言葉。もう、うんざり」

「縁子」

「どうして、私だったんだろう。地球には40億人くらい、女の人っているはずなのに。どうして」

「縁子、この怪我はどうした」

「夢なんですかね?」


 阿止里さんが、信じられないものをみるような目で私を見ている。

 まるで私の頭が山羊に変わってしまったかのように。


「こういうのは、どう。本当は、帰りの電車から降りて、階段で足を滑らせて、私は入院しているの。ずっと昏睡状態で、私は夢を見ている。それが、いま、この世界。だから、きっかけひとつで私は目を覚まして、拓斗の待つアパートへ帰れる」


 そうだ、そうに違いない。

 目を覚ますためのきっかけは、いったい何――


「縁子!」


鋭く私の名前を呼ばれた。次の瞬間、阿止里さんは腰に差していた短剣を抜き、自分の左腕を切り裂いた。


滴る鮮血が、月光を反射して蜜のように流れている。


「これでも、夢と疑うか」


阿止里さんの黒色瞳が、強靭な意志を宿して星のように揺らめいている。


「流れる血、失われる肉。紛うことなき痛み。どうしようもなく、現だと思わないか」


ぽたり、と音が聞こえた。そして、私は圧倒的な息苦しさに、呼吸ができなくなる。

 はっ、と浅く息を吐いてから、私は阿止里さんに、容赦ない力で抱き込まれたのだと知る。


「――夢には、させない」


 阿止里さん、と、きれぎれに名前を呼んでみたが、聞こえていないようだった。


「所以はどうあれ、縁子は私の前にあらわれた。そして、私の名を呼んだ」


 ちっとも厭がらず、疎まず。と、頭上から落ちてくる言葉を、私は浴びる。

 背中に、腰に、回された彼の腕はいっそ荒々しいのに、耳元で紡がれる言葉は静かな熱を湛えている。直接脳にささやかれるような声に、私は今までとは違う種類の震えを覚える。


「おまえを、失うことはできない。だから、私の目の前から消えてしまうようなことを言うのはよせ。そんなことを言われたら、その細い足を切り落として、どこへも行けなくしてやりたくなる。どうか私に、縁子を傷つけさせるな」

「えっ」


 冗談ですよね?

 恐ろしい発言に、私は背中に氷を投げ込まれた心地になる。

 夢だろうが現実だろうが、肉だるまにはなりたくない!


 そう思うと、急に手首の傷が痛みだした。そこに心臓があるかのように脈打ち、ひりひりしている。

 痛みに身体を強張らせたのが伝わったのだろう、阿止里さんはわずかに身体を離し、私の顔を覗き込んでくる。


「ばかなまねを。痛むだろうに」

「あ、阿止里さんこそ! 身体が資本のくせに、そんなことして」


責めるように八つ当たりをしてみる。それからひとつ呼吸して、どうせ私はばかですよ。止める呟いた。


「大富豪でも勝てないし、裁縫だって、縫い目が大きすぎてナラ・ガルさんに笑われる。この世界の文字もよめない。月花はやさしく教えてくれるけど、ものおぼえが悪い自覚はある。仕方ないじゃない。高校では、三角関数だって赤点だったし」


 言いたいことを言って当たり散らし、彼をにらみ上げたのに、阿止里さんは、それから? というように、唇を上げた。

 面白がるような、獲物を追い詰めるような光をその黒い瞳に認めて、私は理解した。


 この人、寡黙で無表情で頼れるボスみたいな雰囲気のくせに、きっと中身は俺様いじめっ子では?

 上手に上手に、私に気づかれないようにしてきたに違いない。


「あ、阿止里さん、面白がっているでしょう!」

「かわいがっていると思うが」

「そ、そんな遊びなれているふうなことを言うなんて」

「ああ、縁子が私の腕の中で怒ったりすねたりするのが、楽しくて仕方ない」

「わっ、私は! 真剣に、悩んでいて!」


  暴れる私の腰には、阿止里さんの腕がしっかり回っているので、距離が近すぎて落ち着かない! いろんな不安ややりきれなさが、そのせいでちょっとどっかへ行ってしまった。

 真面目に悩んでいたのに、なんだかなあ。

そっと、私の傷ついた腕を持ち上げられる。


「ユーリオットを起こさねば。傷が残ったらどうするつもりだ」

「乙女でもないんですから、いいんです。ほっといてください」

「腕にも、顔にも、いろんなところに、血がついてしまっている」


 出血したまま、頭を抱え込んだりしたからだろう。いいです、水で洗うから。

 いいかげん、離してほしい――と、阿止里さんの上半身を押そうとした腕を、彼は捕らえて、ぺろりと舌で舐め上げた。

 あっけに取られた私を見て、ちょっと伺うように首を傾けた彼は、ゆっくりと私に顔を近づける。

 硬直している私の唇のわき、頬のあたりも、ついでのように舐めとった。

 私は数回瞬いて、それから、顔にどんどん熱が集まるのを感じた。

 夜中とはいえ、月が三つもあるのだ。きっと、真っ赤なリンゴのように見えてしまっているに違いない。

 戸惑いと羞恥に、何を言うべきかわからず、口をはくはくさせた私を見る阿止里さん。

 彼はかじりつきたいのを我慢するように、切なげに顔を歪ませた。


「ああ、本当に――どうしてくれよう、この娘」


 それはこっちの台詞です。


 私、お金を貯めて自分を買い戻して、一刻も早く魔女アレクシスに会わなければ!

 五体満足で拓斗を抱きしめるためには、それしかない。




 そう息巻いた、翌日のこと。

 この世界に呼び込まれたときと同じようにーー転機は突然、訪れた。




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