7.サンチマンタリスムと、三つの月
ここは、地球ではないのかもしれない。
獣人がいるし、魔獣だっている。生活様式や食物は似ているが、やはり異なる。
それでも私は、まだどこか、現実として異世界だということを受け入れられずにいた。
心のどこかで、異世界なんてばかげている、夢でも見続けているだけなのではと。
昔、学校を休んだときに似ている。いつもは学校で2限目を受けている時間なのに、私は家のベッドで寝ていて、枕もとのゼリーなんかも、好きなときに食べれる。
現実なのに、どこかふわふわと夢心地のような、そういう感覚。
けれど、違ったのだ。
ここは、間違いなく異世界なのだ。
その現実を受け入れたのは、私がこの世界に来てからおよそ数ヶ月後のことだった。
※
ある真夜中、私はのどの渇きを覚えて目を覚ました。
昨日から、急に風が強くなり、それも冷たくなっている気がする。
そのせいだろうか、いやにのどが渇いていた。
窓から差し込む星明りがやけに明るいなあと思いながら、私は水瓶のある外へ向かった。
そして、庭に出て――目を疑った。
月が、三つあるのだ。
この世界に来てから、一度も見たことのない月が、それも三個も。
しかも、見慣れたまるく、白い月とはまったく似ても似つかない。
それはまるで、河原で適当に拾ったかのようないびつな形。色だって、苔が生えた石のようなものや、火山灰を練り固めたような赤銅色、カレー粉のような、黄土色だ。それらの物体が、子どもが無造作に置いたような配置で貼り付けられている。
その歪さと異様さは、理科の教科書に載っていた、火星の衛星フォボスやディモスを思い起こさせた。
私は自分が震えていることに気づいた。
夢や、妄想ではないの?
毎日通っていた会社は? アパートだって、もうすぐ更新月だった。インターネットだって、光回線に工事しようか悩んでいて、金曜日は近くのスーパーの冷凍食品割引で、ハンバーグを買おうと思っていて。
そういう現実には、もう戻れないの?
私はいてもたってもいられなくなり、地面に転がっていた、手ごろな石を拾って、手首を思い切りこすり上げてみた。
皮膚が削られる、熱を感じた。痛みはない。じわりと、血があふれ出て、手首から腕をつたい、肘で一呼吸置いて、地面に落ちた。
地面には、砂場に水を落としたときみたいな、みじめな跡が残るだけだ。
これは、現実なのだろうか。
いや、きっと夢だ。
だって、手首はちっとも痛くない。
頭を抱えるように、両手で覆う。脚からかくんと、力が抜ける。よろけたはずみで、壁際に干していた土製のコップが斜めに揺れて、落ちて砕けた。
「――縁子?」
声がした。台所のほうを見ると、不思議そうに私を見る阿止里さんがいる。
その表情は、徐々に訝しがるものに変わり、それから幽霊でも見るような表情に変わっていった。
「どうした」
何があった、と、私の手首に気づいて、ゆっくりと問いただしてくる。
いつでも沈着冷静な阿止里さん。あなたも、私の妄想なのだろうか?
「三つあるんです」
「何のことだ」
「つきが」
「月?」
「色も、とりどりで」
「おい、しっかりしろ。月が出たのは、シャワークの暦に入ったからだろう。それに、月は三つあるものだ」
「ああほら、また、わけのわからない言葉。もう、うんざり」
「縁子」
「どうして、私だったんだろう。地球には40億人くらい、女の人っているはずなのに。どうして」
「縁子、この怪我はどうした」
「夢なんですかね?」
阿止里さんが、信じられないものをみるような目で私を見ている。
まるで私の頭が山羊に変わってしまったかのように。
「こういうのは、どう。本当は、帰りの電車から降りて、階段で足を滑らせて、私は入院しているの。ずっと昏睡状態で、私は夢を見ている。それが、いま、この世界。だから、きっかけひとつで私は目を覚まして、拓斗の待つアパートへ帰れる」
そうだ、そうに違いない。
目を覚ますためのきっかけは、いったい何――
「縁子!」
鋭く私の名前を呼ばれた。次の瞬間、阿止里さんは腰に差していた短剣を抜き、自分の左腕を切り裂いた。
滴る鮮血が、月光を反射して蜜のように流れている。
「これでも、夢と疑うか」
阿止里さんの黒色瞳が、強靭な意志を宿して星のように揺らめいている。
「流れる血、失われる肉。紛うことなき痛み。どうしようもなく、現だと思わないか」
ぽたり、と音が聞こえた。そして、私は圧倒的な息苦しさに、呼吸ができなくなる。
はっ、と浅く息を吐いてから、私は阿止里さんに、容赦ない力で抱き込まれたのだと知る。
「――夢には、させない」
阿止里さん、と、きれぎれに名前を呼んでみたが、聞こえていないようだった。
「所以はどうあれ、縁子は私の前にあらわれた。そして、私の名を呼んだ」
ちっとも厭がらず、疎まず。と、頭上から落ちてくる言葉を、私は浴びる。
背中に、腰に、回された彼の腕はいっそ荒々しいのに、耳元で紡がれる言葉は静かな熱を湛えている。直接脳にささやかれるような声に、私は今までとは違う種類の震えを覚える。
「おまえを、失うことはできない。だから、私の目の前から消えてしまうようなことを言うのはよせ。そんなことを言われたら、その細い足を切り落として、どこへも行けなくしてやりたくなる。どうか私に、縁子を傷つけさせるな」
「えっ」
冗談ですよね?
恐ろしい発言に、私は背中に氷を投げ込まれた心地になる。
夢だろうが現実だろうが、肉だるまにはなりたくない!
そう思うと、急に手首の傷が痛みだした。そこに心臓があるかのように脈打ち、ひりひりしている。
痛みに身体を強張らせたのが伝わったのだろう、阿止里さんはわずかに身体を離し、私の顔を覗き込んでくる。
「ばかなまねを。痛むだろうに」
「あ、阿止里さんこそ! 身体が資本のくせに、そんなことして」
責めるように八つ当たりをしてみる。それからひとつ呼吸して、どうせ私はばかですよ。止める呟いた。
「大富豪でも勝てないし、裁縫だって、縫い目が大きすぎてナラ・ガルさんに笑われる。この世界の文字もよめない。月花はやさしく教えてくれるけど、ものおぼえが悪い自覚はある。仕方ないじゃない。高校では、三角関数だって赤点だったし」
言いたいことを言って当たり散らし、彼をにらみ上げたのに、阿止里さんは、それから? というように、唇を上げた。
面白がるような、獲物を追い詰めるような光をその黒い瞳に認めて、私は理解した。
この人、寡黙で無表情で頼れるボスみたいな雰囲気のくせに、きっと中身は俺様いじめっ子では?
上手に上手に、私に気づかれないようにしてきたに違いない。
「あ、阿止里さん、面白がっているでしょう!」
「かわいがっていると思うが」
「そ、そんな遊びなれているふうなことを言うなんて」
「ああ、縁子が私の腕の中で怒ったりすねたりするのが、楽しくて仕方ない」
「わっ、私は! 真剣に、悩んでいて!」
暴れる私の腰には、阿止里さんの腕がしっかり回っているので、距離が近すぎて落ち着かない! いろんな不安ややりきれなさが、そのせいでちょっとどっかへ行ってしまった。
真面目に悩んでいたのに、なんだかなあ。
そっと、私の傷ついた腕を持ち上げられる。
「ユーリオットを起こさねば。傷が残ったらどうするつもりだ」
「乙女でもないんですから、いいんです。ほっといてください」
「腕にも、顔にも、いろんなところに、血がついてしまっている」
出血したまま、頭を抱え込んだりしたからだろう。いいです、水で洗うから。
いいかげん、離してほしい――と、阿止里さんの上半身を押そうとした腕を、彼は捕らえて、ぺろりと舌で舐め上げた。
あっけに取られた私を見て、ちょっと伺うように首を傾けた彼は、ゆっくりと私に顔を近づける。
硬直している私の唇のわき、頬のあたりも、ついでのように舐めとった。
私は数回瞬いて、それから、顔にどんどん熱が集まるのを感じた。
夜中とはいえ、月が三つもあるのだ。きっと、真っ赤なリンゴのように見えてしまっているに違いない。
戸惑いと羞恥に、何を言うべきかわからず、口をはくはくさせた私を見る阿止里さん。
彼はかじりつきたいのを我慢するように、切なげに顔を歪ませた。
「ああ、本当に――どうしてくれよう、この娘」
それはこっちの台詞です。
私、お金を貯めて自分を買い戻して、一刻も早く魔女アレクシスに会わなければ!
五体満足で拓斗を抱きしめるためには、それしかない。
そう息巻いた、翌日のこと。
この世界に呼び込まれたときと同じようにーー転機は突然、訪れた。




