6.ジジ抜きよりもババ抜き派です
目の前には、ガラス細工のような絶世の美少年がいる。
その美しい緑色の瞳をたわませて、微笑んでいる。
少年から青年への過渡期だけにある、倦んだような儚さと、孵化していく男の色気の混在。
私にはそれが、悪魔の微笑みに見えてならない。
そっと、彼の持つ二枚の札のうち、右側に手を伸ばし――
一気に抜いて裏返す。
そこにあるのは、へたくそなピエロの絵。
人目をはばからず、叫んだ。
「また負けた!」
「縁子、そんなに悔しがらず。運ですよ」
「ぜったい違う。月花はすでに、独自の必勝法を編み出している! 私、何連敗目?」
「14連敗ですね」
「くぬう」
そう、これは私プロデュースによる、ババ抜きだ。
最初は手ごろな広葉樹の葉っぱにマークを入れてやっていたが、凝り症らしい月花が、どこからか木の廃材板を持ってきて、器用にもトランプを作成してしまったのだ。
ババ抜き、スピード、大富豪。
七ならべ、ポーカー、ブタのしっぽ。
どれもこれも、惨敗です。
「まだやってるのか。よほど好きなんだな」
庭には私の要望で、キャンプ場にあるような木製のテーブルといすが設置されている。
廊下を通りがかった阿止里さんが書物を片手に声をかけてきた。
トランプは全員に教えたけど、興味を示したのは月花ぐらいだった。やっぱり、トランプで盛り上がるのって高校生くらいまでなのかな?
私はいつでも全力投球だけど。
「阿止里さん、だめです。月花は何をやっても強すぎます」
そうだろうな、と阿止里さんはなんでもないふうに頷いた。
「月花の頭脳は、ギルドでも重宝されている。この年で戦術書もよく頭に入っている。縁子は、分が悪い」
阿止里さんの、飾り気のない口調は、その言葉が与えてくる衝撃も大きい。
ええっ、そんなすごい子だったの。
聞いてないよ、勝てるはずがない。
私のジト目に、月花は慌てて両手を振った。
「阿止里、よしてほしい。それは買いかぶりというもので」
「そうかな」
鷹揚に微笑んで、阿止里さんは仕事部屋に行ってしまった。
彼はめったに微笑まないけれど、その分、笑顔のつかいどころというのが、非常にうまい気がする。
普段は、無表情だからこそ、そのたまに見せてくれる微笑のために、ついがんばってしまいたくなるような。
彼の指示したことなら、何だって疑わずに従ってしまいたくなる。そういう上司って、ごくたまにしかいないけど、彼はそういう雰囲気を持っている。
「……真に受けないでね、縁子。阿止里のほうが、ずっとすごいんだから」
「真に受けてほしくなかったら、勝つコツを教えてくださいよ。このままじゃ終われない」
ちょっとすねた口調になってしまった私に、月花は目元を綻ばせた。
彼はいつも、こんなふうに控えめに微笑む。
月花はよく、本を読んでいる。
とは言っても、この世界、紙というものは存在しない。中世のように、獣の皮を剥いで、それに書き付けたものを長くつなぎ合わせ、平安時代の絵巻物のように丸める。
なので、見た目はちっとも本ではないのだが、私は便宜上、その巻物も「本」と読んでいる。
もちろん、非常に高価なことはすぐに知れる。
この世界、本を買うよりも借りることのほうが主流だ。江戸時代のように、貸本屋は奥まった店舗にもよく見かける。
月花は――その容姿から――借りることはできない。
だから、収入の大部分を、本に投資しているのかもしれない、なんて、ちょっと思ったりした。
一度、どんな内容のものを読むの、と聞いたことがある。
月花は笑って、ものの長さの測り方です、と答えたので、そんなことに興味があるのかと私はあいまいに相槌を打った。
ただ後日、それをユーリオットさんに聞くと、それはただの「測り方」の本ではなかった。
それはまとめると、こういうことだ。
推測にすぎないが、どうやら彼が読み込んでいるのは――三角比のような技法を使った測量法や、音の伝わり方の計算。微分積分もどきからの、ものごとの変化を時間軸でとらえて測る手法。
云々。
なるほど、そっち系の方でしたか。
万年偏差値50の私は、さいんコサインたんじぇんと、と呟いてみた。
もちろん、何のことだったかすら、覚えていないわけだが。
「月花は、知らないことを知ることが好きなの?」
私はふと、そう尋ねた。
勉強が好き、というのは、残念ながら私には心底わからないのだ。
月花は微笑む。
「知らないことを知って、それを実生活に活かすことを考えるのが、好きなんです」
それから、その微笑がふと強張った。
口元の笑みは、風にさらわれる砂のように消えていって、残ったのは、混じりけのない無表情だった。
「――僕が、ひとつの畑に実る麦穂の数くらいたくさんの人を殺していたら、縁子はどう思うんだろう」
その言葉が鼓膜を震わせ、脳に意味を伝えて、私が月花を見たときには、彼はもううつむいて、トランプをかき混ぜていた。
トランプといっても、紙ではなく厚めの木片なので、百人一首の木札がぶつかりあうような音がした。
月花のつむじが見えている。
かちゃかちゃと、乾いた木と木がぶつかる音がする。
木片が、強い太陽光を反射して、ちかちかと脳裏に焼きつく。
「……月花のつむじは、右巻きなんだ」
そう言って、つむじを人差し指で押してみた。ぐりぐりと。
月花は驚いて顔を上げた。
見開かれたみどりの瞳は、まだ見ぬ宝石のように清らかだ。
トランプを混ぜていた手を止めて、彼にしては珍しく、怒ったように顔を歪めた。
いや、怒ったのではない。いろんな感情が、ごちゃごちゃになって、溢れ出る寸前の表情。
「揉んであげる」
「え?」
「頭」
揉む? 頭を? と、目を白黒させる天才少年に、いいから、と背中を向けさせる。
うしろからそうっと髪の毛に指を差し込んで、優しくマッサージするように、その小さな頭をほぐしていく。
慣れないことをされて、最初は身体をこわばらせていた月花だったが、しばらくして、少しずつその力を抜いてくのがわかった。
「月花は、何も考えないことが苦手なのね」
私は、独り言のように呟く。
賢い、ということは、いいことのように思えるが、当人がそれをコントロールできないと諸刃の剣だ。
高校の友人に、ずばぬけて賢い子がいた。全国模試の上位は当たり前で、外国の大学からも声がかかっていた男の子。
けれど彼は、あまりに賢すぎて、ものごとを忘れることができない側面も持っていた。
そんなに仲良くなかったから話したことは少ないけれど、賢く将来も有望と期待される彼は、日々を苦しそうに過ごしていた。
他人に投げかけられた、無責任な言葉すら忘れられない苦悩を、人は「頭がいい」の一言で片付けるのだ。
月花は、制御できるようになればいい。
誰かに、その賢さを利用させないように。傷つけられないように。
なんて、お姉ちゃんは考えちゃうわけですよ。
あっ、まだ、おばさんとは呼ばないで!
「……そうかも、しれませんね。いつも、ぐるぐると考えてしまう」
「ばかだなあ」
「ばか?」
「そうだよ」
ばか、と、初めて聞くように口に出している。
きっと、あまり言われたことがないのだろう。
ばかになれればいいのにね。
「縁子は、僕がばかなほうが、いい?」
「どうだろう。月花が、わくわくできるなら、それがいいかな」
ぐりぐりと頭を揉みこむと、急に月花がうつぶせにつぶれてしまった。全身の力を、抜いた感じ。
体重をかけていた私は、いきおい彼の背中に倒れこむ。
月花は前屈姿勢で、上半身を地面にべたりだ。うらやましい柔軟性。
「月花、ごめん、強すぎた?」
慌てて尋ねると、月花は突っ伏したまま、ふるふると首を振った。
「いいえ、縁子。いいえ」
そんな月花を見て、私は思わず天を仰いだ。心が洗われるような、澄み切った空。
月のない空。うさぎはいない。
どこの世界だろうと、関係がないのだろう。
誰も彼もが、愛情に飢えている。




