4.理不尽という名の暴力
「娘さん、今日はボワシィの肉が安いよ」
すっかり常連になった肉屋で、じゃあそれを5人ぶん、と注文する。
ククルージャの人口はぜんぜんわからないけど、市場の規模からすると、日本でいう田舎街に毛の生えた程度、だろうか。
大型スーパーひとつぶんくらいの雑多な市場なのだが、各店舗は整然と並んでいるわけではない。なので、そこをを練り歩くだけでけっこうな運動になる。
面倒くさいこともある。それぞれが独立した小売店なので、会計がとにかく億劫だ。
加えて数字は、私のなじみあるアラビア数字ではない。これが本当に困ってしまう。
並べられた商品の上には木の札が無造作においてあって、それが値札なのだが、これが読めない。
仕方ないので、私は両手の指を使って金額を確かめるのだ。数字の数え方は一緒(十進法だっけ?)なので、助かった。
今日は野菜はすでに買ってあるので、あとはデザートの果物だ。
四人は甘いものも大好きだ。会話の端々から察するに、今まであまり食べることはできなかったようなので、奮発していいものを手に入れようと心がけている。
果物屋の前を通れば、売れた果実の芳醇な香りが鼻をくすぐる。
ところで、こちらのイケメン(つまり、私にとってはその逆)は非常に臭いのだが、料理や果物、花などの香りに対しては、共通の認識を持てている。
この世界の人たちも、私も、果物や花はいい香りなのだ。
不思議だが、人の体臭に関しては、そういった逆転現象が見られる、ような気がする。
明確な線引きはまだわからないが、私はそういう考えで落ち着いている。
つまり、オレンジのにおいは誰にとっても魅力的、ということだ。
「これ、十個ほしいです」
言葉は聴いて話せるが、目の前の商品の名前まではわからない。オレンジに似ているが、こちらの世界での名前はきっと異なるのだろう。
変に目立ちたくもないので、私はいつも便利なこそあど言葉で乗り切っている。
これ、それ、あれ、どれ。
うむ、便利。
キリンみたいにのっぽでひょろっちい、ちょびひげ店主が、無愛想にオレンジもどきを取り分ける。
「八プルタ」
はちプルタ。七百円くらいか。
小銭をさぐると、ちょっと足りなかった。
ボワシィの肉が思ったよりも高かったのだ。最低限の予算しか持ち歩かない私は、オレンジもどきをあきらめるか、ちょっと悩んだ。
でも、めったに微笑まない阿止里さんやユーリオットさんが、果物でほんのすこし口元をほころばすのを知っている。
「五プルタしか、持っていなくて。ねえおじさん、たまにはおまけとか、どうですか?」
そしてにっこり、微笑んでみる。
とはいっても、布をすっぽりかぶっているから、目元しか見えないだろうけど。
キリン店主はちょっと瞬いて、口元を緩めた。
「いつも来てくれる、お嬢ちゃんの頼みかあ。どうするかな」
「この前だって、それ、いっぱい買いました。たまには、いいじゃないですか」
それ、とはイチジクもどきのことだ。日本でもあまり食べたことはないが、控えめな甘さと独特の触感に私はやみつきだった。
抱えるほど、この店でお買い上げしたのだ。
キリン店主はうんうん、と大げさにうなずいた。
「覚えてるよ。いつもひとりだもんなあ。若いお嬢ちゃんだし、珍しい」
「覚えてくれて、うれしいです。ついでにこれもおまけしてくれたら、もっとうれしい。そしたら、次回もここに足が向かうかも」
「しょうがないなあ」
相好を崩し、キリン店主は照れたように笑って、五プルタを差し出した私の手をにぎにぎ握った。
正直、鳥肌が立った――その瞬間。
「触れるな」
となりに、熱を感じた。
反射的に見上げると、ユーリオットさんが厳しい顔で、キリン店主をにらんでいた。
キリン店主の腕をつかみ、私の手から引き離したのだと、気づいたのは、私が握っていた五プルタが、ちゃりんと落ちてからだった。
あっけに取られていたキリン店主は、みるみる顔をこわばらせ、顔を真っ赤にして叫ぶ。
「化け物め! よくもそんななりで、あたりをうろつけるもんだ」
「触れるな。きさまなどが、この娘に」
ユーリオットさんの硬質な声が、静かに響く。
「腕を放せ! そのにおいが取れなくなったら、どうしてくれる!」
騒ぎに驚いたまわりの店主や客たちも、その目を吊り上げ、ユーリオットさんを聞き苦しい言葉で罵倒した。
私は呆然としていたけれど、ユーリオットさんに石が投げられ、そのこめかみから血がにじんだときに、何かが切れた。
「――やめて!」
体中の血が沸騰するようだった。こんな激しい怒りは、初めてかもしれない。
ユーリオットさんの前に飛び出して、両腕を広げる。
「誰がこの都市を魔獣から守っているか、知っているの。どんなに立派か。その身を挺して、あなたたちを守っているのは、この人なの! 恥じることなんて、何一つしていない。なのに――」
あたりがしん、と静まり返った。
あの娘、あいつを庇ったぞ、と、誰かが呟く。
投げるなら、私にも石を投げればいい。
そう思ってまわりを睨み付けると、私に向けられたのは、哀れみの目だった。
「かわいそうに、頭がおかしいんだ」
キリン店主が、背後で呟く。
「まだ若いってのに、どうしたんだ。こいつに、質でも取られているのか?」
向けられた同情の視線と声に、私はぽかんとしてしまった。
言葉が、通じない。
もどかしくて、私はいっそ地団駄でも踏みたくなった。
「違う、なんでわからないの。この人ほどかっこよくて、努力して、自分に厳しい人なんて、そういないのに」
夜遅くに帰ってきてからも、分厚いぼろぼろの本を開いて、勉強しているのを、知っている。
無愛想だけど、私が洗濯であかぎれそうになった指先に塗る薬を、枕元にこっそり置いてくれてることを、知っている。
庭にあるハーブの鉢植えに、毎朝水やりをしているのを、知っている。
四人でくつろいでいるとき、誰かが言う冗談を聞き流すふりして、こっそり笑うのを知っている。
怒りにぶるぶる震える私の腕を、ユーリオットさんが掴む。
「――もう、いい」
ぜんぜん、よくない。
私は息巻いてユーリオットさんを見上げて、冷や水をかけられた心地がした。
ガラス玉のように無機質な、無垢な瞳。
傷つくことに慣れているんだ。ここではないどこかに心を飛ばしている。
そんなことに、慣れていいはずが、あるか!
私はこめかみから流れる血を見て、どうしようかちょっと迷ったけど、彼の手を取って駆け出した。
オレンジもどきが、地面におちて、弾むのが視界に写ったけど、もうどうでもよかった。
これ以上、ユーリオットさんの心にものを投げられたくはなかったから。
※
走りこんだ先が袋小路だと気づいて、私はようやく冷静になった。
息が、弾んでいる。
ユーリオットさんは、ぜんぜん疲れてなかったけど。
しょうがない。会社と自宅の往復くらいしか、私は運動なんて縁がなかったのだ。
「……ユーリオット、さん。その、けが……」
息を整えながら、顔を覗き込もうとした。
すると、ユーリオットさんは壁に背をつけ、ずるずるとしゃがみこんでしまった。
「あの! い、痛いんですか」
おろおろと傷口を見ようとするが、彼は顔を膝にうずめてしまって、ちっとも見えない。
ユーリオットさん、と問いかけても、微動だにしない。
「おまえ……何なんだ」
「な、何とは」
「何のつもりで、あんなこと言った」
「あんなこと」
どのことだ、と、おうむ返しになってしまう私に焦れたのか、ユーリオットさんは顔を上げた。私は膝立ちだったので、いつもと異なり、私が彼を見下ろすような格好だ。
「立派って」
「りっぱ」
「言っただろう」
「言いました」
やっぱりおうむ返しになってしまうのが、ばかにしてると思ったのかもしれない。ユーリオットさんはきゅっと目じりを吊り上げた。
彼はとても美しいけれど、怒ったときのほうがもっと綺麗に見える。
「本気で、思ってるのか」
「もちろん。本気ですよ」
すると今度は眉根を寄せて、理解できないというふうに頭を振った。
「おかしいよ、おまえ。おれたちをかっこいいって言ったり、あんなふうに庇ったり。そのたびにおれは、立っていられないくらいの目眩がするんだ」
「いいえ、おかしくありません」
どう誤解されようと、これだけは言わなければ気がすまなかった。
「ユーリオットさんたちは、与えられた仕事を、全力でまっとうしているんです。他の人たちが、さじを投げるような仕事でも。さっきの人たちは、売りたくない相手には売らないどころか、買いに来たお客さんをえり好みするような人たちです。プロ失格です」
私は、どうにか励ましたかった。
こんなに真面目で、努力家で、高潔な精神の男たちが自信を持てないでいるのは、太陽が昇らなくなるよりもひどいことのように思えてならないのだ。
どうしたら、少しでも信じてくれるんだろう。
「……血が、止まってない」
「はい?」
「血が」
脈絡のない会話は、彼にしては珍しい。けど実際、こめかみから流れる血は、少量だけどまだ乾いていない。
「そうですね、どうしましょう」
「舐めて」
「えっ」
「唾液に含まれる成分は、血止めになる。そんなことも知らないのか」
「なるほど」
知っていたけど、逆らわないでおく。
触れられるのを避けていたのに、いきなり舐めるなんてことをしても、嫌じゃないのだろうか。
そう戸惑いながらも、私はそっと、そのこめかみに唇を寄せた。
舌を出して、つとめてやさしく、その傷口にかぶせてみる。
触れた瞬間、ユーリオットさんが弾かれたように、身体をゆらした。
「い、痛かったですか」
ユーリオットさんはまた顔をうずめてしまった。大柄な人が体育すわりして頭を膝に突っ込んでるのって、なんかかわいいな。
首をふるふると振る。痛くない、という意味だと思う。それから、小刻みに震えていた。
拾ったばかりの拓斗そっくりの震え方だったので、私は彼の隣に座って、震えが止まるまでずっとその髪を撫で続けた。
初めて触れる彼の稲穂色の髪は、思いのほか柔らかで、それは私に拓斗を思い出させて、彼らの人生と拓斗の今を想像した私は、ちょっと切なくなった。




