夜汽車
窓の向こうには街灯ひとつない。ただ闇が広がっている。けれど列車の窓からもれる明かりで、ススキの穂が銀色に光っているのが見えた。ススキの波は、線路に沿ってずっと続いてる。
天鵞絨が張られた座席にあたしはいた。列車のゆれに体を任せる。向かいの席には、黒い服を着た老夫婦がいる。うつむきかげんで穏やかな口調で時おり話す言葉は、あたしにはわからなかった。
窓に映る青白い顔。金の髪は胸の下まで伸びて、頭にはいつのまにかサテンのリボンが結ばれていた。
お母さんはどこだろう。車内を見渡すと、少し離れた席にいる彼が見えた。彼は教室にいたときとはうって変わって、薔薇色に頬を染め、生き生きと誰かと話していた。聞き覚えのある声が応える。あの子と話しているんだ。
乗客たちは思い思いに会話をしているのに、車内は不思議な静けさが漂っている。みんな、黒い服を身につけている。どこからか、林檎の香りがした。
こんな夜汽車にいつのまに乗ったのかな。
お母さんに手を引かれて、天気輪のある丘まで走って、それから……今夜は、お祭りを見に行くはずじゃなかった?
探さなきゃ、お母さんを。ぼんやり風景を見ているばあいじゃない。お祭りが終わっちゃう。
座席から立ち上がろうとしたあたしの体は何かに引きとめられた。ワンピースの裾をひっかけた? ……探ろうとして手元を見たあたしの喉はひゅっと鳴った。
座席に体が半分めり込んでいた。
「ひっ」
引き上げた指は柔らかい飴のように伸びて指先は座席の天鵞絨に溶け込んでいた。
あたしの悲鳴は誰にも届かなかった。
「エタヌのアビトを」
エタヌ、の、アビト、を、お願い、し、ま、す。
頬がひきつれる。アビト、どこ、どこにいる? 闇の奥底、冥府の果て、どこだ。みつけられない、みつけられない。女の夫だろう? アビト、あたしの問いかけに応じろ。まさか子どもを成していないのに申し込んだのか? 光る砂つぶは、あたしの声にどれも反応しない。
駕籠がもう頂点まで行く。二人が降りた。回線は二対が使用中、一対は探索、残り二対はあたしが使うはずだった。一人降り二人降り……一対ずつ増えて最終的に四対使えるはずだったのに。残り時間が少なくなる。
痙攣したあたしの足が、フラスコの水をはねあげる。
「父さん、医師を早く」
ロマノが叫んで梯子を掴んだ。
「まだだ、転記輪は回りきっていない」
所長が脳波計を確かめながら拳を握りしめる。
なんど見ても気味悪いわよね。ご理解ご協力ありがとう。帰還したら礼を言うわ。
この、女。あたしを手こずらして、頭にくる。
あたしは駕籠に意識を集中させ、女の姿を確かめた。
白地に青い花が散らされた木綿のワンピース、ゆったりとした襟。胸はボタンがはちきれそうなほど豊かだ。日に焼けた肌に外側へとはねている短い黒髪。
控えめな赤に塗られた唇が集音器に向かってかすかに動く。
エタヌのアビトを。
あの農婦だ! 二人の子持ちの、あたしにトマトを手渡した、ていねいにお辞儀をした、あの農婦だ。広い畑、葡萄と林檎の木、花に飾られた可愛らしい家……。なんの不足もない暮らしに見えた、あの家の農婦だ。
お母さん、お母さん……。無理やり立ち上がったあたしは、進行方向の扉の磨りガラスにお母さんの影を見た。追わなきゃ、お母さんのところへ行かないと。あたしは列車の通路を泥の中を這いずるようにして進んだ。体が溶けてささくれた床板へナメクジが歩いたような跡がつく。列車の車輪の響きが体をふるわす。
体が重い。足を一歩動かすことが、なんて苦役なんだろう。
扉は、果てしなく遠く感じる。
誰もあたしを見ない。誰もあたしに気づかない。黒い服の人たち。お年寄りも、若い人も、子ども男も女も。みんながお弔いにでも行くみたい。知っている人はいない。彼とあの子の他には。
誰かが歌う讃美歌が耳に届いた。窓の外から白い光が差してきた。朝なの? 夜なの? この汽車は変だ。それとも、あたしが変なの?
助けて、お母さん!
子どもたちは誰かに預けてきたのか。
日に焼けて荒れた左手に結婚指輪が金色に光っている。緊張からか、農婦はいちどつばを飲み込み、また同じ名前を繰り返す。
あたしも何度も叫んだ。
お母さん、お母さん。扉を開けると先にある扉にお母さんの影が映る。まるでいたちごっこだ。開けても開けても追いつけない。
体は動かすたびに溶けていく。
ついに客車は終わり、あたしは先頭の機関車まで来てしまった。体は溶けかけの蝋燭みたい。あたしは、まだあたしだろうか。怖くて窓に映る自分を見ることができない。扉の向こうにお母さんを感じた。
わかる、この汽車はお母さんなんだ。
アビト、アビト。
農婦の散らばった想いの欠片が見えた。
今より若い農婦はまだ少女の面影を宿していた。頬を赤くして、初めてアビトを紹介された日のときめき。幾度かの逢い引きでトーキーを見に出かけて、おずおずと手を繋いだこと。花嫁衣装、お祝いのダンスの輪、晴れやかなアビトの笑顔。初めての出産。
何の不幸の影も見あたらないのに、とつぜん訪れたアビトの不在。
ベビーベッドには生まれて間もない緑子がいて、農婦は暗くなった部屋にランプを灯すこともせず、幼い子どもを胸に抱いている。食卓に並べられたご馳走が冷めていく……。
「お母さん!」
機関室は石炭をくべる炉もなければ、速さを制御するレバーもなかった。正面の窓にかじりつくようにして立ち尽くしているお母さんがいた。いつの間にか、伯母さんみたいに黒い服を着ている。
「ごめん……」
振り返ったお母さんの目は紅く燃えているように見えた。
「さいごのお別れくらいさせてあげたかった」
あたしは首を左右にふる。お母さんが何を話しているのかわからない。
「お母さん!」
おいでとお母さんはあたしをさし招く。ああ、お母さんの腕が糸を引いている。あたしと同じだ、溶けている。
「……汽車が私で、熱源はアザレア」
警笛が響いたのは、銀河のほとり。
――ではみなさんは、そんなふうに川だと言われたり、乳の流れたあとだと言われたりしていた、このぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか――
教室での先生の言葉が不意によみがえった。遠くで、彼が叫んだ。
駕籠は頂点を過ぎて下り始めた。
まさか、あたしと同じ目的で転記輪を使う奴が現れるなんて。死者と話すためじゃない、冥府にいないことを確かめるために。
エタヌの……。
あたしは目を見開いて、農婦に言い放った。
いないよ!
がくんっと上を向いた農婦とあたしの視線が見合ったように感じた。
いないよ、あんたのアビトも、あたしの母さんも。冥府にはいない。
……今も、どこかで生きている……。
天井を見つめていた農婦の目から涙が流れた。
銀河が遠ざかる。きらめく星々にはもう手が届かない。水晶の森をぬけてあたしは体へと戻っていく。
血が織りなす縦の糸、横の糸。それから……無数に散らばる光りたち。光りの中には、幼いままのあの子もいる。あれに手が届くときがくるのかな。
血の軛から解き放たれる日は、来るのかな。
農婦が涙をぬぐいながら、彼に手を引かれて駕籠から降りた。すべての客を下ろし、転記輪から灯りが消えた。
あたしの目から筋を引くように流れた血が、フラスコの水に混じった。
「いまだ、引き上げる!」
所長が素早い身のこなしで梯子を上がり、浮きあがったあたしをフラスコから引き揚げた。
「先生、来てください!」
なんど聞いても、へんな声だ。頭から機械をはずされて、あたしは所長からタオルをひろげたロマノに引き渡された。
「ア、アザレア殿」
肩をゆすられ、あたしは少し水を吐いて咳をした。ロマノがしゃにむにあたしの背中をさすった。ちから加減が分からないらしい。背骨がゴリゴリ鳴る。
「いたいって!」
あたしと目が合うと血の気を失ったロマノの手は止まった。
「……なぜ!」
なぜ、死なない!? とでも聞きたいのか。ふん、とあたしは鼻で笑った。
叫んだロマノとあたしのあいだに、フワリと白い制服の裾を揺らして看護婦が割って入った。あたしに手拭いを一本渡して看護婦が背後にまわる。代わりに今度は医師があたしの手をつかみ、脈を取りまぶたを指で押し広げて瞳をのぞきこんだ。もう瞳は紅くないだろう。はしばみ色に戻っているはず。手慣れた手順で髪の一筋も乱しもせず、老齢の医師はひとつうなずくと、立ち上がった。
「……なぜ」
力なくロマノはフラスコのそばに膝をついた。あたしは髪の雫をタオルで拭いた。
「魔女だから」
そうね、スティクのまえに、貰ったトマトが食べたい。