転記輪 2
あたしは見ていた。
――ではみなさんは、そんなふうに川だと言われたり、乳の流れたあとだと言われたりしていた、このぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか――
先生に当てられたのに、彼が沈黙を続けていることを不思議に思った。
一番まえの席から振り返ると、かかしのように彼はつっ立ったままだった。いじめっ子たちが、にやにや笑っていた。教室のあちこちから、ひそひそ声が聞こえた。それを痛いほどに感じていたと思う。彼は余計にうつむいた。先生はあきらめたように首を左右にふり、代わりにあの子を指名したけれど、やっぱり答えなかった。
あたしは見ていた。
忘れるはずがない。
これが、あたしがあの教室にいられた、最後の日の出来事だったから。
転記輪は一回りしたお客さんを下ろす。すんなり降りるひとは少ない。
たいていは名残惜しげに受話器を離さない。なかには腰かけにうずくまったまま動かない人もいる。
鳥打帽をかぶった彼が、お客さんに申し訳なさそうに声をかける。優しく手を引き、あるいは肩をだき、駕籠から下ろし、じれるようにして待っている次のお客さんを乗せるのだ。
誰だって、一刻も早く駕籠に乗りたい。そして少しでも長く駕籠にとどまりたい。
……教室での彼がどうしてぼんやりしていたのか、あたしには分かっていた。
彼の家は、お父さんからの便りも仕送りもとだえて、代わりに昼も夜も働きづめだったお母さんが体を壊して寝ついてしまった頃だった。彼が放課後、働き始めたのを知っていた。いつも疲れているのか、学校に来ても口数が減って、居眠りをするかぼんやりしていた。
それもあって、みんななんとなく声をかけづらくなって彼は孤立していった。二日とおかず、家を往き来するくらい仲よしだったあの子とさえも。
うちもお父さんがいないのは、彼のところと同じだった。
あたしが生まれるまで待てなかったんだ、って伯母さんがお母さんに内緒で教えてくれた。
「まったく、ダリアは情けが深すぎる。ふつうに暮らすなんて、宝の持ち腐れだ」
黒づくめの伯母さんの言葉は、ときどきあたしには分からなかった。
「面倒事に首を突っ込まなきゃいいけど」
伯母さんの煙草の灰がこぼれないよう、灰皿がわりのひび割れた皿を流しから持ってくるのが、あたしの役目だった。
二人きりの暮らしでも、お母さんは腕のいいお針子で実入りのいい仕事をしていたし、伯母さんも時々顔を見せて、あたしの世話をしてくれた。
贅沢はできなかったけど、だからといって貧しさは感じなかった。
そんな彼を近所に住んでいるよしみで、お母さんは気にかけているようだった。
困りごとがあるなら、なんでも相談してね――それが、お母さんの口癖。
いつも彼と彼のお母さんに声をかけていた。
破れたズボンを縫ってあげたり、夕飯のおかずをおすそ分けしたり。お得意様から貰った、洋菓子を惜しげもなく渡したときには、食いしん坊のあたしはきっと恨めし気な顔をしていたと思う。
あたしは、ちょっぴり妬いていた。お母さんが彼の頭を撫でたり、優しく話しかけたりすることに。
お母さんは、ほんとは男の子が欲しかったのかも知れないって感じていた。居なくなったお父さんに、よく似た男の子が。
あたしは、お母さんの自慢の娘になりたいと思った。スカートの裾をかがることや、細かいビーズを縫いつける根気のいる作業も自分から進んで手伝った。
学校での出来事は、家に帰ったらすぐに忘れた。だって、年に一度のお祭りの日だったんだよ?
あたしは、よそゆき用にお母さんが作ってくれたモスリンのワンピースに着替えて、とっておきのリボンを準備して待っていた。お母さんがお仕事から帰ったら、お祭りに行くんだ、ってわくわくしていた。
髪をていねいに梳かして、すぐにも出掛けられる用意をしていた。もうすぐ夕方だ。家の前の通りを歩いていく人たちの下げた、カラスウリの青い灯が見えた。
早く帰ってこないかな……。あたしは玄関の扉が開くのを今かいまかと待っていた。あわただしい足音が近づいたかと思うと、玄関は勢いよく開けられた。
――お帰りなさい。リボン結んで――
あたしが用意していた言葉は、一言も話すことはできなかった。
髪をふりみだしたお母さんが、無言であたしの腕をつかんで外へ駆けだしたからだ。人ごみをかき分け、あたしの腕を痛いほど引いて、天気輪の丘のへとわき目もふらずに。
死者とは何を話しているんだろう。
あなたがいなくなってからの日々? 言い残したこと、伝えそびれた言葉?
あたしの体を通り抜けていく言葉には耳を貸さない。冥府と現世をつなぐのは簡単なことじゃない。細くもろい糸で通路を作っている。わずかなゆらぎは、失敗へと一直線だ。
それに、あたしはあいつを探している。いくつものことを、同時にこなす大変さは何度やっても変わらない。
転記輪の順番を待つ人の列は少しずつ短くなってきて、最後のお客の乗った駕籠の扉が閉められた。つぎの駕籠からは無人になる。最後の客に応えたなら、このお客が下りるまでが丸々あたしの時間だ。
呼び出し音がした。
「エタヌのアビトをお願いします」
あたしは昏い銀河の星々のなかへと指先を伸ばして探る。すぐに見つけ出せる。あたしなら。
そしたら、あたしは全力であいつを探せる。すぐにも繋げて声を聞かせてやるわ。
……いない? まさか。もう一度、焦らないで、ゆっくりと闇をさらって……
若い女の人の声がする。二度目の呼び出し。
「エタヌのアビトを」
ああ、待って!
そんなに急かさないで!
見つけるから、いま、今すぐ。冥府のすみずみを知るあたしに、できないはずがない。
できないはずがない……のに。アビトの痕跡は見つからない。
駕籠の中で受話器を耳に当て、女の人がまた呼び出しのハンドルに手をかける。
わかってる、わかっているからハンドルは回さないで。気持ちがゆらぐ、星が……闇に星の光があふれる……。
「アザレア殿!」
ロマノが叫んでいる。あたしの体がフラスコの中で大きく痙攣した。