転記輪 1
白くなめらかな泥岩の岸辺には竜胆が乱れ咲いて、かすかな風に首をゆらしている。あたしは暗い流れへと足を入れる。足の裏に感じるのは細かな砂、ときおりぶつかる小さな石のつぶ。
「では、申込み券の番号順にお並びください」
彼が『観覧車』――転記輪の駕籠を背にして集まった人たちに説明を始めた。
川の水は冷たくもなく、熱くもなく。生ぬるい八月の宵みたいだ。ゆるく水をまといながら胸のあたりまで浸かるように足を進める。流されるような強さはない。
「駕籠には、ひとつおきに乗っていただきます。乗りましたら、受話器を外して呼び出しハンドルを一度だけ回し、呼び出して欲しい方のご出身とお名前を伝えてお待ちください」
淀みない解説。彼の話に耳を傾ける人々はみな真剣なまなざしでうなずく。何かを覚悟するように。転記輪が動くのは、ケンタウル祭の最終日だけ。そして転記輪に乗るために支払う費用は安くない。だから、転記輪に乗るのはふつう一度きりのことになる。
ただ一度、懐かしい声を聞くために。
駕籠は全部で十あるけれど、あたしが面倒見れるのは五人まで。だから、ひとつおきに乗ってもらう。
「あちらの方とお話しができるのは、転記輪が一周するあいだです」
フラスコの液体の中をあたしは漂う。所長が脳波を機械で確認している。ロマノが部屋をなんども行きつ戻りつ、ときおりフラスコに恐々と視線を向ける。
「間もなくだ。アザレア殿を見ていなさい」
ロマノの動きが止まり、唇がわななく。
「目が……」
あたしの目は赤く光りはじめただろう。
「アザレア殿が冥界の住人との仲立ちをする」
ロマノの額に汗が浮かんだ。
あたしは川に体を沈め両腕を広げて目を見開く。川底のきらめきは果てがなく、そこは星が散らばる銀河なのだ。
呼び出し音がする。
『ボスコのフェルモをお願いいたします』
年配の女性の声だ。髪をお団子にした後ろ姿が見える。あたしは右手を銀河のうずに差し入れる。五本の指が柔らかい飴のように伸びていく。あまた光る星のなかから、目指すものが見える。
どこかの事務室だろうか。机の上に書類が積み重なっている。羽ペンを持って何かを書きつける髭をたくわえた柔和な顔立ちの男性。お茶を差し出す腕が見える。
冥界の住人と呼び出した生者の記憶が交差する。引きずられてはならない。記憶の一場面は一陣の風のように体の中を通り抜ける。素早くとらえて、転記輪へと送る。
女性の背中がいちど、ふるえる。死者の声が鼓膜をふるわせただろう?
すぐに次の依頼のベルが鳴る。
『フォレのヴァドリエを』
こんどは男性だ。
あたしは呼び出し音がなるたびに、銀河の虚空から次々と、その人たちを見つけ出し、橋渡しをする。それは老人だったり、若者だったり、あどけない子どもだったり。
冥界とつながった駕籠の電話機は、かすかに赤く光る。まるであたしの目玉のように。転記輪は淡く光りながらゆっくりと回っていく。緊張からか、うまく声が出せない者、やたら饒舌になる者、涙ぐみただうなずいている者。誰も彼も、駕籠が一周するあいだ、時間の限り受話器を握りしめる。
銀河の川に沈んで、あたしは目を見開く。五対の指は、転記輪に乗っている者たちのために使われている。けれど、目は違う。目はあたしのものだ。昏い水底をくまなく探す。
みつけろ、今年こそ奴を。
母親を。
「魔女は、アザレアはどうして転記輪に荷担するのですか」
「探している人がいるんだよ。おまえにだって、向こう側へ渡ってまでも話したい相手がいるだろう?」
ロマノは眉を曇らせ唇をかんだ。それから、左手を庇うように右手を添えた。
残念ながら……あたしが見つけられるのは血のつながりか、血のつながりを作った相手だけだ。
親子、兄弟姉妹、血筋は一つながりの縦糸。そして、子を成した間柄の人間は血筋という縦糸に対しての横糸。
だから、友人や恋人は呼び出せない。誰もかれもだなんて、あたしには無理だ。見知らぬ死者も、生者までも乗せてしまったあの夜の汽車とは違う。
あれを動かした魔女は、とんでもない奴だ。
あたしの母、ダリアは。