町へ
路面電車は、街の中心地にほどちかい石畳の停車場に止まった。
小さな電車はお祭り見物の人でいっぱいだったけど、あたしの周りだけは空いていた。ついでに不自然なくらい静まり返ってた。ほんと、腹さえ減っていなきゃ乗らないわよ。
ぎこちなく笑う車掌のお姉さんに切符を渡して、いちばん最後に降りた。
ぐるりと首を回すと、派手な音がした。はぁ、よけいに腹へった。
通りには赤と青のランプがつりさげられている。まだ夕方には間があるから灯は入れられていない。たぶん、帰りの電車の車体にも同じようなランプが飾られるはず。誰もかれも、とっておきの晴れ着姿でお祭りへ繰り出している。あたしは、そっと道の端を歩く。
お祭りの屋台がたくさん並んで、美味しそうな匂いがしてくる。焼き鳥に……鮎かな、ヤマメかな。炭がはぜる音と脂が焦げていく魅惑的な匂い。飴がけされた果物や、色とりどりのジュースには小さな子どもたちが列をなしている。
ああ、目移りする。黒すぐりのタルト、桃色の砂糖衣がかかったドーナッツ。
ううん、やっぱりほかほか湯気の立つ蒸しあげたジャガイモにバターをのせて塩と胡椒をばらり。ついでに葡萄酒か林檎酒をぐいっと……。
仕事がすんだら研究所の報酬で腹いっぱい食べてやる。
賑やかな通りから一本裏に来ると、高い屋根たちの向こうに観覧車が見えてきた。
ふだんは空き地の御旅屋には、お祭りの間は神さまが山から下りてきて祀られている。その隣の広場に移動式の遊園地が来るのは毎年のことなんだ。暗くなる前から、このにぎわい。遊具の前には順番待ちをしている大人や子ども。遊園地のほうにも観覧車はあるけど、こちらの『観覧車』は違う。研究所が設置したのものだ。
「おーい」
あたしは『観覧車』の駕籠の中を一つずつ確認している老人に声をかけた。鳥打帽をかぶった老人はあたしに気づいて片手をあげる。
「いちねんぶり」
あたしはそう言って早々に右手を突き出した。
もう何年もしているやり取りだから、彼はチョッキのポケットから煙草の紙箱を取り出した。あたしは箱から一本もらうと、駕籠の鉄扉でマッチをすって火をつけた。
「はあ……しみる」
一息つくと、彼があたしの手を引いて駕籠へ乗った。
「人目がある」
まあ、ね。子どもが煙草を吸っていたら、憲兵にしょっ引かれちゃうか。駕籠がゆっくりと上昇していく。頭巾をはずして、二口めを味わって吸う。
「いつまでも子どもの姿なんてのは不便だわ」
彼は駕籠の天井近くにある小窓を開けて風を入れると、自分も煙草をくわえた。
「悪いね、うちの母親のせいで」
あたしが詫びると、彼は首を横に振る。
「ちゃんと責任はとらせるから」
せめて、母親くらいの能力があればいいのに。研究所の力を借りても、あたしには無理なことだ。
「今は誰と住んでいるんだっけ」
「一昨年からは孫の家に世話になっている。少しは働かないとな。肩身が狭い」
長生きするのも考えものだよね。あたしは話題を変えた。
「転記輪、電話機が新しくなったんだ」
「最新型」
研究所の観覧車の正式名称は、転記輪。駕籠は縦長で中には作りつけの小さな腰かけと電話機がある。こんなときには、小さな体は場所を取らなくていい。あたしが腰かけに座っても彼が立っていられるくらいの広さはできる。
電話機は人の顔に似ている。四角い箱に目玉みたいなベルが二つと口みたいな集音器がついている。右側面に交換手を呼び出すハンドル、反対側には耳にあてるコップみたいな受話器がぶら下がっている。
あたしは受話器を外して耳にあてる。まるで波のような音がするばかり。
「すばらしいじゃないの。細工は流流仕上げを御覧じろ……」
駕籠はもう真上のあたりまで来ていた。受話器を戻して、駕籠のガラス窓に額を寄せて外を眺めた。暮れなずむ街に赤と青の光が灯り始める。歩く人たちが小さな人形みたい。気の早い誰かが、カラスウリをもう川に流しているらしい。青い灯りがぽつりぽつりと流れていく。
「さて、今年のご奉仕はどうなるやら」
「疲れているかね?」
差し出された銀色の小さな蓋付き灰入れで吸い終わった煙草の火を消した。
「腹がへってるだけ。いつものことながら、水すら飲めないからさ。やれやれ、いまいましい所長の顔を拝みに行くか。帰りにまた寄るね」
駕籠は地上に戻ってきていた。乗った時と同じように、彼がドアを開けてあたしの手を取った。降りる時に少しだけ足がふらついた。
「だいじょうぶか?」
あたしは皺だらけになった彼の顔を見あげて笑った。
「だいじょうぶに決まっているじゃない。あたしを誰だと思ってるの?」
「アザレア、川へは行くなよ」
毎年それを言うのね。あたしは笑ってうなずいた。