アザレア
魔女・アザレアは一年にいちど、転記輪を回すために森から町へやってきた。
背よりも高い杖につけた、いくつもの小さな鈴の音に紛れて腹が鳴った。
思わず足を止めて腹に手をあてる。しゃらんという鈴の響きも止まった。かわりに、ぐうという音が頭まで響いた。腹がぺちゃんこなのは、今夜のために二日間断食した結果だけれど、もとより浮いているあばらの固さを指先に感じてうんざりする。
ため息をついて空を見上げると、赤とんぼが鰯雲の空を背景にして群れをなして飛んでいた。
もう九月だもの……沼畑のオリザが涼しい風に垂れたこうべをゆらす。
「祭り日和ときたもんだ」
珍しく三日とも晴れたケンタウルの星祭の最終日となれば、いつもなら日の高いうちは働いている農夫たちも今日は見かけない。
「迎えの馬車くらいよこせばいいのに……所長め、毎年足代けちりやがって」
あたしは最寄りの路面電車の停車場に向けて、のろのろ歩き出す。どうせ夜まで着けばいいんだし、こんな空きっ腹じゃ早く歩けやしないし。
歩くたびに、しゃらしゃらと鈴は鳴り、ついでに時おり腹も鳴る。最近は晴れ続きで埃っぽくなった地面の自分の短い影を見ながら進む。水すら飲むのを絶っているから、あまり汗はかきたくない。とはいえ、この陽気だ。研究所につくまで、倒れやしないだろうか。ほんと、あたしの力を借りるならもうちょっと丁重に扱いやがれ! 丸眼鏡をかけた白衣の所長の顔を思い出すたびいらいらする。仕事あがりに、テキトーな食事を出してすむことだと思うなよ!
時々、人を満載した馬車に追い抜かれる。幌つきの狭い荷台に家族ぜんいん、乗っているらしい。
あたしは沼畑のヘリまで下がって道をゆずると、追い越しざまに荷台に乗った子どもがあたしを指差した。
「まじょ!」
ワンピースを着た小さな女の子の口をとっさに押さえた母親らしき女性が、あたしと目を合わせないようにして子どもを抱えて奥に引っ込む。
「ふん」
こんな昼日中から出歩くな? 知ったこっちゃない。この日のために黒の繻子で縫ったマントが、土埃で白くなっている。あたしはマントを軽く叩いた。
魔女なんて、時代おくれ。
いまどき、頭巾つきの黒のマントを着て、長いスカート引きずって、男みたいな編み上げのごっつい靴を履いて。
魔女といったらインチキ占いに、まがい物の薬、模造の指輪に首飾り、安物の香水。でもって本業はおおっぴらに言えないこと、ってね!
いつの間に、あたしたちはこんなに落ちぶれたのかしら。むかしは違っていたのに。
沼畑を抜けると、今度は両側に野菜畑が広がった。 茄子にトマト、玉蜀黍にいんげん豆。花が終わって実をつけ始めている南瓜、莢が丸々とした枝豆。
どれもこれも、おいしそう。知らず知らずに涎がこみあげてきて、ごくんと喉がなる。
きれいに手入れされてる畑だわ。相変わらず働いている農夫のひとりもいないけど。
いぜんなら、杖の鈴の音が聞こえただけで、みんな作業の手を止めてうやうやしく頭をさげたものよ。
「これは、これは魔女さま」
ほら、こんなふうにね……って、いたー!
背の高い玉蜀黍にかくれていて気づかなかったけど、目の前に首に手拭いを巻いて麦藁帽子をかぶった女の人がいた。
はち切れそうな大きな胸に思わず目が行く。作業服用には不釣り合いの赤い格子柄のブラウスは娘時代のものだろうか。色あせたブラウスと泥のついた前掛けに大き目のズボン、何個も穴を貼り直したゴム長靴。どこにでもいる農婦は一人で畑仕事をしていたらしい。
あたしが跳ね上がった心臓を押さえて無言で立っていたら、女の人は慌てて帽子を脱いで頭を下げた。と、同じくして情けないことに、腹が鳴った。
「……あンれ、魔女さまは腹がへってるですか」
農婦は陽によく焼けた丸い顔と同じくらい、目を丸くした。否定の言葉のまえに、もういちど盛大に鳴った。コホン、と咳払いをして何事もなかったかのように立ち去ろうと背を向けたあたしに農婦は声をかけた。
「これ、どうぞ」
振り返ると、真っ赤なトマトを手渡された。あたしのこぶしくらいある、ツヤツヤの二個のトマト。
「……白髪だからてっきり……お若い魔女さまですねえ」
頭巾から胸に長い銀の三つ編みが下ろされているからだろう。小柄な老婆と思われることがおおいから、子どもの姿のあたしは、たいがい驚かれる。
「いただくわ」
あたしはことさら、重々しく言うと斜めにかけた鞄に入れた。
にこにこと笑う農婦の目尻や頬には皺が目立つけど、穏やかな笑顔はきっと幸福な日々を送っている証だろう。
おかあさーん、と子どもたちの声がした。
畑の向こうに、青い屋根の小さな家と納屋がある。葡萄棚からたわわな紫色の房がさがり、一本だけある林檎の木には青い実がついている。鶏の声も聞こえる。
花で飾られた玄関先から、小さな男の子と女の子が手を振りながら駆けてくる。
「はやくカラスウリ、とりにいこう!」
「はーい。今、いくからね」
カラスウリの灯りを持って、今夜はお祭りへ出かけるんだろう。
モスリンのパフスリーブに薔薇の刺繍。とっておきのワンピース、お祭り用のよそゆきの。
お母さん、お母さん、リボン結んで……。
ちっぽけな、あたしの唯一の自慢だった金の髪。伯母さんが持ってきたクッキーの箱に結ばれていた、赤いサテンのリボンを大切に取っておいた。
あたしはすっかり銀色になった三つ編みを指先で撫でた。
「では」
腹が鳴らないよう慎重にお辞儀すると、あたしは歩き出した。
「お気をつけて」
幸せな農婦の声は背中で聞いた。