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第一章 晩夏

 九月も後半に差し掛かり、そろそろ次の仕事を引き受けようかと考えている時だった。懇意にしている警備会社から、四号業務……身辺警護の仕事を紹介されたのは。

 ボディガード、と、カタカナで書けば、まあ、聞こえはさほど悪くは無いが、現実はフィクションじゃない。

 仕事の内容や、出来ることは、警備業法で細かく規定されている上、明らかにそれと分かるような格好――ジュラルミン製の盾や、ヘルメット、ゴーグル、刺又など――は、依頼者の側から断られることも多い。いや、まあ、そもそもそんな物々しい格好をしていれば、目立ち過ぎて、警察から職務質問されてしまうが。

 基本的には、依頼者の家宅をきれいに――盗聴・盗撮機材の捜索と押収、警察への証拠提出――して、侵入検知システムを設置し、後は、犯人逮捕まで、通勤通学と休日に一度の買い物の外出時だけを警護する。非常事態が起こらなければ、携帯で呼ばれることも無く、外出時に護衛している以外の時間は比較的自由にしている。気は抜けないが、慣れればさほど不自由は感じない生活だ。だいたい、サービス残業なんて、いまじゃどこでだってさせられてるんだし。それと比べれば、まだましな条件さ。

 そもそも、何十人も雇って、四六時中交代でずっと護衛させるなんてことが出来るのは、よっぽど金の有る、あくどい商売している連中だけだ。基本、一般人の護衛では、単独もしくは多くても二~三人しか雇えない場合が多いし、そんな状況なら、依頼者にも協力して貰わなければ守りぬくことは出来ない。例えば、ありきたりなところでは、人通りの少ない道は避けさせたり、夜間の外出の時間を止めてもらったり、数時間おきの電話での定時連絡とかな。


 そして――。

 昨今、急増する需要に対して、それに応えられる法知識と護身術を身につけている人間が足りていない。ストーカーもそうだし、わけの分からない理由で人を怨む連中も居れば、昔と変わらずに金の問題が拗れて命を狙われたりなんてのもある。ネットが普及し過ぎたのも、加害者側の情報収集や攻撃を容易にさせている。主張の仕方ひとつで正義を勝手に語れるからな。わけの分からん紛い物の義侠心で犯罪に加担するやつも少なくない。いや、被害者側の危機意識の無さも問題だが。

 ……そうだな。時には、ある種の不安障害により、ありもしない追跡者や加害者を生み出してしまう依頼人もおり、その場合には心理学やカウンセリングの技能も必要となってくる。

 警備の大手とはいえ、そうした一通りの事を身につけた人材を、充分に集め切れていない部分もあるのが実情だ。だから付け入る……もとい、隙間産業的に参入する機会がある。


 もっとも、俺等みたいな一匹狼に仕事を回す一番の理由は、採算が取れないからだが。

 正社員ってのは、基本的に時給で雇っているし、長時間働かせれば手当ての問題や、労働基準法による休憩やらなにからと、めんどくさい規定がある。なら、自社社員はビルや学校の警備をさせ、定時までマニュアル通りに働いてもらい、めんどくさい――不測の事態込みの――仕事は、フリーランスに回した方が、効率的ってものだ。

 他を紹介すれば、依頼を断ったって事にもならないんだしな。


 ……俺は。

 中学では柔道、それから興が乗って大学でも護身術の道場へ週二で通ってた。大学はありがちな私立文系の、頑張らなくてもなんとかなる大学。進路で上等なのは――まあ、警察官とか自衛隊みたいな、上下関係がはっきりした縦社会は肌に合わなかったし、最終的に流れ着いたのがこんな仕事だったってだけだ。

 詐欺じゃない類の、楽して儲かる手段があるなら乗りたいもんだ。


 しかし、概ね依頼人には受けが良く――仕事には忠実に、ただし依頼者に特別な感情は抱かないので、契約が終われば全てを記憶から消し、他人になるのに受けが良いも悪いも無いが――、食いっぱぐれてはいないけどな。

 とはいえ、恨みは買うし、いつまでも出来る仕事じゃないかもしれない。ただ、あんまり長生きもしたくないし、四十ぐらいまでは――つまり、後十年程は――今の生活を続けようかな、なんて漠然と考えている。

 結婚?

 ふん、人の汚い部分を見る仕事についてないなら、考えられたのかもしれないがな。身内は、生きているが疎遠。あんまり、どうとも思えないんだよな。共働きだった親は、元々あんまり顔を会わせる機会も無かったし、自然と大学に入った頃から連絡しなくなって、卒業前後に一度帰省しただけ。

 まあ、年金払ってやってるんだから、間接的にはきちんと孝行してるし充分だろ。育児でも手が掛からない部類の、素直な良い子で居続けてきたんだからな。


 年の半分強を仕事に充て、一件片付ければひと月程度の休みを取り、煙草と昼酒で自堕落に過ごす。場合によっては、湯治に出たり、上手いもんでも食いにふらっと旅行したりはするが、その程度だ。

 休みが多いかもしれないが、軽傷を負うことはちょくちょくあるし、一度脇腹をかなり深く切られたこともある。治療の期間と、危険を加味すれば、トントンじゃないだろうか?


 そういえば、今回は役人からの依頼という話だったが、多分、今度顔を合わせるのは事務方で、俺以外にも何人かが別の場所で面接されてるんだろうな。警視庁から人を出さないって事は、どっかのNGOの幹部あたりの護衛かなんかか。

 なら、多分、チームで仕事しているとこが最終的には任されるだろうな、とは思ったが、ちょくちょく仕事を回してくる会社の面目を潰すわけにも行かず、取り合えず行くだけ行ってみることにした。


 今にして思えば、それが最初で最大の間違いだった。



 懇意にしている警備会社のビルの一室。普段、俺みたいな外部のヤツが、警備会社に来た依頼人と会うための小会議室――十二畳程度の、テーブルだけがある狭い部屋だ――に向かう。

 時期的にはまだ暑さが居座っていたが、印象も重視される仕事ではあるので、スーツでビシッと固めてみた。が、動きにくくてやっぱり嫌だな。

 ジャージ……は、動きやすくはあるんだろうが、そんなの仕事着にしてるヤツにあったことは無い。

 俺はもっぱら、カーゴパンツとロングTシャツにジャケットを合わせてる。ジャケットの丈やカーゴパンツのポケットを少し弄っておけば、特殊警棒や仕事柄、必要な装備を仕込んでおきやすい。ジャケットは、脱いで腕の保護に使ったり敵の視界を遮ったりと色々使えるからな。丈夫なのを選ぶようにしている。


 部屋に案内した受付の人がドアも開けてしまったので、ノックの手間が省けた。ってか、新人かよ、向こうも部屋の中で会う準備してるかもしれないんだから、まずは入室許可を取れ。

 とはいえ、俺が雇ってるヤツでもないので、そうした文句の山ほどは飲み込んで、依頼人に微笑みかけた。

「はじめまして」

「こちらこそ」

 と、四十代半ばぐらいの男が、答えた。部屋に入ってすぐだったのか、それとも受付から電話はいっていたのか、戸惑った様子はない。

 部屋に居たのは、男女の二人組みのようだった。男の方が女の方よりも二回りほど年嵩が上のように見えるが。立ち上がって俺に応対しているのは男の方なので、役職的には女の方が上だと認識する。

 男の方は、白髪が薄く混じった髪をオールバック……じゃないな、なんて言うか分からないが、オジサンがよくやるふんわりさせつつ前髪立ち上げたあの髪型にしている。学生時代には運動していたのか、肩幅は広いが身体は引き締まっているとは言い難い。デブでもないので、歳相応にたるんだ腹ってとこだな。スーツも着慣らしたもので、新品って感じじゃない。靴も鞄も、役人って情報とすり合わせて矛盾は無いな。


 しかし、もうかたっぽの女が問題だ。

 背丈は低い。多分、百五十前後だろう。体系は痩せ型、メガネはお洒落なブランド物を選んでいるが、いかんせん顔が不景気過ぎる。そういうメイクなのかと思うぐらいの深い隈が眼の下にあり――もしかして、肝斑かもしれないが――、目付きも悪いから、なんかヤバ気な中毒患者っぽい。髪は、ずぼらしていて自然とそうなったって感じのウルフカットだ。

 服装も、着慣らしたではなく、着古したって言った方が正しいような表現のスーツに……うっわ、下、スニーカーだよこの女。

 大丈夫か、これ?


 一応、女性の方にも――まあ、『はじめまして』に反応しなかったのに、もう一度そう声を掛けても機嫌を損ねるだけだと思ったので、改めてお辞儀してみたんだが、当然のごとく無視された。

 なんだ、この女。

 顔を顰めるわけにもいかず、苦笑いで男の方に向き直るが、中々難しい関係の二人なのか、男の方は説明する様子もなく、すぐさま話題転換を図ってきあがった。

「どうぞ、お掛けになって」

 まさかそう来られるとは思っていなくて、思わず噴出しかけた。

 まるで、面接官だな。

 まあ、あながち間違いではないのかもしれないが。

 ただ、普通は、俺等みたいなのを頼るって時点で、身内や友人にも被害が出始め人間関係で悩み、警察に袖にされ、途方に暮れたような状態なので、こちらから椅子も勧めるし、他にはまあ飲み物や話を聞く上で寄り添う行動をするものなんだが……。

 本当に、今回はこれまでとは違った仕事なんだな、と、ちょっと達観してしまった。


「小田切 雅也さんで間違いないですか?」

 男の方が名乗らずに……ああ、逆にこちらから探られたくなくてその対策なのかもしれない。探偵が四号業務を受ける場合も多いんだし。

 ってことは、厄介事、か。

「はい。略歴の方は――」

「ええ、こちらの会社のデータを頂いておりまして。人物警護のプロと」

 書類がいってるなら、改めて実績を口にする必要はなさそうだ。

 自慢みたいなことを、口に出すのは少し恥ずかしいって言うか、自分で自分を嘲ってしまいそうで苦手だ。

 男の方は……やや老眼になってきているのか、書類を近くしたり遠くしたりして焦点を合わせ、読み上げていく。

「大学卒業後、警備会社に就職し、三年後に退職。それから八年以上フリーランスとして通常の警備会社が扱い難い案件を、見事な手腕で解決に導き、警察からの信頼も厚い」

「いえ、……それほどでも」

 通常の、と、前置いていることから、昔の一件に関する皮肉も入っているのかもしれないと感じたが、直接的な言及ではなかったので、俺は言葉を濁した。警備会社の方も『わかっている』ので、そうしたことは書類には書いていないはずだし。

 ……過去、やり過ぎたあの件は。未だに賛否がある。会社側でも、俺としても、警察側でも。

「警備会社を飛び出した理由はどういったものですか?」

 きたな、とも思うものの、随分と不躾な訊ね方だと思う。あんまり、そうしたことは訊かないのがこの業界のルールじゃないのか?

 あの仕事が……直接的な切っ掛けになった、と、言えなくは無いのかもしれない。でも、それ以前から、フラストレーションは溜まっていた。給料や有給休暇なんかの待遇面の不満と、現場を知らない本社勤務の連中のバカな指示や経費削減策に嫌気が差したから、なんて本音を言ったらどんな顔をするんだろうな。

 まあ、言わねえけど。

「そうですね。警備会社の社員という雇用形態では、対応し難い部分は出てくると思います。特に、人物を警護した場合、ローテーションで日に何度も入れ替わってしまいますと、信頼関係の構築にも支障をきたしてしまいます」

 例の件の動機の説明も兼ねて、もっともらしいことを言ってやると、うんうん、と、男は頷き――。ついでと言った様子で更に質問してきた。

「ところで、アナタは、外国語にも堪能だと聞いているのですが」

 多分、趣味・特技の欄を見あがったな。

「はい。英語や、ロシア語、まあ、欧州の一般的な国の言葉なら、日常会話はなんとか成立すると思います」

 学生時代と比べれば、あんまり耳にしなくなった言葉は忘れているだろうから、履歴書通りとはいかないかもしれない。ただ、逆に、昨今の情勢のおかげで、新たに中国語は少々覚えたし――。

「アフリカの言葉は?」

 訊かれて、すぐには意味が分からなかった。アフリカ語、なんて言葉はない。アフリカの言葉はかなり細かく分かれていて、公用語は、どちらかと言えば旧宗主国の欧米の言葉を定めている国が多いんだけど……。スワヒリ語とか、ソマリ語みたいな、アフリカ独自の言葉ってことか……?

 ああ、違う。そうか。

 多分、誤解というか正しい表現をこの人が知らないだけ、か。

「アフリカーンス語のことですか? それは……、ちょっと……」

 商取り引きなんかのため、必要に応じて作られたクレオール言語で、色々な欧州の言葉が混ざったようなものだとは聞いたことがある。だが、実際にネイティブスピーカーに会ったり、使用したことが無いので、なんとも言えない。

 クレオール言語には、ほぼ英語ってのもあるし、慣れれば分からなくはないのかもしれないが……。

「うん? ああ、いや、そういうわけではなく。ええと……そう、アフリカでも、会話は出来ますか?」

 アフリカでも会話?

 どうも、話がややこしくなってきているな。アフリカ大陸から日本に来る、なんらかの政治団体、もしくは環境団体の警護が依頼なんだろうか? ただ、それなら、もっと具体的な言語を指定してきそうなものだが……。

 いや、それ以上に、この男があまりアフリカの知識が無さそうなのも気になる。

 あくまで代理、もしくは、小手調べってことなんだろうか?


 女の方の様子をそれとなく窺ってみるが、最初と同じで俯いてずっと黙っているだけだった。

 ……ああ、いや、少し違うな。爪のささくれてるところを気にしている。子供か、お前は!

「ええと、そうですね。一応、欧州の言葉が使える国は多いですし、アラビア語も……趣味程度なら話せますので、都市部でなら、そう、コミュニケイションは可能だと」

 正直、既に受けようって気はほぼなくなってきてはいたが、俺は一応答えた。

 ただ、趣味? と、男の方に首を傾げられ――苦笑いで補足した。

「古代エジプトが好きで。ピラミッドとか。考古学は専門ではないんですけど、ロマンがあって……そうですね、いずれ機会があれば、王家の谷なんかも行ってみたいですね」

 まあ、それも暫くは難しいかもしれないが。

 うん、なんていうかな。フリーになった後は、金も時間も無いってわけじゃなかったんだけど、いつでもいけるしそのうちに、と先延ばししていて、アラブの春が始まって……って状況だ。

 学生時代には、欧州への経路で軽く経由しただけだったしな。あの頃は、どちかっていうと、ローマとかその辺のとっつきやすい部分にはまってた。こんなことになるなら、もう少し足を伸ばしとけばよかったな、なんて。

「成程。それはそれは、やっぱり男なら、歴史のロマンには憧れますな。いや、わたしの方も、ツタンカーメンの発掘の特番なんかがあるとつい見てしまいまして」

 雑談には饒舌に乗ってくる男、か。


 いつになったら、依頼したい内容に関して話してくれるのかと思ったけど、結局この日は、古代エジプトから脱線した話は戻らずに、一時間ほど歴史系の雑談をして――男の方は思う存分喋って満足した顔で、女の方は最初と同じ不景気な面で、相談っていうか、いや、打ち合わせも変だし……ともかくも、妙な面接は、中身の無いままで終わってしまった。

 ったく、俺は三国志は嫌いだってのに、あのジジイ、途中から中国史を長々喋りあがって、というのが、その日の感想の全てで……。よっぽどなにか無い限り、受けたくねえなー、というのが、本音だった。

 まあ、依頼に関して一切触れられなかったので、このままお払い箱だとは思っていたけどさ。



 役所から下りてきた仕事っていうのもあったし、横暴で怠慢なのは役人の常なので、不採用? の連絡も来ないものだとばっかり思い、本格的に次の仕事を探そうとか考え始めた金曜のことだった。


 急に振動を始めた携帯。

 サブディスプレイに表示されていたのは、登録されていない携帯の番号だったけど、長々と呼び出しているので取ることにした。

「はい、もしもし」

『……遅い』

 女の声? だ。しかも、びっくりするぐらい不機嫌そうっていうか、不景気そうな。

 学生時代の同級生でも、仕事関係の人間でもない声だ。仕事は、一件毎に携帯を変えるので、過去の依頼者のはずもないし……。っていうか、声に聞き覚えが無い。こんな特徴な声なのに、覚えがないってことは……間違い電話じゃねえのか?

 キャバクラとか、風俗とか、病気が怖いので俺は行かないし。飲むなら、家飲みが一番だ。綺麗なおねえちゃんには、棘があるので、映像媒体で眺めるだけで充分ってね。

「どちらさまでしょうか?」

 こちらから名乗るなんて無用心はしたくなくて――そもそも、ガラケーを使っているのもセキュリティ面での理由なんだし――、仕事用の愛想入りの声で訊ねる。

『…………』

 間違いに気付いて焦っているのか、長い沈黙が流れた。


 こっちから電話切ってやろうと思い始めた時、ようやく――。

『身辺警護の依頼について、相談していたモノだ』

 声の音量が、最初と比べて少し増した。怒ったのかもしれない。


 電話の相手は、あのヤバ気な女、だったようだ。

 ってか、あの時、一言も喋ってねえんだから、声で分かるはずないだろ! なのに、なんでキレ気味なんだよ、コイツ。しかも、社会人としての最低限の電話のルールも守っていねえし。

「ああ、はい。そちらの件でしたか。それで――」

『具体的な話を詰めたい』

 修辞語は要らない、とでも言うかのように、俺の挨拶をぶった切り、要点を口にした女。

「ご契約を?」

『そう言ってる』

 言ってねえよ。つーか、言ったの今だよ。ってか、そもそも、受けられるか否かをこっちはまだ判断出来る状態じゃねえ。向こうも判っているとは思うが、俺は単独でやってるわけで、複数人の護衛や具体的にどっかの武装集団やテロ組織から命を狙われているとかいう連中は、相手に出来ない。いや、そうでなくても、言動に物議をかもすような、ある程度の著名人の警護も断る。そういうのは、チームで当たるべきだ。張り付いて身を挺して守る直接護衛以外にも、移動予定地に先回りして不審者不審物の発見に努める間接護衛からなにからと、とにかく人手がかかるものだから。

「では、仕事内容に関しての打ち合わせということで」

 しかし、内容も聞かずに電話口で断るわけにもいかず、ともかく今日の所はそう答え――。

『そうだ。場所は……メールに必要なものを添付して送る。週明けの月曜、十三時だ。遅れるな』

「はい。しょうち――」

 ガチャンと音がして電話が切れた。ってことは、仕事場からの固定電話だな。……いや、そうじゃない。あのバカ女、こっちが挨拶している途中で、しかも、受話器を放り投げるように切りあがった。

 ビジネスマナーとして、固定電話での商談なら、その終わりに、受話器を置くんじゃなくて電話のあの出っ張りを指で押して、静かに切ってから受話器を置くのがルールだろ。ったく。


 しかし、受かっちまったのかー。

 なんか、微妙だな。

 俺って別に、使命感とか、正義感とか、愛国心は皆無なので、国から降りてきた仕事っつっても執着は無いんだよな。

 内容確認したら、適当に言い訳して断ろう。

 そう決断し――。


 予備調査として、仕事を持ってきた二人に関しての身辺調査を始めた。


 掛かってきた固定電話は、外務省のアフリカ部の第一課……のようでもあるんだが、最近引いた番号なのか、引っ張ってきた二週間程度前のデータでは具体的な部署や担当者の名前が出てこなかった。

 次いで、俺の面接をしていた二人の容姿から、身辺を洗ってみると――やっぱり、男の方は外務省の職員のようだった。今年になって新設された課の課長に就任し、現在四十八歳。既婚――ただし別居中。子供なし。外務省に入ってからの経歴も、中東・アフリカ部をちょろちょろしていて、具体的な実績はおろか現地への赴任経験も無い。言語の才能は、……大学時代の卒業論文や、外務省での成果を見るに、英語が高校生レベルというだけ。まあ、外務省って言っても、日本語以外からきしってヤツ――給料泥棒――は意外と多いが。

 日本語以外での会話は不可能だな、コイツ。まあ、役所になにか期待があるわけじゃないが……。なるほど、アフリカの言葉なんてあやふやな訊き方しか出来ないわけだ。


 しかし、それ以上が分からなかった。航空会社やホテルの動きからは、どうも、アフリカから誰か呼び寄せるってわけでも無さそうなんだが。現地視察の護衛……ってのも、ちょっと違うんだよな。俺はその系統の仕事の実績が無いんだし。

 ソースが怪しいネタ――酒の席での若い職員の話――としては、アメリカと組んでなにかしようとしているらしい、とかなんとか。

 資源狙いか、それとも、アラブの春以降に動揺した地域への平和維持か。


 ふ――、っと、煙草の煙でも吐き出すように長い溜息を吐き。

 俺は、調査記録を消した。

 これは、身に余る。

 話を聞きに行くのさえ、躊躇うレベルで。


 そんなこんなで日付が変わるまで調査をしていたので、むしろ寝過ごしてやるつもりで月曜の打ち合わせの準備をほとんどせずに、布団に入ったのだが……。


 この辺りに似つかわしくない重い車の音で、目が覚めた。カーテンの向こうは明るい。今日も晴れ、か。暑くなるのは勘弁して欲しいもんなんだがな。もうじき、十月になるってのに。

 車の音が気にならなかったわけじゃないが、自分と関係があるとは思わずに、適当に着替えて、まずは近くの店で朝飯にしようと外へと――。

 出たのが、間違いだった。

 リムジンでは無さそうだが、真っ黒なでかい国産車が止まっている。そして、俺が玄関の鍵を閉めると、そのドアが開けられた。

「乗れ」

 最悪なお迎えは、あの目がヤバイ女だった。

「どうも」

 なんか、もう、大人な感じで断る気も失せて、俺は本来の口の利き方で応じた。


 時間には早い上、俺、スーツ着てないんだけどな。まあ、いざって時のための特殊警防は、チノパンに仕込んであるし、上のワイシャツも裾の長いヤツなので、いざって時に対応できる装備ではあるけどさ。


 俺が乗り込むと、ドアが閉まり、車が走り出した。

 右側には、目付きのヤバイちびっ子。

 まあ、年齢的にちびっ子って表現は正しくないが……。なんていうかな、歳が読み難い女だ。それなりにいっていそうでもあるし、二十代って言われても、そうか、としか返せないっつーか。

「仕事を選り好みする男らしいな」

 すきっ腹で椅子に深く座っていると、今日は饒舌の日なのか、この前とはイッテンして女の方から話し掛けてきた。

 もっとも、のっぺりとして感情が読み難い面なのは変わらずだが。

「まあ、普通ですよ。こういう世界では」

 俺が調べたのと同じように、向こうもこちらの素行調査でもしていたんだろう。別に、珍しいことじゃない。

「そうか? 金次第で雇えるものだと思っていたが」

 ちょっと小首を傾げたので、本当に不思議に思ったんだとは分かった。

 が、あんまり賛同しかねる感想だな。

「命までは売り物に出来ませんよ」

 俺等は、別に、傭兵ってわけでもないし、ヤクザな連中でもない。

 確かに金は欲しいが、命も惜しい。

 だから、身の丈を弁え、出来ることを迅速に遂行する。そういう活動方針が普通だと思う。大手のおこぼれを漁っている部分もあるが、大手でもそうした面倒で大きな組織とやり合うのを避けるために、自社ではなく、こちらに仕事を振って、そこで断らせるって使い方もあるんだし。


 女は、ふむ、と、俯き、少し考えている様子ではあったが、車が十字路を右折したタイミングで顔を上げ、こちらを真っ直ぐにみつめてきた。

「こちらを調べたな?」

 隈のある、さして大きくもない瞳が、まじまじと俺を見詰めて来る。

 俺を調べたことをさっき匂わせていたし、そこまでは気付かれているだろうな、とは思っていたが、自分から口に出されるとは思わなかった。いや、口にされるとしても、依頼を断った段階で、口止めもかねて、組織力を見せる意味で、監視しているアピールに使ってくるものだと思ってた。

「まあ、最低限の確認作業っすよ。ドクター」

 軽く肩を竦めて答えれば、女の目尻が若干楽しそうに垂れた気がした。


 ただ、これが舐められないための精一杯の強がりだ。女の方の経歴はあやふやで、そこまで大きな収穫は無かった。脅迫や、保険にするネタまでつかめていない。

 この女については、一時期、大学病院でなにかを研究していたらしい――政府から紐付きの金が出て、それで先進医療の研究チームの発足とか、そんな感じの小さなニュースだったが――、という情報を拾い上げられただけ。

 やっていたことから見て、免許を持った医師ではあるらしいが、どこで医師免許を取ったのかまでは探れなかった。工学部に在籍情報があったり頻繁に出入国していたりと、意図的に足跡をおぼろげにしている節もある。

 もしかすると、スパイってヤツなのかも。


「あの木っ端役人だけでなく、まさか私についても調べられたとは思っていなかった。意外と優秀だな。お前は」

 それはどーも、と、偉そうな賛辞を一応受け取る。

 やっぱり、コイツの方がアレより偉いのか。しかし、それだと役職はなんなんだろうか? 部長って感じでは無い。っつーか、外務省の部長の名簿は入手したが、コイツは入っていないはずだ。偽名じゃなかったらな。

 外部の権力者?

 ん、む……情報が少ないな。

 多分、俺を雇う必要のあるプロジェクトでは、大きな責任を持っているってことなんだろうが、な。まあ、


 車は、最早説明不要とでもみたのか、予定していた会合場所ではなく、外務省へと躊躇無く入っていった。

 あれよあれよという間に、車を降ろされ――守衛所はスルーだった。つまり、公式にはこの打ち合わせは存在しないってことだ――、階段を上らされ、ごくありふれた、だからこそ周囲の景色に同化している窓の無い部屋へと導かれてしまった。

 規模は、小会議室程度だな。入る人間は、十名が限度だろう。

 白い蛍光灯が、白い部屋とありがちな木のテーブルとホワイトボードを照らしていた。テーブルの上には、ノートパソコンが二台。今、幕が上がっているだけなのか、プロジェクターもある。

 テーブルの向こう、部屋の奥には、前に会った男が額に汗を浮べて立っていた。偽装って感じじゃない。慌ててここまで来たって感じだ。

 さっきまでの行動は、女の暴走だったのかもしれないな。

 しかし、それならそれで監督責任とか色々とあるし、このオジサンが無罪ってわけでもないが。

 まあ、その暴走のおかげで、というか、せいで、俺がここに連れて来られて――もしくは拉致られて――いるんだし、向こうとしては結果おーらいと言えば、そうなのかもしれないが。


 車を運転していた連中は、打ち合わせには同席しないのか、俺が部屋に入ると同時に、背後のドアを閉めて去っていった。

 ふぅ。

 短く嘆息し――。

「おはようございます。まさか、お迎えまで出していただけるとは思いませんでした。こんなに熱烈な歓迎を受けると、恐縮してしまいますね。……すぐにお暇したくなるぐらいに」

 口元以外では全く笑わずに告げると、課長職の癖に微塵も威厳を感じられない態度で、男が言い訳をしてきた。

「ああ、いや、これは、その僕の命令では、なく……そちらの、白倉さんが行ったことで、僕としては、その」

 一応、調べた資料ではこの女は白倉 紬という名前のはずだが、合っているようだな。まあ、下の名前はどうでも良いかもしれないが。

 ちなみに男の方は、横田 正巳という名前のはずだ。こっちは、よりどうでも良いか。男だし。まあ、名前が『み』で終わるから、最初、課長があの女なのかとも誤解してしまったがな。

 つか、余裕無いときの口調、まるっきりお坊ちゃんだな。クソ役人め。絶対コネとか使ってるよ、コイツ。


 顎を突き出すようにして、頭を傾け、斜め前の女をナナメの視線で見詰める。

「少し、こちらの方も急がなければならない状況でね」

 しかし、俺の態度はどうでもいいのか、女は全く悪びれもせず、かつ、慌てもせずに最初からずっと変わらないやや不機嫌そうな口調で答えた。

 ははん、と、苦笑いを浮べると、険悪な空気に負けたのか、男の方が名士を取り出して自己紹介を――。

「外務省のアフリカ部に所属している、横田と――」

「そいつは、もう、知っている。調べられた形跡がある。そうだろ?」

 してきたが、女に遮られた。

 男の手が引っ込められる。

 物証を渡しては拙い、とでも気付いたかな、表情的に。

 まあ、こちらとしても、名刺程度なら要りはしないし、いいけどな。

「なんでも、新しい課の課長に就任されたとかで」

 皮肉で応じてパチパチと軽く手を叩いてみせる。

「課という規模ではないが……、その、まあ」

 男の額から噴出す汗の量が増した。上役に怒られる、とか思ってるな。

「秘密組織ってやつですか?」

「そうだから、黙ってろ」

 からかうように訊ねてみると、脱線した話はお気に召さないのか、女が強引に話を切り上げさせてきた。


 こほん、と、男が咳払いをし――、ホワイトボードに地図をマグネットで貼り付けた。

 アフリカ大陸の地図だな。都市名がかなり細かく書き込まれている。

 地図は新品なのか、折り目が無く、特にペンでなにか書き込んだ形跡も無かった。

 国境線が曖昧になっている部分や、政治的に不安定になっている部分もあるだろうが、これはそこまでは網羅していないようだな。古いってわけじゃないだろうが、これだけを頼りにアフリカについて議論するのも無意味だと思う。

 アラブの春以降の動揺は、少なくない。

 いや、元々、国境線の諍いや、部族単位で動いている集団もあるし、緯度と経度だけで主権範囲を認識するのは危険、か。


 腰に手を当て、ひとまず男のすることを眺めていると、地図とポインターの準備を終えた男が、額の汗をハンカチで拭いてから俺に向き直った。

「バルカ民主共和国は知っているかな?」

「バルカ?」

 聞いたことの無い国名だった。いや、俺も、地球儀丸々頭の中に入ってるってわけでもないが……。バルカっていうと、思い当たるのはハンニバル・バルカか。ってことは、チュニジア付近の国なのか?

 視線をその辺りに向けるが、国名を見つける前に、男がポインターでインド洋に面した部分を――名前の割に、チュニジアからはかなり遠いな。バルカの由来は別なのか? ――なぞり、慣れた口調で話し始めた。

「まあ、無理も無い。東アフリカに新しく生まれた国家で、まだ公式に地図上に記載されている国家でもないし、充分な国家承認も受けているとは……」

 自然と眉間に皺が寄ってしまった。つまり――。

「独立紛争?」

 どっかの軍閥か宗教組織が、支配地域を独立と称しているのかもしれない。民主的な試みは、現在あの辺りでは余り成功しているとはいえないし。そのそもその民主化というプロパガンダでさえ、各国の思惑から押し付けられた――資源を搾取するためのプロセスという側面もある。

 利権と宗教と民族問題が混じり合った、血と砂漠のカオスだ。

 係わり合いにならないのが、火傷を負わない一番の手段のような気がするんだけどな、俺は。


 男は、概ね俺の考えを察してくれたのか、安心してほぢいとでも告げるような、これまでに無いほどに堂々とした様子で言い返してきた。

「いや、全てのプロセスは民主的に行われ、その証明としてアフリカ連合への加盟は果たしている」

「民主的? 領土を失った側は――」

「穏便に民族問題を処理した功績により、日米からの食料及び経済援助が既に行われている。両国間の関係は、非常に良好だよ。我々も、地域の安定化に対して充分に貢献できたと思っているよ」

 出たよ、国民の血税を自分達のお小遣いとしか考えていない役人根性。死ねば良いのに。つーか、こんな仕事持ってきてる時点で死ね。


 多分、プラント建設に出資して――ああ、アフリカでは米を食う習慣もあるんだったな、なら、備蓄米とか他国からの輸入しなくてはいけない米をそっちにまわして処理するのも兼ねたってとこか。

 ただ、最終的にその資源を日本に持ってくる前に、色々と横槍が入って、採算が合わなくなってくる。もしくは、いつの間にか日本の地位が他国に取って代わられてるってオチだろうな。学習しない外務省の仕事なんだから。

 一度、解体しちまえば良いのに。

 っつーか、この不景気に、いつまでも出資し続けとくってわけにも行かないだろうが。下手をしたら、日本が予算切ったから失敗国家になったのなんだの言い掛かりつけられるぞ?


 溜息を隠さずに更に質問を重ねてみる。

「国連には?」

「未加盟だ。ただし、アメリカやイギリスは国家承認を行っているので、日本としても国家承認している国で……この度、外交団を派遣することが決まったんだ」

 東側が反対しているとかか? ああ、まあ、中国はアフリカで熱心にあくどいことしてるらしいしな。

 ……それって、もろに、ヤバい仕事臭いな。

 この流れでいうなら、俺に求められるのは――。

「キミを、在外公館警備対策官として任官したいんだが」

 ほら、来た。

 厄介極まりないクソ仕事。

「……そうした役職には、通常は自衛官や警察官が就くのでは」

 まずは、軽い牽制として正論で応じてみる。

「あ、うむ。そうなんだが、今回は急な決定であったし、その充分な連携が取れなくて、……そう、正式な代表が赴任するまでの、二年間ほど、キミに警備・警護をお任せしたいと」

 警察はともかく、自衛官は命令に対して、そこまで反抗というか拒否する権限があるんだろうか?

 ……いや、そうした経歴の人間を送って、殉職されたくないってのが本音か? 世論が左右のどっちに振れるのか分からないし。

 でも、それは、今回派遣される外交団としても同じで、犠牲が出れば、騒ぎになる。幾ら報道を規制したところで、向こうがネットに犯行声明を出したり、死体を晒せばそうもいかなくなるわけで……。

 他の部署とは、単なる連携不足っていうだけか?


 ……くそ。

 なにか、におうがそれが掴めないな。


「面子だけで出張るのは、あまり良い場所、良い時期とは言え無そうですが、なにか理由が?」

 話を引き伸ばしてみるが、無能でも役人――いや、むしろ、無能だからどうすれば責任を逃れられるかだけは熟知しているのか、男の言動はのらりくらりとしている。

「う~ん、まあ、政府としても、他国からの要請を無視できないというか、その……」

 まるで、本当になにも知らないように。


 演技か、本当に使い捨ての駒なのか……。微妙なところだな。嫁と別居中で、両親も高齢っていう四十男ってカードは。正直、死んだところで、始めから存在しなかった人間にしても、誰も騒がなそうだ。

 ともかくも、こんな風に話が上手くだれて来た所で、ではまたその辺のお話は次の機会に……といきたかったが、いけなかった。

「希少資源のためだ」

 女がはっきり言ってしまったから。

 男の方は、言う許可を取っていなかったのか、露骨に焦っている。

 しかし、既に俺を巻き込むのは女の中では決定事項なのか、涼しい顔――ってか、最初から変わっていない顔だが――をしている。

「レアメタルの値段は、もう、比較的安定しているのでは?」

「既存の鉱物じゃない。これからの最新技術の中核をなすものだ。必要なら結晶構造から、岩石組成、応用分野についての説明も出来るが、基本的には文系のお前に理解できるのか?」

 まあ、細かい理論なんかについてウダウダ言われたら眠くなるが、そう突き放されると面白くねえっつーか。

 いい加減、どつきたくなるっつーか。

 多分、コルタン辺りなんじゃねーかなーとは、俺も予想できるけどなあ!


 不穏な空気を察したのか、男の方が急に猫撫で声で話題を変えに来た。

「予防接種は、黄熱病も含めて受けているね」

「ああ……、はい、そうですね」

 擦り寄ってくる笑顔が、また憎たらしい。

「エジプト好きの賜物かな?」

「いえ……」

 まあ、その通りなんだが、今は若干後悔している。

 この件が――どういう形にしても――、ひと段落したなら、次は絶対日本史だけを探求しようと心に誓った。海外なんて、くそくらえだ。

「破傷風も追加接種もばっちり」

 破傷風はガキの頃に三種混合で受けて――。今の業界に入った時に、怪我が多い仕事だからと追加接種した。そして、最悪なことに、その接種から十年経った時に、四種混合で受けちまってる。有効期間は、まだかなり残っている。

 犯罪者側が綺麗な刃物を使ってくれる保証なんてないんだし、念のためだったが、こっちも裏目に出たな。

「狂犬病は受けなおしてもらう必要があるが、それだけだ」

 うんうん、と、勝手に頷いている狸オヤジ。


 俺は、改めて、なに考えてんだか分からない女と、その女を制御しきれずにオロオロしつつこっちに多少は気を使っている男を改めて観察する。

 俺の答えは……、まあ、最初から変わっていない。っていうか、今日の打ち合わせでより強固になった。

「断れば……、映画なんかにあるように、俺は消されちゃうとかですか?」

 もう、変に取り繕うのも止めて、どちらかといえば同情を誘うような力無い声を作って、男に向かって訊ねてみる。

 男の方は、嫌な顔になりはしたが、その程度の変化だった。女の方の行動から、断られるって可能性を充分に理解していたのかもしれない。そして、女が勝手な行動をとったから断られた、と、言い訳もばっちりとくれば……。

「いや、まさか。守秘義務を守ってくれるのであれば、こちらとしても、それ以上の――」

「受けろ」

 男の方が、ごちゃごちゃ言うのを遮って、きっぱりと命令してきたのは女の方だった。

 真意を量るように、軽く首をかしげて女の方を見詰める。というか、目を細め、口に不真面目な皮肉を乗せて見下ろす。

 女は、怯まなかった。最初からずっと変わらない、表情筋が死んだようなのっぺりした顔で俺を見上げ、口調だけは高圧的に話し続けた。

「報酬は三千万、任期は二年、前金で千五百万を即金で渡す。残りの千五百万は、仕事の完遂時に。他にも、必要経費を認める。条件としては特例中の特例だ」

 嘆息し、男の方へと向き直る俺。

「それだけ危ない、ってことっすよね」

 まあ、確認するまでもなく昨今の中東情勢、そして、中東の報道に押され気味で報じられては居ないが、エボラが一段楽したとはいえ、紛争の火種は多いアフリカ情勢を鑑みれば、当然だが。

 スーダンと南スーダンの問題に、ダルフール紛争、ソマリアなんかは比較的メジャーな部類だし、それ以外にも軍閥や武装集団、民兵の問題が複雑に絡んでいる。

 一介の警備員とは比べ物にならない戦闘経験が、向こうの連中にはある。

「でなければ、わざわざ雇わん」

 視界からギリギリ外れている斜め前からの女の声に、軽く肩を竦めてみせた。


 三千万の金。まあ、残り半分を素直に支払うかっていうと、どうか分からない部分はあるが、それでも、最初に貰う千五百万は確定だ。

 ただ、二年で三千万としても、保険とか年金とか税金は引かれるだろうし、そこまでおいしい金額ってわけでもないんだよな。

 この仕事の後に、金を使い切るまでの長期間の休みを入れたとするなら、勘も鈍るし。

 今の、身の丈にあった仕事のスタイルが俺は一番良い。

 有名になる気は無いし、落ちぶれるつもりも無い。もうしばらくは、現状維持で充分だ。


 尚も返事を渋る俺に、女が脅すようなことを言いあがった。

「それに、断れば、暗殺まではされないまでも、仕事がし難くなるぞ。そうした嫌がらせは、役所のお家芸だからな」

 まあ、な。

 それが頭が痛いところだった。

 四号業務に関しても、襲撃者に対して人道的に取り押さえなければならないからな。なにをしても、まず過剰防衛を疑われるし。傷害罪の他にも、犯罪行為に対する警告も脅迫と主張されて訴訟されることも……。

 警察や裁判所の方でも、ある程度は――目こぼしじゃないが、取り扱わないで貰っている。警察の真ん中あたりの連中は、こちらの活動にもある程度慣用だ。マニュアリストの下っ端と、口先と面子だけの上の方は全然だが。

 だから、そうした部分で締め付けを強められると痛い、な。そこまで貯金していない俺だから。


 結局俺は、あの大手警備会社のスケープゴートにされたってわけか。

「断る」

「ダメだ」

 今後の事はその時にでも考えるさ、と、開き直って拒否したが、またもや即座に、女から否定されてしまった。

 いい加減、暴れるぞ、と、睨んでみるが、女はあいも変わらない表情で淡々と話し始めた。

「既に書類は全部揃っている。後は、サインと印鑑を少々だ。それに、断った場合、お前は強制起訴される。そういう手筈だ。ちなみに、ここに来るまでの過程で、私に対する痴漢でも起訴するように罪が追加されているからな。意地を張っても逃げられんぞ」

 誰が痴漢するか! てか、痴漢も逃げるわ、お前のような目付きのヤバい逆ワガママボディの女は。


 顔を向けずに視線だけで男を見るが、無言で頷かれてしまった。

 痴漢の冤罪は、相当厄介だし、それ以外の案件も、起訴する気になった警察や検察が大人しく引くとも思えない。上手く執行猶予を勝ち取ったとしても、今後は、もっとクソな仕事で貧乏させられるだろう。

 逃げ場は、無い、か。


 てか、最初っから、俺ひとりに狙いを絞ってるってことだよなよな? これだけ準備されてたってことは。なんでだ? 俺は、別にそんな目立つって訳じゃないだろうに。出来ない男ってわけじゃないとは思うが、上には上がいるとも思っている。

「なぜ俺を?」

 男の方がなにか答えようとしたのを視線で遮り、女が一言で返してきた。

「語学と警備が出来るのがお前だった」

 それだけではなさそうだが、これ以上は探っても聞きだせそうに無かった。まあ、確かに外国語ダメなやつの方が多いけどさ。この業界っていうより、日本人全体の傾向として。


 最終的な総括として、俺は盛大に溜息を吐き――。

「前金を、確認したら準備に入る」

 上手くいく気がまったくしない仕事を請けることになった。

 ちくしょう、ヤバくなったらぜったいトンズラさせてもらうからな、この野郎。


「最初から、素直に言えば良いんだ」

 どっかりと椅子に座った女の顔が、手が掛かる子供だ、とでも言っているような気がして、俺は女の座っている椅子の脚を軽く蹴ってぼやいた。

「うっせ。受けたからには守るが、言うことちゃんと聞いてもらうぞ」

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