夢人
―そこは何もない場所だった―
「…?」
気が付いたか?
―言葉が、わたしの中に入り込んでくる―
―それは、まるで文字を読んでいるかのような、音のない言葉―
―しかし、音がなくても、声が聞こえなくても、それはあの人が発している言葉だと、心で理解することができた―
「…ああ、ここは夢の中ですか」
どうしてそう思った?
「だってあなたは、もういないはずじゃないですか」
そうだな
「どうしてわたしの夢の中に?」
最近の、おまえの様子が気になってしまってな、いてもたってもいられず、夢に出てしまった
「だったら、姿くらい、見せていただけませんか?」
それはできない、そういう決まりだ
「ならせめて、あなたの声を聞かせてもらえませんか?」
それもできない
「…そういう決まりですか?」
すまないな
「かまいませんよ、あなたとお話しできるなら、よしとしましょう」
―それからしばらく、二人で過ごした時のことを、思いつく限り話し合った―
「わたしずいぶんと長い間、あなたと一緒にいたのですね」
お前にはいつも苦労をかけてしまったな
「そうですね、あなたはいつもわたしに大変な思いをさせていましたよ?」
…すまないな
「それでも、わたしはあなたにたくさんのものを与えてくれました。」
私は、おまえに何かを与えてなどいないよ、いつだって、与えられてばかりだった
「ええ、わたしはあなたに、毎日たくさんあげている物がありましたね」
しかし、私は何一つおまえに返せなかった
「いいえ、わたしだって、わたしが毎日あなたにあげていたものと同じものを、あなたからたくさんもらっていましたよ。だから、謝らないでください」
いや、しかし
「わたしはあなたの隣にいれたことを、何よりもうれしく思っているのですよ?」
…ありがとう
「どういたしまして」
私は、おまえとともにいれたことを、おまえを愛せたことを、誇りに思う
「まぁ、なんて恥ずかしいことを言うのかしらこの人は」
おまえと話せる最後の機会なんだ、かまわないだろう?
「…最後、ですか」
そうだな、私がおまえのいるそちら側に関われるのは、これが最後だ
「…」
さぁ、おまえはもう目を覚ます時間だ
「…待ってください、気が変わりました」
なに?
「やっぱり、わたしはあなたを許さないことにします」
なっ…!
「わたしに姿を見せて、声を聞かせてくれたら、許してあげますよ?」
それはできないと言っただろう
「では、わたしからあなたに会いに行くのならかまいませんか?」
それは駄目だ!
「どうしてですか!突然あなたの声が聞けなくなって!あなたが世界からいなくなって!どれだけわたしが悲しかったと思っているのですか!」
…
「お願いです。一目でいい、あなたの姿を見せてください。ほんの一言でいい、あなたの声を聞かせてください。このままだと、わたしは淋しさで死んでしまいますよ?」
…おまえはウサギじゃないだろう?
「同じです、何も変わりませんよ!」
それでも、どれだけ淋しくても、おまえは死なない、そうだろう?
「どうしてそんなことを言うのですか!」
おまえはまだこっちに来てはいけない、おまえはまだ向こうにいなければいけないんだ
「だけど、わたしは!」
私はそれを望んでいない!
「っ!」
…頼む
「…わかりました。わたしはもう、目を覚ますことにします」
それでいい
「もう、行きますね」
―私は、私の世界へ帰っていく―
これは、私がおまえにかける最後の苦労だ。
もっとたくさん、幸せに生きておくれ
「はい、約束します」
達者でな、絹代
「また会いましょう、柊一郎さん」
―夢の世界が、とけていく―
わたしが起きたのは、予定していた時間より一時間も遅い時間だった。
「ああいけない、あの子たちが来る日に寝坊してしまうなんて」
しかし、あんな夢を見たのだ、仕方ないかもなと思った、
「ああ、急がないとあの子たちが来ちゃうわね」
今日は、一人になったこの家に、息子夫婦と孫がやってくる。寝起きの恰好であの子たちを迎えるわけにはいかなかった。
しかし、わたしは食事や、身支度をする、その前に、
「おはようございます。今日はきっと、家が賑やかになりますよ」
仏壇に、あの人の遺影に、わたしは両手を合わせる。
笑顔で写っているあの人が、「そうだな」と微笑んでいるような気がした。
今日見た夢の話をしたら、あの子たちはどんな反応をするだろうか。しかし、これだけは、必ず息子に言ってやろう。
「わたしが死んで、もしもあなたがクヨクヨしていたら、あなたの夢に出てやりますからね」
あの子の困ったような顔が目に浮かんで、思わず笑みがこぼれた。