転/第八十九話:(タイトル未定)
気分や具合が悪くなるような臭いは、とくになく。
「あ、そうだ。キチさん」
金属製のハシゴを下り、とくに問題なく穴の底に到着して、
「オレの顔面にやらかしたときみたいに、ちょいとお水を噴いていただけませんかね?」
ハッ、と思いついたことを口にしてみた。
素手でつかんだハシゴが錆びていたこと、現在位置が“便器の穴の底”であること、それらを妙に意識してしまった結果、“手を洗えたら”と思うたのだ。
好都合なことに、我が頭皮をえぐる勢いで器用につかまっていらっしゃるカメなキチさんは、どうしてだか“口から水を噴くことができる”という、“よくわからない特技”を有していらっしゃるし。
「のど、渇いちゃいました?」
我が思いつきを耳にした壱さんが、純朴なふうに言うてきた。音声がなんぞ「もごもご」しているなと思うたら、ほっぺの片側がハムスターのごとくむにんっと膨れてあった。どうやら、まだ口内にアメ玉が残ってあるらしい。
「いえ、大丈夫ですよ。のどは渇いてないです」
お着物のすね辺りにある裾の間に手を突っ込み、たぶん水筒を取り出そうとしてくれている壱さんに、まずは「ありがとうございます」と伝えてから、
「場所が場所ですからね。それに、ハシゴが錆びていましたし。壱さんたちが手を洗うのに使わせてもらえたら、どうかなぁ――と、思いまして」
先ほど口にした思いつきの意図を、さっと説明する。
とりわけ壱さんは、身近に食べ物があったら即、素手でつかみ取って口に運びそうなので――とまでは、さすがに言わないけれども。
「いま若干、失礼なことを思われた気がしますが」
壱さんはちょいと唇を尖らせ、考えを巡らせるように口内のアメ玉を転がしてから、
「まあ、よいでしょう」
不満を治めるように、転がし終えたアメ玉をほっぺの片側に再度収納して、
「――ですって、キチさん。どうでしょう?」
我が頭上に鎮座まします存在に、うかがいの言葉を「ほいっ」と軽く投げなさった。
果たして“それ”に応じた結果なのか、
「あのー、キチさん」
我が顔面がべちゃべちゃに濡れた。
頭の上で弱々と湧くお水が、鼻先やら頬やらをつたって流れ、あご先から滴り落ちる。
「もう少し、こう……、勢いを増していただけると嬉しいのですが」
それとも、あれかな? 顔を洗って出直して来なさい的な、そういう意があるのかしら?
「あだっ」
ぐぎゅっと一瞬、キチさんのつかまる力が強まった。
――次瞬。
ちょろちょろと“しょうべん小僧の像”の“それ”がごとく控えめに、我が眼前を一筋のお水が流れ落ちてゆく。
「おお、ありがとうございます。キチさん」
まずは、ということで。隣に立っていらっしゃる壱さんのお手々を取り、流れ落ちるお水のところまで導く。
こちらが動くと、うっかりお着物とかに水をぶっかけちゃう危険があるので、首は固定し、身体も極力、動かさぬよう務める。
「おーい。にぃちゃん、ねぇちゃん、いつまでイチャイチャしてんだよー」
こちらに背を向け、先の様子をうかがっていた――らしい、“先ほど不意に現れた子ども”が、どこか「やれやれ」といったふうに言葉を投げてきた。
「そろそろ、先に進もうぜ」
と、うながすため、顔だけこちらに向け――
「うおうっ!」
我が現状を目の当たりにして、なんでか“感心/関心”したふうに「ほぇー」と漏らし、
「にぃちゃん、すげえ一発芸、持ってんだなー」
その瞳に好奇心の煌めきをたたえ、歩み寄ってくる。
「いや、う、ううん。ま、まあ」
すげえ一発芸をかましているのはキチさんであり、元を辿れば壱さんなのだけれども。
「手、洗うならどうぞ」
自分でも“なにがどうしてどうなっているのか”よくわかっていないことを、他のヒトに説明するのは困難なので、ここは訂正することなく流させていただく。
「おおー、やっぱ、手を貸して正解だったぜ」
おっかなビックリというかんじで“水源・キチさん”のお水に手を伸ばしつつ、“先ほど不意に現れた子ども”は独り言の口調でポソリとそうこぼした。
うんむ。“手を貸した相手がオモシロ人間だったぜ、ちょっとラッキー”――みたいな意だったら、これ幸いなのだわ。
「ところでさ」
「なんだ、にぃちゃん」
「先へ進むまえに」
「うん?」
「自己紹介を済ませておかない? お互いに」