転/第八十三話:(タイトル未定)
歓喜と哀しみの波間をすり抜け、室外へ出た。
深呼吸ひとつ、なんとも述べがたい解放感を、新鮮な空気とあわせて味わう。
そして、背後を振り返らぬよう努めつつ、
「んー」
通りの向こうに意をやって、壱さんのお姿を探す。
「まだ終わってない、か」
求めるお姿は、“人混み/賑わい”の中に発見できなかった。
そのお姿を探すにあたって、“見間違え/見逃し”をしない根拠のない自信を有すオレである。現時点でお姿が見当たらないということは、まだ勝負中なのだろう――と思う。
というか――
「退散するの早すぎましたかね、やっぱり」
同意を求めて己が手の内に視線をやるも、キチさんは自分の役目は終わりましたと体現するがごとく甲羅に頭、手足、しっぽを引っ込めていた。
個人的には“ほどよく勝負”をして出てきたつもりなのだが、長居したくないでござるという本心が、時の感覚を急かしていたようだ。
ちなみに“ほどよく勝負”の結果は、一勝二敗。
最初の勝負は、開幕転瞬、キチさんがものすごい勢いでゴールへ直進してくれたおかげで、「あっ」と言う間ならぬ、「えっ?」と言う間に決着した。オレのひとり勝ち――ではなく、オレと飴菓子屋の主人たるお喋りなおっさんの、ふたり勝ちで。
他のカメたちが周囲を確認したり、あっちへトコトコ、こっちへノソノソとまごついているなか、キチさんの迷いない足取りはじつに圧倒的だった。
それはもう、場が静まり返るほどに。
あとの二回は、キチさんではなく、初戦でもっとも自由な動きをしていたカメさんたちに少ない金額を託した。
うっかり連勝でもしようものなら、お金より“大切/大事/重要”なモノを失くすことになるぜ。気をつけな。――と、我が生存本能さんがそっとささやきかけてきたからだ。
それに逆らってまでお金を得ようとは、そもそも考えてい。なので、あとの二回は、生存戦略的な“勝ち/価値”のある“負け”を“選んだ/取った”。
ただ、最初の勝ちの“返し”が大きかったので、二敗はしたけれども、所持金がマイナスになることはなかった。むしろ、所持金は最初より増々である。
まあ、“この世界”の金銭価値が正しくわかっていないので、いったい“どれくらいのモノ”が増えたのか、いまいち“実感/把握”できていないのだけれども。
――まま、それはそれとして。
これから、どうしようかしら。
壱さんが勝負を終わらせてお姿を現すまで待つか、「戦況はどうですか?」と様子をうかがいに行くか。……ただ、ウソ偽りのない正直な“気持ち/心情/心境”としては、もう“勝負の場”には足を踏み入れたくなかったりするのだが――
「なんだろう、美味しそうな匂いがする」
緊張がほぐれてきたからだろうか。解放感とあわせて味わった新鮮な空気の中に、“解放のスパイス”とは異なる“旨味成分/美味い匂い”が含まれていることに気がついた。それは、“気持ち/気分/心”ではなく、こう、“腹の虫/胃腸/食欲”に直接、熱烈なお触りをかましてきおるヤツで――おおうふ。“意識/認識”した瞬間から、口内に唾液が満ち満ちてゆく。
ゴクリとひとつ唾液をのみ込んでから、“腹の虫”が「あれだ! あそこだ!」と訴えかけてくるほうへ意を向けてみる。
「おお!」
そうか、これは“プタ”の匂いだったか。――てか、そういえば、“勝負の場”へ行く途中、立ち食いそば屋っぽいお店があったっけ。
意を向けた先には、店先で丼を片手に立ち食いをしているヒトたちの姿があった。
そのヒトたちは皆、麺の料理を口にしており、“それ”は見紛うことなき“そば”――っぽい“プタ”であった。
匂いに誘われ、そのお店の前まで移動する。
近づくにつれ濃密になっていった匂いは、店先に着くと熱い抱擁がごとき濃ゆさで我が身を包んできた。
それに応じるがごとく、“腹の虫”が「グルルゥ」と大声で鳴いた。
お店の前には、メニューが書かれてあると思われる看板が設置されてあった。けれども、例によって、この世界の文字が読めないオレである。具体的に“なに”があるのか、看板を見た限りではさっぱりわからない。
――が、看板から周囲に視線を移せば、そこには“書かれてある品”を実際に食しているヒトたちがいらっしゃる。なので、周囲のヒトたち――の手にある丼の中身へ、チラチラと視線を投げて探ってみる。
そうして見た限りだと、
「ほほう、なるほど、なるほど」
どれも“プタ”ではあるようで。どうやら、違いはトッピングだけのようだ。
シンプルなトッピングなしに、天ぷらや油揚げっぽい揚げ物が添えられてあるモノ、焼き肉っぽい厚めのお肉がドカンッガツンッと盛られてあるモノから、納豆やオクラっぽいネバネバしたモノが盛られてあるのもあった。
個人的には、お汁が染み染みになった油揚げっぽいモノを味わってみたいところ。いや、でも、お肉が盛り盛りなのも捨てがたい。ともすれば、ネバネバ系を「ズズズ」っとお汁ごとすするのもアリかもわからない……うーむ。
「……って! いやいや」
なに食べる気になっているんだ、オレは。
そもそも、お金もな――くはないけれども。むしろ、けっこう持っているけれども。これは一時的に預かっているお金であって、自分のじゃあない。預けられたときより増えていようとも、それは関係ない。これは壱さんのお金だ。
これでちょろまかしたりしたら、仮に壱さんが“寛容/寛大”な鉄拳制裁で済ませてくれたとしても、自己嫌悪で夢見が悪くなって、目覚めが悪くなる。
でも、これ、三回勝負して二敗じゃあなく、四回勝負して三敗したことにすぅ――ぅうう! いかん! オレの中の“常識/良心/天使”が、“腹の虫/食欲/悪魔”の誘惑にちょろりとなびきかけてるぅ!
美味しそう! じゃないっ、マズイ! これはマズくてヤバイ状況だ。
ここは! ここは妄想力を全力全開で発揮して“食べた気分”を味わい、己が“欲求/食欲/悪魔”を“騙そう/欺こう/誤魔化そう”。
そうだ、そうしよう。それしかない。
甲羅に引きこもったキチさんを“プタ”の盛られた丼に見立てて左の手で持ち、“妄想のお箸”を右の手に構える。
まずは、お汁の風味を楽しむがごとく、鼻と口から美味しい匂いを吸い込む。ワインのテイスティングっぽく“口内/鼻孔”で転がし、“それ”を堪能。
満を持してから、“妄想のお箸”を“妄想の丼”の中の“プタ”へと伸ばし――
「いやあ、まだ近くにいてよかったですわ」
ちょいちょいと手刀を切って、
「気がついたら、あら? どうして?」
勝手に移動型“環境音/BGM”発音装置が、
「姿が見えませんで――」
我が妄想に割り込んできた。
「ところで、相棒さんを手に、なにをしてらっしゃるんで? 食事処の前で。なにか、えっらい瞑想にふけっているようですが」
「んんんっ、ええっとう……」
やたらと純粋な疑問の眼差しを投げてるく“環境音/BGM”発音装置こと自称・飴菓子屋の主人なおっさんに、どんな言葉を返そうか悩むこと数拍。どうにか、こうにか、ひらめいた言葉を、なにごとにも慎重なヒトの口調で言う。
「なにか、ご用でしょうか?」
「ご用、ってほどお堅い話じゃあないんですよ。ただ、あんさんにはさっき、いい思いをさせてもらいましたからね。その“お返し/お礼”、と言ってはおこがましいですがけれども、“そなん意味合いのモノ”をお渡しさせてほしくて。こうして、あんさんのお背中を追ってきたわけです」
言って、飴菓子屋の主人なおっさんは、フトコロから“なにか”包んであるっぽい質のよさそうな布を取り出し、
「“これ”なんですけれどもね」
と包みをといて、“そなん意味合いのモノ”を差し出してきた。
「……ガラスの珠、ですか?」
そう表現するしかない“透明感あるキレイな球体”が六個、布の上にあった。
「はははっ、これは嬉しい褒め言葉をありがとうございます。苦労が報われますわ」
「んん?」
「これは、ウチで作った試作のアメ玉なんです。そんじょそこらで舐められているようなただのアメ玉じゃあ、ないんですよっ! 中心部分に蒸留酒を仕込んでありましてね――」
アメ玉だったのか、“これ”。
見てくれがキレイ過ぎて、認識が“食べ物”と直結しなかったわ。
でも、そういえば、このおっさん、自称・飴菓子屋の主人だったっけ。
どうやら、ただの“お喋り/自分語り”好きなおっさんじゃあなかったようだ。
「――ところで」
飴菓子屋の主人なおっさんは話題を変えつつ、なにげない動作で包みの布ごとアメ玉をこちらの空いている手に握らせてきて、それから、
「立ち話もなんですし、どうです?」
目の前にある“プタ”のお店を指し示して、
「ここに食事処があるのも、なにかのご縁ということで」
と、食事のお誘いをしてきてくれた。
「ま、立ち食い屋ですから、結局は立ち話なんですけれどもね! はっはっはっ!」
「いやー、あの、食べる気ぃは、あるんですけどね……その、ちょーっと」
「うん? 腹の調子でも悪いんで?」
「いえ、むしろ絶好調です」
「じゃあ……あ、なあるほど。この短い間に、べつの勝負を」
「え?」
「いえいえ、大丈夫です。ええ、あんさんの事情はわかりました。ここは、あたしが持たせてもらいましょう。その代わりと言ってはアレですが、勝負師なあんさんのお話をちょいとメシと一緒につまませてもらいたいなぁと」
「んん? 事情?」
「まあまあ、遠慮なさらず。さっき、えっらい勝たせてもらいましたからね。これぐらい、たいしたことないですよって。さあ、さあ、注文しましょう」
「いや、あの――」