転/第七十五話:(タイトル未定)
壱さんは、先ほどの木造平屋で、“つぼふり”なる勝負をおこなうらしい。けれどもしかし、その場にオレは同席を求められず、許されもせず。壱さんが“それ”をやっている間に、“はしり”という名の勝負を、“キチさんと一緒に”おこなってくるようにおおせつかってしまった。その勝負の場で、オレがとるべき行動のご指示もあわせて。
ちなみに、どのようなご指示かというと――
「“はしり”の場にはいったら、まずは仕切りのヒトに“自分のを使いたい”と申し出てください。そして、最初の一回戦のみ、“相棒に全賭け”と宣言してから、これ見よがしにお金を差し出します。そのとき、宣言とあわせて、刀さんの人生の中で最高の“自信に満ち溢れたお顔”で、“勝負する度胸のあるヒトがいるなら、どうぞ”とその場の全員に言い放っちゃってくださいな。あとは……うん、とりあえず、最初に“それだけ”していただければよいです。それ以降は、損にならない程度に遊んじゃってくださいな。詳しい“遊び方/決まり事”は仕切りのヒトに聞けば教えてくれますから、大丈夫ですよ」
――まあ、このような内容だったわけです。
自分の“動き”はわかるけれども、それがどのような意を持ち、どのような結果を生じさせるのか、いまいちわからなかった。そもそも、“はしり”なる勝負は、具体的にどのようなモノなのだろう?
うーん、よくわからん。
「それに」
よくわからんついでというか、つながりというか、なんというか――
「“これ”も、よくわからないよなぁ」
思わず口から“思考/疑問”をお漏らししちゃいつつ、己が左の掌に視線をやる。そこには、先ほど壱さんから手渡された“細工の施された長方形の木札”が握られてあった。
ちなみに、お持ち帰り用の紙袋は左の腕で抱くように持ち、キチさんには右の掌の上で落ち着いてもらっている。
そんなキチさんの頭部、もしくは我が親指と縦横の幅が同じくらいな、“表と裏の両面に意味ありげな紋様が彫り刻まれ、縁の部分には細長い黄金が継ぎ目がわからぬよう巻き締め付けられてある、じつに手の込んだ細工の施された長方形の木札”。“これ”が、よくわからないのだ。
いや、“よくわからない”ではなく、“これ”に対してこの世界のヒトたちが有す“価値観/共通認識”に、“実感をともなった、それ”を、どうにも懐けない――と述べたほうがよいだろうか。
お寺や神社、ともすればコンビニや露店でも売られているであろう、“お守りの木札”チックなストラップ、もしくはキーホルダー、そんな見てくれと質感の“これ”が、なんと価値のある“お金”だというのだから、驚き――というよりも正直、どう反応したらよいものか困ってしまった。あまりにも、“付加されてある価値”に、現実味というか実感というか共感を懐けなかったのだ。
船着場で、壱さんが数枚の“これ”を見たときの、ギロリ眼光のおっさんの魅入られたような反応からして、なかなか高い価値のある代物のようだが……うーん。
でも、まあ、それを言うたら、日本のお金も――紙幣は難解難儀な細工の施された和紙でしかないし、硬貨も細工の施された金属の塊でしかない、か。ただ、“それ”に対して“こちら/使う側”が皆、共通の価値を“有して/懐いて/認識して”いるから、当たり前のように“それ”と交換するカタチのお買い物という行為ができているけれども。
あるいは、貨幣価値を一切、事前に調べず海外旅行したら、いまのオレがごとくカルチャーショック的なモノを受けたりするかもわからない。まあ、そんなの、無謀無策で危険極まりない冒険が過ぎる行為だろうけど。