転/第七十四話:(タイトル未定)
「それでは、刀さん。最初は、“いまお話したように”お願いしますね。あとは……“私が出てくるまで”、お好きなように遊んじゃってくださいな」
言って、壱さんは杖でちょいちょいと足元を確かめつつ、木造平屋の内部へと迷いない足取りで踏み込んで行ってしまった。
転瞬、窓のない木製の引き戸がすっと静かに閉まる。
まさかの自動ドア、というわけではなく。引き戸の脇で頭を垂れて控えていた小柄なおっさんが、黙したまま静々と閉めたのだ。
余裕ある背中が見えなくなり、ぽつねんと戸の前に残されたのは、オレとカメ――じゃないキチさん、頭の片隅にある新鮮な“壱さんのお話”、それから「はい、“これ”。あ、あと、“これ”もお願いします」と手渡された“細工の施された長方形の木札”とお持ち帰り用の紙袋という……。
転として訪れた、ちょっとした放置プレイ。
糸の断たれた凧がごとく、“自分の存在”がふわりと浮き上がってしまったような“感覚/錯覚”に襲われ、とらわれた。
周囲にある“賑やかさ/熱気/後悔”が急に大音量になって迫り、鼓膜を殴ってきた――ように感じた。この場の空気を“共感/共有/共遊”できぬ異物を排除するように、あるいは非難するように。
足元のほうから、じわりじわりと不安がどうしようもなく這い上がってき――
「ぶべぱっ!」
顔面に、水をぶっかけられた。
「…………」
もはや疑うことなく当然のように、“水源”が鎮座している己が掌の上へ目を向ける。
ぬーんとした半眼と視線が「こんにちは」したので、
「……お気遣いどうも」
いちおう、お礼を述べておく。
内へ内へとネガティブに落ちていた“気/意”が、それたから。水の冷っこさと、不意に“それ”が顔にかかった驚き。「このうっ」という脊髄反射的な意と、“そう意を懐ける相手”という存在。これらを意識した――させてくれた、そのおかげで。
「相棒――はカッコつけすぎかな、やっぱり」
その半眼から正しく意図を読むことは難しいけれども、どうであれ結果的に、救われた。
この、我が掌の上に鎮座する、
「うーむ……」
しばしば口から水を噴いてきおる、いまも相棒と言った瞬間、噴きそうな気配を見せた、
「……うんっ」
カメのようでカメでないらしい不思議な――
「おかげで、少し気が楽になりました」
いまそこにある確かな“存在”に。
「ありがとうございます。キチさん」
己が掌の上のキチさんに、当たり前のように口から音声を発してお礼を述べたりしていたらば。それをチラ見したらしい周囲の――ともすれば怖そうな見てくれの主におっさんらに、なんとも慈善的な優しさある眼差しを贈られてしまった。
「ぐぬ」
おっさんらにそんな眼差しを贈られたからとて、それが“特別な歓び”に変換されることはなく。そもそも、そんな“特別な”域には達していないし、とくに達したいとも思わない。ただただ、不快感にも似た不本意感で、胸の内がもやっとしただけである。
そんなわけで、どうにも居心地がよろしくなくなってきたので、
「行きましょうか、キチさん」
とりあえず、場所を移ることにする。




