転/第七十三話:(タイトル未定)
壱さんが小舟から降りるのに手を貸し終え、これから本当にどうしようかなぁ、どうなるのかなぁと思いつつ振り返ったらば、
「本日の遊興は――」
我が第一歩を出迎えてくれたギロリ眼光のおっさんが、
「どのようなモノをご希望ですか?」
言葉だけは接客してるふうな丁寧さで、言うてきた。“こちら”に向けて。
すみません、ごめんなさい、なんでもないです、うっかり間違えちゃったんです――と、思わず反射的に口から発し、素早く回れ右左をしてダッシュをかましそうになった。口先の言葉だけの丁寧さと、その身と顔面と眼光から漏れ出る“圧”とのギャップというかミスマッチさが、どうにも末恐ろしかったのだ。けれども哀しいかな、水上を生身で駆け抜けるなんて芸当、有していないので、すべては未遂に終わる。
そんな己の無芸さを嘆くオレとは異なり、
「希望、ですか」
壱さんはじつに平常運転な態度で応じ、
「私は“つぼふり”、彼は――“はしり”を、遊ばせてもらおうかなと思っています」
まるでファストフード店で注文を述べるがごときさらっとさで、そう口にした。
「かしこましました」
ギロリ眼光のおっさんは、“こちら”から壱さんのほうへ向き直り、
「つきましては、ご予算のほうは充分でしょうか?」
見てくれに似合わぬ低姿勢で、言う。
「必要でしたら、“貸付”についてご案内させていただきますが」
「ああ」
壱さんは己がフトコロに手を突っ込み、
「いまは、まだ大丈夫です」
取り出した掌の上の“それら”を、おっさんに提示する。
ギロリ眼光のおっさんは一瞬、驚いたふうな顔を浮かべ、
「これは、失礼いたしました」
壱さんの掌の上の“それら”に視線を奪われたまま、頭を下げた。
「ただ、“そのとき”になったら相談することがあるかもわかりませんからね。もし“そのとき”が訪れたら、よろしくお願いします」
言って、壱さんは“それら”をフトコロへとしまう。
すると、ギロリ眼光のおっさんは、ふっと魅了の呪縛から解放されたがごとく、慌てたふうに視線を“それら”から壱さんの首から上のほうへ戻す。
それから、怖さ勘ぐる丁寧な態度のまま、目的の場まで道案内すると申し出てきた。
しかし、壱さんはそれを丁重にお断りし、道順のみを教えてもらうにとどめてくれた。
心配事がひとつ減り、とりあえずの安堵に「ほっ」と胸をなでおろす。これでこのままギロリ眼光のおっさんと行動をご一緒していたらば、我が虫の心臓は過度な緊張状態のせいで、致命的なビートを愉快に奏でていただろう。
「では、行きましょう」
壱さんはお持ち帰り用の紙袋と杖を片方の手腕で抱え、自由なもう片方の手を探るように空で彷徨わせ――その手が、我が手腕に触れると、流れる動作で手をつないできて、
「ね、刀さん」
馬車馬の手綱を引く御者がごとく、うながすようにちょいちょいと引いてきなさった。
「え、んん……はい」
話は耳に入れていたので、ここからの道順はいちおうわかる。
このまま突っ立って待っていても、“好ましい変化”が向こうから訪れてくれる気配は一切、感ぜられなかったので、とりあえずこの場から“進むため/遠ざかるため”の一歩を、務めて小幅で踏み出すことにした。
ただ、ギロリ眼光のおっさんが、これまた丁寧丁重にお見送りをしてくれちゃったので、到着を遅らせるための“姑息で小幅な歩み戦略”は、気づいたときには逃れるための大股な早歩きになってしまっていた。
だって、二度、三度と振り返って見やっても、お見送りの姿勢を崩さないでそこにいるんだもの、ギロリ眼光のおっさんが。背後が気になってしょうがないうえに、言い知れぬ“圧”をヒシヒシと感じてしまい――
望まぬ追い風を受けるヨットがごとく加速してしまった結果、じつに残念なくらいあっさりとすぐに、到着してしまった。
木造平屋建ての、“壱さんの”勝負の場に。