転/第六十九話:(タイトル未定)
縁取られてもまだ開けていると感ぜられた直上の空が、掲げた手の平で隠れた。どうにも、なかなか、深いところまで下りてきてしまったようだ。
それでも充分に明かりはあり、それは背後のほうから届いているようだった。なんでかしらとそちらを見やると、背後の船頭さんがいつの間にやらランプを灯していたらしい。
まま、それはそれとして。それはそうと。
どうしたものかなぁ……。
半ば諦めつつ、そんなふうに思うていたら、
「おぶべっ!」
顔に水をぶっかけられた。それも、まるで水鉄砲の一撃がごとき勢いと鋭さがありおる。
「いきなり、なにをするんですかっ。壱さんっ」
「……ふぇ?」
突然のお戯れに対して当然の抗議を述べたら、なんでか当惑顔で応じられてしまった。
「私は……なにかをしたのですか?」
「ええっ、まさかの無自覚っ!」
「無自覚もなにも……」
「顔に水をかけてきたでしょう、いま」
現在、小舟の上にいるのは壱さんとオレ、そして背後の船頭さんである。あえて述べておくが、自分で自分に水をかけて他者のせいにするなんて、そんな奇天烈な趣向は持ち合わせていない。であるので、普通に考えて、自分を除く二名のどちらかがやらかしおったということになる。けれどもしかし、背後にいる船頭さんが移動もせず、こちらの顔の前方から水をかけるなんて芸当、これまた普通に考えて、できるわけがない。ということは、自分を除く二名の内、さらにもう一名が除外されることになる。そうなって残るは――
「いま、ですか? どのようにして?」
困ったふうでもあり不思議そうでもあるお顔をして、残る一名さんは言うた。
「どのようにって……そりゃあ、小舟のまわりの水を手でくむなりなんなり――んお?」
述べながらお隣の残る一名さん――壱さんを見やり、気がついた。
お口のまわりが、妙にテカテカしてるのだ。油分の多いモノを食べたあとのように。
そうなる理由にひとつ心当たりがあったので、そちらのほうへ視線をやる。
テカテカの源がぎしと詰まった――詰まっていた紙袋は、壱さんの左の手に抱えられていた。そしてその横には歯形のついた“揚げイモ”がひとつ、右の手につままれてある。
これは……、つまるところ――
「壱さんの両手はつまみ喰いに忙しかった――から、水をかけたりはできない?」
それに、右の手も、左の手も、水に濡れた気配が一切かんぜられなかった。
「刀さんに水をかけるなんて、いまはそんなことはしていませんようっ」
壱さんは油分でテカったお口をちょいと尖らせて言い、ぷくっとほっぺを膨らませる。
まあ、壱さんにとってつまみ喰いは、水をかけるお戯れよりかなり重要なことだと承知している。なので、“いまは”、“そんなことは”していないというお言葉は、疑う余地なく“本音/本心”なのだろう。
「でもそれじゃあ――ぶべっ!」
どうして顔に水がかかったのかしら、と自問自答的に呟こうとしたらば、またも勢いよく我が顔面に攻めてきた水に妨害されてしまった。一部の水が鼻の中にまで攻めこんできやがり、鼻の奥のほうがツンとして地味に痛い。
――が、“それ”と相殺できる“価値あるモノ/真実”も“得られた/知れた”。
それにともなって、せねばならぬことがある。
「……壱さん、疑ったりしてすみませんでした」
アレだね。“普通”なんていう“個人のあやふやな基準”で考えた結果が、必ずしも正しいなんて思い込んだら、それで“ヒト/他者”を疑ったりしたら、やっぱりダメよね。
「うん?」
いざ喰わんとしていた“揚げイモ”を唇に触れる距離で急停止させて壱さんは、
「いえいえ」
その体勢を保ったまま口だけを動かして、
「わかっていただけたのなら、なによりです」
とくに責めたりはしてこず、穏やかさある早めの口調でそう言うてくれた。
転瞬、壱さんは唇の先で待機させてあった“揚げイモ”を喰らい、味わい、微笑む。
「それはそうとですね、壱さん」
紙袋から新たに取り出され、すぐさまその身が半分になった“揚げイモ”と、それを半分にしたお口――油分で艷やかな唇に視線を奪われつつ、極々務めて平静に言葉を投げる。
「口から水を噴きおりましたよっ! このカメっ! ぶぺっ!」
やはり、その真実というか現実に、驚きと興奮を抑えきれなかった。
原因は、己が掌の上にいやがったのだっ! それも、一匹のカメという姿でっ!
「またっ! また水をぶぺぺぺっ!」
続けざまに口から噴射された水をもろに喰らうも、
「どういうぶはっ! ぼうぶぶぼぼべぶばはっ」
いまはそれより、これから発せられるであろう壱さんの言葉が待ち遠しかった。
「もぐもぐ、もぐぐぐむぐぐ」
「喰いながら喋らなーいっ!」
壱さんは気さくなふうに応じてくれたけれども、ほっぺがいっぱいに膨れるほどの“揚げイモ”を咀嚼する音と喋りが混じってしまい、なにをおっしゃっているのかさっぱりわからなかった。というか、いまの数拍の間に、まさかほっぺをいっぱいにするほど喰らうとは……“それ”は、お土産じゃあなかったんですかね?
「もぐもぐぐ、もぐぐもぐもぐ……」
しゅんとしたふうにややうつむいて壱さんは、ほっぺいっぱいの“それ”を気持ちを語るようにして処理しなさる。
「いや、壱さんが食べてるときに話しを投げたオレが悪かったですけれどぼぶべっ!」
言い方がよろしくなかったなぁと反省しつつ、べつに怒っているわけじゃないので食べ終わるまで待ちますよ――と述べようとしらたば、またしても顔面に水をぶっかけられた。
「もぐむぐごくん――んっ、うん」
壱さんはのどを鳴らして口内の“それ”をのみ込み、ぺろりと拭うように唇を舐めてから、「コホン」と仕切り直す咳払いをひとつして、
「キチさんと仲良くなれたようですね、刀さん」
なんでだか喜ばしそうに微笑みながら、そうおっしゃった。
「ぶぱぺっ! どこがですかっ?」
もう顔面から胸部のあたりまで、べっちゃべちゃの濡っれ濡れにされとるんですがっ。
「だって刀さん、先ほどから――いまも、キチさんにじゃれつかれているのでしょう?」
壱さんは信じて疑わないヒトの無垢さをかもして、
「なつかれているじゃないですか、とっても」
と、ほがらかに言うてきた。
「ん、んん……そう、なんですかねぇ」
なつかれているというより、嫌われて敵対行動をとられていると考えたほうが、個人的にはしっくりきて素直に受け取れるのだけれども……。いや、そうか、そうだな。顔面に水をちょいちょいぶっかける行為を、当たり前のように“じゃれる”と受け取れる器量のデカさを、オレが持ち合わせていないだけだな。うん。
「というか、この世界のカメは、口から水を噴くものなんですかね?」
壱さんの口ぶりからは、“それ”に関しての“特別さ”を感じ取れなかったのだ。
「まっさかー」
ぷふふっ、と笑うように応じて壱さんは、
「そんなお話、土着の“伝承/伝説/神話”とかでも聞いたことないですよ」
まさかのきっぱりさで、おっしゃった。
「枯れた土地に雨を降らせたとか、致命的な状況から救ってくれたヒトに恩返しをするとか、そういうモノなら少しは、耳にしたことがありますけれどね」
あれ? なにかしら……この、こっちが素っ頓狂なことを述べてしまった的な空気感は。
「でも、このカぶぺらっ――いまっ! いま、やりおりましたよっ! このカぺぶばっ……くそう…………このカぼぶぶっ……このばべはっ――キチさんっ!」
「ふふ、本当に仲がよろしくなりましたね。ちょっと嫉妬しちゃいます」
「果たして本当に、そうでございましょうか」
己が掌の上を、ちらりとうかがってみる。奇しくも、“そいつ”も、ぬぬぬぅと首を伸ばして、どことなく睨んでるっぽい半眼をこちらにくれていた。
おっと目が合った、と思った次の瞬間、“そいつ”ことキチさんの我が掌への爪の喰い込みが一段と強まりおる。
くっ、このうっ……。
「うん?」
ポロリとこぼれた我が言葉は、どうやらよく聞き取れなかったようで。壱さんは疑問符を頭の上に浮かべて小首を傾げてから、
「いま、なにかおっしゃいましたか?」
聴き逃し対策なのか、我が肩にあごを乗せるようにして耳を近寄せ、どこか上機嫌さある声音で確かめる言葉を投げてきなさった。
「いえ、なんでもないです」
我が掌の皮の「ダメ、やめて! もう耐えられないの!」という訴えをひしひしと感じつつ、それを噛み締めるようにして口を動かす。
「それはそうと、ですね、壱さん」
「はい」
「いま、オレの掌の上にいらっしゃる存在だって、この世界のカ――“この世界の”、じゃあないんですか?」
「……あ、ああ、なろほど。そうでしたね。そういえば」
数拍の間を置いてから壱さんは、ひとりなにか得心したふうにポソリと口にしてから、
「キチさんはキチさんであって、キチさんという存在以外のなにものでもないのですよ」
と、真顔で言うてきなさった。
「うん。うん? それはつまりどういう……」
…………え?
まさか、カメじゃないの?