転/第六十六話:(タイトル未定)
壱さんは陸地の終わり、岸の縁でピタリと歩みを止め、
「う~んっ」
と、朝のそれがごとく背筋を伸ばした。
「壱さんっ、気をつけてくださいよ」
気持ちよさげに伸びをしていらっしゃる――が、あと一歩、足を前へ踏み出したら水面へドボンしてしまう立ち位置で“それ”をおこなわれると、見ているこちらは肝をヒヤッとさせられ、“気持ち/気分”はあまりよろしくない。
「大丈夫ですよ。心配性ですね、刀さんは」
壱さんはちょいと口を尖らせて言ってから、
「でも、ありがとうございますね」
にへっと笑みをこぼす。
その表情は、なんというか、なんともなんかズルイと思う。
次に壱さんは杖の石突きで水面をちょんと確かめるふうに突っつくと、その場で身をかがめた。そして、今度は自らの手で水面に触れる。パチャパチャと二回、三回、感触を確かめるふうに水面をかいてから、
「さて」
言葉と共に身を起こし、それからなぜか杖を水面ほうへ差し出して、
「ほい」
流れる動作で、つかんでいたその手を放した。
杖は石突きのほうからすすぅと水面にのまれ、微かな波紋を残して、静かに姿を消す。
「ええっ! 壱さんっ、なにやってるんですかっ?」
いきなりのおこないに驚くこちらとは裏腹に、当人はいたって冷静――でもなかった。
転じて壱さんは両ももを両の手でそれぞれ激しく打ち鳴らし、次いでタップダンスがごとき脚さばきで地べたを叩き鳴らす。
中盤からは、空を斬るような手腕の複雑な動きが増え――
「てえええぇいっ!」
最後、天に掲げた両の手、そのそれぞれの親指と中指でもって打ち鳴らされた音がパチンッとひとつになって弾け――周囲へ解け込むように消えていった。
壱さんは踊ることで表現をし尽くしたヒトがごとき清々しさある“やり切った感”を、その背中からかもし出す。
ここが舞台の上であったなら、その背中には拍手喝采が贈られていただろう。でも、現在位置は表現の場ではない。首都の城下町というヒトの往来が多い場の公衆の面前であり、さらに細かく述べれば、運河の水際である。実際には、うん? なんだ? なにをしているんだ? という“確認/好奇心”の視線が多々、チラッと投げられたのみ。それ以上も、それ以下もない。人々は現在進行形の己がおこないを最優先に、過ぎ去ってゆく。
まま、それはそれとして。
「ちょっくら、もぐってきますね」
「……もぐる? もしかして“ここ/運河”に、ですか? 刀さん」
壱さんは左の手で髪をちょいと直しつつ、確認してきなさった。右の手は、なんでか水面の上に差し出すカタチになってある。
「はい、“ここ/運河”にですよ。壱さん」
「あらっ、刀さんがそんなにも水遊びがお好きだったとはっ。水があったら、とにもかくにも場を選ばず、もぐらずにはいられないほどにお好きだったとはっ。……ふふ、なんだか小さい子みたいで可愛い」
「違いますよっ! そんな優しく微笑まないでくださいよ」
「…………えっ?」
壱さんは心の底から驚いたというふうな表情を浮かべ、
「では、そのう……なぜ刀さんは、もぐりたくなっちゃったのですか?」
個人の繊細な事情をうかがうヒトの慎重さある口調で、そんな言葉を投げてきた。
「なぜって、それは……水面に落っこちた“壱さんの杖”を回収しようと――」
「私の杖なら、いま私の手にありますよう?」
「なにを――え、あれ?」
なにをおっしゃっているのかよくわかりません――と言おうとして、けれどその言葉はのどの奥に引っ込んだ。
いま“そこ”にある事実が、しれっと“壱さんの正しさ”を証明していたのだ。
差し出されてあった右の手が、つかんでいた。
水に濡れた気配が一切、見受けられない、杖を。
「どういう……」
わけがわからなかった。
この極短時間でとっ散らかった脳内の整理と情報収集のため、とりあえず上から下まで杖を注意深く観察――したところで、
「おおうっ」
不意に“そいつ”と、目と目が「こんにちは」した。
「…………カメ?」
杖の石突きの真下、一匹のカメが顔をのぞかせていた。位置関係的に、甲羅で杖を持ち上げて支えているように見える。
「よっ――」
こちらの驚きと混乱なぞ我関せずといったのほほんさで壱さんは、その場にかがみ、
「――こい」
掌を上にするカタチで水面に左の手をつけた。
すると“そいつ”がすすぃ~と軽く泳いでその手に接近、そのまま進んで掌に乗っかる。
「せっ――」
壱さんはこちらへ身を向けつつ、立ち上がり、
「――と。ご紹介しますねっ!」
掌の上におる“そいつ”を胸の前に掲げ、言うた。
「キチさんですっ!」