転/第五十九話:(タイトル未定)
見上げた空は――
雲ひとつなく晴れやかだった。
部屋の空気を入れ替えるために開いた窓から見えた、空の表情である。気温も暑からず寒からずで、じつに心地好い。きっと快適な一日が過ごせるだろう。
時刻は、昼の少し前といったところ。といって、窓の外に広がる空、そこにある日の位置から時を推測したわけではなく。あるおヒトの腹時計が、時報がごとくお知らせしてくれているのだ。そろそろ昼食時が近いっ! と。ちなみに朝食は道中で済ませてある。
「とりあえず私は、昼食をいただきに行こうと思うのですが」
時報な腹時計さんが、パチンと柏手をひとつ打ち鳴らしてから、
「おふたりはどうします?」
オレではなく、同じく室内にいるふたり――ツミさんとバツに、
「昼食はご一緒してから別行動にしますか? それとも、ここから?」
と、うかがう言葉をふわりと投げた。
それを受けて、ふたりはお互いの顔を見やってから、
「そうね――」
ツミさんが、意を述べた。ここから別行動、と。
「そうですか。わかりました」
時報な腹時計――壱さんは、とくに気にしたふうはなく。
「夕方頃には、いちおう“ここ”に戻るということで。よいですか?」
「ええ、いいわ」
ツミさんは首肯して応じ、
「それじゃあ」
と片手を上げて言い、バツと一緒に部屋から出てゆく。
そんなポニーテイルとツインテイルあるそれぞれの背中に、
「いってらっしゃい」
「お気をつけて」
オレと壱さんはそれぞれ言葉を投げ、送り出した。
昼食を一緒しないほどに仲が悪くなった――とか、そういうことでは、当然なく。現在位置が、ツミさんとバツの――ついでに言えばオレの、とりあえずの目的地なのだ。いままで歩き回っていた王国、その中央首都にして、ツミさんとバツのご両親が昔、住んでいたところ。そして、個人的には是非ともお会いしたい、ツミさんとバツの家宝的な“日本刀がごとき調理包丁”に“其は流動する刻のなかで、あるがままに”という日本語を刻印した、オレと同じ境遇にあるかもしれないヒトがいる――かもしれないところ。
ま、つまり、それぞれ異なる目的があるのだから、それぞれで行動したほうがよいだろうというわけである。朝食のとき壱さんが思いついたふうに提案し、そうしましょうかとなっていたのだ。
――そして。
部屋にはいま、壱さんとオレのふたりのみ。木造の室内には、ふたり用のベッドがふたつと、丸テーブルと椅子が、かなりギチギチに設置されてあり、正直なところ空間はあまり広くなく――はっきり言ってしまえば、狭かった。しかし、だというのに、人口密度がふたり分、いまのさっきで減っただけで、奇妙な広さを感じてしまうのは、なんでだろう?
「距離が近い分、個々の存在をより強く“意識/認識”するからだと思いますよ。遠くの“誰か”さんより、近くの“あなた”さん――みたいな?」
壱さんはそう言って「ふふっ」と微笑み、
「どーです?」
ズズイッと身を寄せてきて、
「とぉーさん?」
肩を軽く叩くように自らのおでこでぽむぽむと、我が胸元をノックしてきた。
「うぐっ……えっと」
状況的に、ちょいと理解が追いつかず。なので、
「なにが、“どーです?”なのでしょふううううっ!」
我が鼻先をひょこりひょこりくすぐりかすめる“つむじ”を狙い、吐息増々で“確かめる言葉”を投げてみた。
「――っ!」
壱さんは左の手を自らの“つむじ”にやってなでなでしつつ、
「もうっ……」
困ったふうに眉をハの字にして、口をすぼめ、
「私の存在感ですよう」
と、もにょもにょ言うてきなさった。
「距離とか関係なくすっごく大きいですけどね、壱さんの存在。オレにとっては」
一切のウソ偽りなく、“いま、感じていること”を述べた。
「……っ!」
時間差を一拍、置いてから、壱さんは一度ビクッと身を震わせた。それから、驚いているようでもあり、戸惑っているようでもある、わちゃわちゃと変化豊かで愉快な表情を浮かべ――最終的に、ほっぺがほんのり朱色なエヘン顔になって、
「まっ、とーぜんのことではありますけれどねへっ!」
ちょいとうわずった音声で、そう言い放った。
変化したのは壱さんの表情だけであり、位置関係はそのままなので、耳よりも“胸部/肺”でその音声の“響き/振動”を感じた。お祭りなどのイベントでもちいられる高出力のスピーカー、そのすぐ前にふと立ってしまったときの“それ”と似ているなぁ――なんて、思ったりしつつ、
「そですね」
務めて平静に返す。
べつにデカすぎる音声に気圧されたわけではなく。お隣などから怒られるのが怖いわけでもない。“存在”を現在進行形で文字通りに“痛感”しており、奥歯を食い縛ってそれに耐えていたりするので、どうにもリアクションがしづらいのだ。
不意と身を寄せてきたと思うたら同時、静かに的確に我が足を踏んできおって……しかも、ぐりゅっ! と思いっクソ重心の乗った踵で。杭を打ち込むがごとく。面ではなく、点で。
骨を折るどころか肉ごと潰さんばかりの“そんなこと”をやられたら、“存在”を“意識/認識”しないわけがない。
反射的に突き放そうとしてしまった己が防衛本能を、お尻をキュッと引き締めて制したのは、よい思い出である。……ほんの数拍前の出来事だけれども。
そんなことしてないで指摘すればよいじゃないかという意は、我が脳内会議においても当たり前のように出てきたけれども、それは即抹消された。
だってわざわざ向こうから身を寄せてきてくれたのに、それをなしにするなんて。そんなもったいな――いや、愚か、いやいや、失礼な、そう、失礼なこと、品行方正、礼儀正しくありたいと常々懐いているオレが、できるわけないじゃあないですくわぁっ!
――と、全心全霊で思うていても、精神力だけで鋼の肉体が得られるわけもなく。そろそろ、耐えるのも限界。胸の内は惜しむ気持ちでいっぱいだが、我が足は最初からイッパイイッパイであり、もうイッてしまいそうっ……なので、こっ恥ずいから身を離してほしいのです――とでも述べて、離れてもらおう。いちおう、足の無事も確認したいし……。
「そんなことよりっ」
果たして、これも以心伝心というやつなのだろうか。
こちらが口を開くまえに、壱さんは言葉を発しつつパッと身を離してくれた。
ただ、その“パッ”のためには勢いが必要だったようで。壱さんは極々自然に、重心が乗っているそのお御足で踏ん張りを利かせおった。
瞬間、我が鼻の穴が「ふぬんっ!」とおっぴろがった。
それは本当に一瞬の出来事だったが、一瞬でも”壱さんのすべて/全体重”が下方への勢いを有して一点集中したことは……あれ? どうしてだろう、目尻にじんわりと水分が滲んできたよ……。
「そんなことより、昼食ですよっ! 昼食っ!」
壱さんは急にわたわたと忙しなく、紫が主色の民族衣装っぽい着物の襟を正したり、肩口でテキトウに切られてある己が黒髪をなでつけたりしながら、
「早く行きましょっ、昼食。ね、刀さん」
急かすように、ちょいとツバを飛散させつつ言うてきた。いまのさっきだからなのか、それとも食のことを意識して頭に血が上ったのか、ほっぺにはほんのり朱色の彩りが施されてある。そしてそんなほっぺあるお顔には、湧き上がる食欲と胃腸の動きを制御するのに苦労があるのか、うにゅんと弱ったふうな眉で角度の浅いハの字が描かれてあった。
開いた窓から射し込む光に淡く縁取られてのその仕草とお姿は、光の偶然の演出もあってか、それともあるいは元からか、なんとも愛嬌に富んでいた。
……ハッ、いかんいかん。危うく鑑賞タイムへ移行するところだったわ。
「そうですね。行きましょうか」
身寄せラッキー、足踏み不幸――からの幸いなことに、我が足がイッてしまったという事実はなく、目尻が妙にしっとり潤ったという事実が残った。やったねっ! この潤いが、歳を重ねて気になってくる目尻のシワを予防してくれる――かもねっ!
……じつのところ、じみぃ~に鈍痛が残留していたりするのだが……まあ、これは、昼を食べ終わる頃には忘れているだろう。
「ではっ」
我が返答を耳にするや、壱さんは待つことを知らぬ江戸っ子なネコのように行動を始めた。徒競走開始の合図がごとく――パチンと柏手をひとつ打ち鳴らし、耳を凝らしているふうな一拍の間を置いてから、すり足のような足運びでスササと迷いなく移動。ほどなく腹の位置に構えてあった探るための手が、出入口の縁を捉える。軽くなでるような“なにげない手の所作”で、部屋と廊下の間に妨げになるモノがないと改めて認識――するや、こちらに意を向けるそぶりもなく、そそくさと出て行ってしまう。
「あ、ちょっと待ってくださいよ」
踏まれてややイキかけた足に少しばかり気を遣いつつ、速やかに壱さんの背を追って廊下へ出る。そして、流れる動作で、換気のために開けてあった扉を後ろ手に閉めようとし、
「おおうっ、と」
廊下の壁面に手をそわせてちゃっちゃと進み行く壱さんの背中が見えたところで、
「そういえば」
と、忘れ物があることに気がついた。
部屋に戻って“それ”を取り、再び廊下に出る――けれども、そこに、忘れ物の持ち主たる壱さんの背はなかった。どうやら、すでに階段を降りて一階へ行ってしまったようだ。
――なんて。
先に行ってしまったと思わせて、じつは我が背後に――という不可思議なことは、壱さんならしれっとやってのけそうだけれども、まあ、起こることはなく。わりと傾斜のキツイ階段を降りるとそこに、立ち話をしているお姿を発見した。
会話の相手は、“ここ”の――宿屋のヒトだった。受付のカウンター越しに、なにやら気さくなかんじにお話している。
なんでだかほのかに漂ってあるお香の匂いを鼻の内に意識しつつ、そちらへ近づく。
――と、ちょうど会話が終わったようなので、
「壱さん」
ポンと肩を軽く叩くふうなノリで声をかけてから、
「はい、これ、部屋に忘れてましたよ」
空いている手で、壱さんの片方のお手を拝借。無抵抗に開かれてあるむにっとして温いその掌に、“それ”を確実に置き、渡す。
「あら、これはうっかり」
壱さんは両の手で包み込むように、まだ“それ”を握っている我が手ごと受け取り、
「私としたことが、まさか刀さんを忘れてしまうなんてっ」
お手々に力を込めて我が手をぎうとし、そんなことを言うた。
「おっとう……」
「なんてね、じょーだんです」
壱さんはイタズラ小僧のようであり照れているようでもある笑みを「へへっ」とこぼし、
「刀さんのことは常に意識していますもの、忘れるわけがありません――よっ」
言うや、鮮やかな動きで我が手から“それ”――杖を抜き取った。そして迷いなく、あらかじめそうすると決めていたがごとく、手にした杖で“前方/足元付近の空間”の“形状/状況”をしっかり確かめつつも超高速で歩を進め、あっという間に宿屋から出て行って――しまうかと思うたら、出入口のちょうど境目でピタリと立ち止まった。
杖を持っていないほうの手がある半身を“こちら/室内”に向け、空いている手をぬっと突き出し、その手をにぎにぎする。
まるでアメちゃんをよこせと述べるのごとく、それは“なにか”を求める“にぎにぎ”に感ぜられたが、残念ながら現在オレはアメちゃんを所持しておらず。なので代わりと言ってはアレだが、我が手を献上してみる。もちろん、アメの代わりとしてぺろぺろ舐められたり、しゃぶられたりする覚悟は準備万端、いつでもウェルカムですっ!
――が、まあ、我が手、指が、アメの代わりになることはなく。
実際には、昼食までの道案内という役をおおせつかった。
さっき宿屋のヒトに聞いたという“道順/指針になる特徴的なモノなどに関する情報”を教えてもらい、とりあえず“それ”を頼りに、昼食へ向かうことにする。日の光に照らされているからか、それとも素早く身体を動かしたからなのか、はたまた食への意がよりいっそう強まったからなのか、あるいはお腹が「美味しいモノ食べたいっ!」と元気盛大に鳴って自己主張したからなのか、ほっぺのみならず耳もおデコも赤い、なぜだかうつむいてらっしゃる壱さんの、どうしてだか温いから熱いに変温したその手と、申し訳なくも汗ばんじゃってる我が手を、つないで。