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〈小休止〉:井の中の――

〈小休止〉:井の中の――



「――さ……ん……さっ…………んっ!」

 高所から落下するがごとき形容し難い奇妙な浮遊感が突然、襲ってきて――直後、

「はうぁっ!」

 現実に引き戻された。……たぶん。

「あ、気がつきました……か?」

 という耳馴染みある声のしたほうに意識を向けてみると、和服っぽい“あちらの民族衣装”に包まれた胸部という丘の向こう側に、ほんの少しだけ気弱そうに眉尻を下げた表情があった。後頭部には、なんとも心地好い温もりと柔らかさを感じる。どうやら私は、どういうわけだか、膝枕をしていただいているようだ。

「はい……いまいち状況がわかっていませんけれど」

 返答しつつ、これが本当に現実である確かな実感を求めて、まだちょっとシュンとしているふうなお顔のほっぺに手をやる。すべすべもちもちな大福がごときお肌の触感と体温が、当たり前のように伝わってきた。

「これは夢じゃあない――ですよね」

「……それが」

 大福お肌さんはほっぺにある私の手に自分の手をふわりと重ねて、

「私の頬をつねる理由ですか?」

 安堵とあきれの混在するふうな溜め息をひとつ、ささやかに吐く。そのお顔には、“微か”なうえに、“苦い”ほうのとは思われるが、“笑み”が戻ってきてくれていた。

「いまさっきまでの夢――というか、ただ昔を思い出していただけだったんですけれど、その中では、“こっち”を夢の出来事だと当然のように思っていたので……その、なんというか、ちょっと混乱してしまいまして」

「普通は、“ご自身の”をもちいると思いますよ?」

 たしなめるように言って、大福お肌さんはその大福ほっぺをぷくっと膨らませる。――が、すぐにそれはしぼんでしまう。そして、またも眉尻をほんの少し下げたお顔になって、

「……まあ、それはよいです」

 私の手に重ねたその手にちょいとだけ力を込めて柔らかく握り、

「でも、いらぬ心労を与えるのは、これっきりにしてくださいね。……私だって、もう若くはないのです」

 心をちょんと突っつくようなたおやかさある声色で、訴えてきなさる。

「今日が夫の命日になってしまうのではないかと、ヒヤヒヤしたんですからねっ」

 なんでか最後は、ぷりぷりと怒るふうになっていたが。

「ははは……それは申し訳ない」

 こっちも、まさか人生の相方さんに、長くないであろう寿命に終止符を打たれてしまったかとヒヤヒヤしましたけれどねっ。……うん。由緒正しき“夢と現の確認方法”をおこなっている間に、まるで体温が掌に伝わってくるがごとくじんわりと、なぜこうなったのかを思い出しました。

 不意に望まれぬドジっ娘に覚醒してしまった“誰か”さんがずっこけて、そのとき手に持っていた湯のみで私の額をごっつんし、加えてずっこけの勢いにのった全身で衝突してきなさったのだ。正座をしていた私は、正面からのそれに抗えず上体後倒しになって後頭部を床に強打してしまい――結果、夢というカタチで、まるで“走馬灯/回り灯籠”のごとく昔を思い出すことになった。

 じつはとても危なかったような気がしないこともないような気がする――が、まま、それは過ぎたこととして。いまは、ずっこけタックルのことをそれとなく注意するよりも、

「“あのとき”も、いまと同じようなやりとりをしましたよね」

 不意打ちな“走馬灯/回り灯籠”のおかげで急激に鮮度を回復した“懐かしさ”を一緒に味わいたい、という気持ちのほうが勝っていた。

「……ああ」

 記憶を検索するふうな間をほんの一瞬だけ置いてから、

「そういえば、そのようなこともありましたね」

 相方さんはほがらかさある柔和な表情をして、わかってくれる。――が、しかし、

「あれは……そう、私のせいで落ちてしまったときでした」

 どうやら“思い込み”も合わせて思い出してしまったらしく、転じてお顔に影が差す。

「いや、べつに“せい”じゃありませんでしたけどね」

 そう、それは、まったくの“思い込み”でしかない。むしろアレは、私の不注意が原因だ。しかしそれを言うと、「いえ私が――」という押し問答が延々と続いてしまうので――“あのとき”そうなってしまったので、ここではあえて訂正の言葉はのどの奥へ押し戻しておこう。それに、

「まあ、でも、“その”一緒に落ちちゃったときのことです」

 相方さんの“思い込み”も含めて、“あのとき”の“正しい記憶”だったりもする。

 そして、“あのとき”も私を夢から現実に引き戻してくれたのは――


「――さ……ん……さっ…………んっ!」


 どこか遠くから、

「……う……さ……とう……ん……」

 最近ほぼ常に耳にしているお声に、

「刀さんっ!」

 呼ばれた気がした――直後、お股の間のもうひとりのオレが「ひゃぅっ」と乙女チックな悲鳴を上げてキュンと縮み上がっちゃう、極めてイヤな浮遊感に襲われ、

「はうぁっ!」

 不快感ある動悸をともなって、現実に引き戻された。……たぶん。

「あ、気がつきました……か? 刀さん?」

 安堵と不安の混在するお声が、その吐息と一緒に我が耳をくすぐってきた。むずむず感と闘いつつ、なにぞと“そちら/音源”のほうに意識を向ける。我が頭部のすぐ横、こちらの肩にちょいとのせるようにして、ほんの少しだけ気弱そうに眉尻を下げた壱さんのお顔があった。背中には、なんとも心地好い温もりと柔らかさを感じる。どうやらオレは、どういうわけだか、壱さんに背後から上体を抱き支えられているようだ。

「はい……いまいち、いまの状況がわかっていませんけれど」

 返答しつつ、これが本当に現実である確かな実感を求めて、まだちょっとシュンとしているふうな壱さんのほっぺに手をやる。泥で汚れているふうなヌメリとザラつきの向こう側から、もちもちなお肌の触感と、心休まるほんわか体温が、じんわりと伝わってきた。

「これは夢じゃあない――ですよね」

 地に足を固定してくれるようなさらなる保証が欲しくて、あえて訊ねた。

 壱さんはほっぺにある我が手に自らの手をふわりと重ねて、

「……それが」

 ぎうと柔らかくこちらを抱くもう片方の手腕の力を強め、

「私の頬をつねる理由ですか?」

 なにか抗議するがごとく、ほっぺをぷくっと膨らませて、自らの側頭部で我が側頭部をグリグリねじり込むように攻めてきおる。

「え、いや、あの、その、やたら現実味と既視感のある夢だったもので……その、どうにも、混乱してしまいまして……ははは」

 と言いつつ、じつのところ、ほっぺをつねっちゃったことに夢は関係ない。ただ単に、壱さんのほっぺの触り心地が素晴らしすぎて、ついうっかりお手々がやんちゃしてしまっただけである。夢を見たのは事実だし、その現実味と既視感に混乱してしまった――しているのも、ウソ偽りない本当のことではあるが。

「……よかったです」

 壱さんは我が手に重ねたその手に少し力を込めて握り、

「刀さんが無事で本当に、よかった」

 いままで耳にしたことのない消え入る音声でそんなことを言い、転じて、

「私のせいで“こんなこと”になってしまって、申し訳ありません」

 冗談ぽさのカケラもない真摯な態度で、なんぞ詫びてきなさる。

 なにゆえ壱さんが詫びてきたのか、その意を察せられず。夢のそれとあいまって、混乱している脳内がよりいっそうとっ散らかってしまった。“こんなこと”というのは、いまの状況から判断するに、我が上体を抱き支えていることだろうか? だとしたらば――いや、だとしなくともオレは、この状況に「ありがとうございますっ」と御礼申し上げたい所存なのだが。

「あのー」

 申し訳ありませんと言われて、ありがとうございますっと返すのはどう考えても変なので、ここは壱さんとの間にあるっぽい認識のズレを解消するため、事の次第を確認させていただく。

「オレは、なにか謝られるようなことをしたんでしょうか?」

「“した”のは刀さんではなく、私です」

 一拍の間すら置くことなく、壱さんはキッパリとした口調で言葉を返してくれた。

 それを耳にしてすぐに、“確認するための言葉”の選択を誤ったなと悟った。けれどもしかし、一度でも相手に届いてしまった言葉を、残らず“取り消したり/訂正したり”することは、なかなかどうして困難で。

 そうこう思考する隙もなく、言葉が継がれる。

「刀さんは、私のとばっちりを受けて落ちてしまったのです」

「…………おちた?」

「はい……たぶん、状況的に枯れ井戸だと思います」

 うなだれるようにして、壱さんは我が肩にお顔をうずめる。そんな壱さんの呼吸に合わせて、肩の一部が湿り気ある生温かさと冷っこさを交互に感じる。

「枯れ井戸、ですか……」

 言われて初めて、オレは周囲に意識を向けてみた。

 ――空間が、迫ってくるがごとく狭かった。瞬間、そう感じた。

 個性豊かな形状の石を絶妙なバランスで積み上げて作られた背の高い壁が、ぐるりと円を描いてこちらを包囲していたのだ。直上には円形に切り抜かれた黄昏色の空が遠くあり、微かな光源となっている。

 水の気配はなく。お尻の下には、風で運ばれてきたのか、枯れ葉や枯れ枝などの自然のゴミが蓄積していた。森林などのそれとは異なり、あまり土っぽさがない、腐葉土っぽくなっていない――ように思う。

 壱さんは石積みの壁を背にして地べたに腰を下ろしており、上体を抱き支えられているオレは、けれどもかろうじて脚を伸ばしていられた。最初は驚きもあって圧迫感を感じたが、少し冷静になって改めて認識してみると、ひっ迫して狭いわけではないようだと知る。

 というか、どうやら本当に、ここは枯れ井戸の中のようだ。

「間近にある壱さんのお顔にごっそり意識を奪われていたもので……ははは、さっぱり気づきませんでした」

 髪の長い女性が奇怪に喉を鳴らしつつ井戸の中から「こんにちは」しおるホラー映画に恐怖した自分が、まさか井戸の中から「こんにちは」する側になろうとはね。まったくもって、おもしろいのだわ。

「……本当に」

 我が肩から顔を上げたと思うたら、壱さんはいまだシュンとしている表情でなにぞ言わんとしてきなさったので、

「申しわうぎゅぅふ――」

 なんとなく片手でわしづかむがごとく両のほっぺをプッシュして、発言しようとする口のカタチをタコのそれに変えてみた。

 壱さんは困惑したふうに眉をハの字にして、「もにょもにょ」とすぼまったお口を動かしなさる。なにを述べているのかこれっぽっちもわからないが、たぶん抗議しているのだろう。――が、ここでやめると、またシュンとした表情を浮かべおりそうなので、もうしばらくやめてあげない。

 閑話休題――いや、ちょっと違うかな?

 まま、現在位置が枯れ井戸の中だということはよくよくわかった。

 けれども、いまこうなっている理由というか経緯の憶えが、どうにもいまいちふわっとしている。んーむ……ここは、“現実感と既視感ある夢”で混乱した気持ちを整えるついでに、少しまえの出来事から回想することで記憶を整理するとしよう。


 虫が意外と美味しくいただけると教えてもらってから、夜空を三回ほど拝んだ翌日――

 それまでは特記することがないほど順調な道のりだったのだが、ここに至って不測の事態に遭ってしまった。

 道が、二叉に分かれていたのだ。

 まあ、道が分岐すること自体は、とくにこれといって驚くことではない。壱さんとツミさんが、ロエさんの村で得た事前情報と異なっていなければ。

 事前情報では、次の宿場町まで一本道のはずだった――らしい。

 けれども、壱さんとツミさんは分岐していることを認識しても、

「あらまあ」

「おやまあ」

 と、じつに軽いリアクションをしていらした。

 いざとなったらケータイで調べればよいという“これまで”のクセのせいか、こうなるまで道順をあらかじめ調べておく必要性を意識せず、壱さんとツミさんに情報収集という重要なお仕事を丸投げしていたオレが、まったくもって言えることではないが、落ち着きすぎじゃあなかろうか。

「焦っても、事態が好転するわけではありませんからね」

 壱さんは整理整頓のなされたじつにさっぱりとした表情を浮かべて言い、「それに――」と言葉を継ぐ。

「道を外れて迷ってしまうよりは、よほど良心的な状況ですよ」

「そう……なんですか?」

 どちらも嬉しくないことだということだけは、よくわかるのですが。

「そうですよ」

 壱さんは、じつに軽いノリの首肯を返してくれた。それから組んだ両の手を頭上に挙げて「んんー」と背筋を伸ばし、「さてっ」と仕切り直すようにおっしゃる。

「とりあえず、お茶にしましょうか」

 ――そんなわけで。

 望まれぬサプライズから、雑木林の中でのティータイムとあいなった。

 道のど真ん中でおっぴろげるのはさすがにアレなので、リアカーとそろって道の脇に移動。その場に腰を下ろす。

 ツミさんとバツが流れる所作であっという間に淹れてくれたお茶をすすりつつ、

「壱さんは旅をしていて“いまみたいな状況”になったとき、どう対処するんですか?」

 現状に適した知識を有しているであろうお隣に座す旅人さんに、お訊きしてみた。

 旅人さんは「ふぅふぅ」してからお茶を一口すすって味わい、

「んー」

 なにか悩むふうな間を一拍、置いてから、

「まさに、いま」

 バレバレな手品のタネ明かしをあえてやらされる手品師がごとく、なんとも言えない困ったふうな微笑みを浮かべて、口を動かす。

「一緒におこなっているじゃないですか、“その対処”を」

「…………お茶を飲む、ですか?」

「ええ。お茶を味わっている間に、“道を知っている誰か”が通りかかるかもしれないでしょう?」

「ん、うん……そうですね」

 正直、その確率は低いだろうと思う。べつに、我が思考が後ろ向きになってしまったわけではない。事ここに至るまで、道中「こんにちは」した人数がふたりだけなのだ。元々この道の人通りが少ないのか、“たまたま”なのかがわからないので、断言できることではないけれども。

「その“誰か”がやって来なかった場合は、どうするんですか?」

「刀さんは、思いのほか心配しぃさんですね」

 壱さんは溜め息のような「ふぅ」をひとつお茶に吹きかけてから、ズズッと一口すする。

「ん、んん……」

 どうだろう? そうだろうか? あまり自覚はないのだが……。

 んーむ。でも、まあ、生まれ育ったところから“こちら/異世界”に迷い込んじゃったからだろうか、できればもうこれ以上の“迷い”は経験したくない、とは思う、かな。

「――普通の旅人なら」

 壱さんは両の手で持った湯のみの縁を親指でなぞりながら、言う。

「冒険したりせず、きた道を戻っていろいろと改めるでしょうね」

「普通の?」

「いままで私は、確たる目的地なく風にまかせて旅をしていましたからね。このような状況では、風の吹いたほうへなんとなく進んでいたのです。それを選択した結果による責も、自身が負うだけで済む“ひとり旅”でしたから」

「なるほど」

 つまるところ、このままだと“きた道を戻る”可能性が濃厚ということか……。

 ならば、と思いついたことを、お茶を飲み干し起立してから述べさせていただく。

「みんながお茶している間に、ちょっと先まで行って道の様子を探ってきますよ。もしかしたら――」

「その提案は却下です」

 ――どちらかの道は、先が続いていないかもしれない。それなら、もうひとつの道が正しいほうである可能性が高い。あるいは、意外と次の宿場町はすぐそこかもしれない。という個人的な意は、音声として口から発せられるまえにバッサリと斬られてしまった。

「知識のともなわない単独行動は絶対にダメですよ、刀さん」

 子どもに言い聞かせるような穏やかさある口調で、壱さんは言う。

「もしものとき生命に関わります」

「……はい」

 丸投げしていた情報収集の労にお返しできるような“なにか”をと思ったのだが、軽率な素人考えだったようだ。いいこと思いついちゃった的に勢い込んでお茶を飲み干して起立したのが、ちょっと恥ずかしい……。

 なるだけ静かに、なにもなかったふうを装って腰を下ろす。

 しばし無言の空白が生じ――

「むむぅ」

 なにぞ可愛らしいうなり声がこっそり聞こえることに、我が耳はふと気がついた。

 聞こえてくるお隣のほうを見やるとそこには、眉根を少し寄せている壱さんのお顔があった。肩口でテキトウにぶった切った漆黒の髪の毛先を、片方の手でいじったりしている。

 お茶を飲み終わったあとの“どうするべきか”について、思案していらっしゃるのだろうか?

「手持ちの水と食料は、あとどのくらいありますか?」

 思案の参考にするのか、壱さんが訊いた。

 リアカーの車輪に軽く腰掛けてお茶を飲んでいたツミさんが、さっと荷台のほうを確認して答える。

 どうやら、節約すればあと十日は持つ分量があるらしい。

 ここに至ってまた、ふと気がつく。水と食料が有限のモノであるという、当たり前のことに。“のどが渇いたら自販機で買えばいいじゃない/腹が減ったらコンビニで買えばいいじゃない”という“これまで”のクセのせいか正しく意識していなかったが、欲しいときに欲しい分量の水と食料が得られる保証は、どこにもないのだ。

「なるほど、ありがとうございます」

 ツミさんにお礼を述べてから、壱さんは「うーん」とまた思案顔になる。――が、すぐに転じて、「このまま“誰か”が通りかからなかった場合についてですが――」と口を開く。

「刀さんの提案を一部、採用して、少し冒険してみるのもよいかなと思い至りまして。一方の道をちょっと先まで行こうと思うのですが、いかがでしょう? もちろん行くときはみなさんご一緒に、ですよ」

 いかがでしょう? と可愛らしく小首を傾げられても、それを正しく判断するための旅知識をオレは持っていない。なので、とくに異論はない。というか、これといってなにも言えない。

 ツミさんとバツも似たようなかんじなのか、異は出なかった。

 ただ個人的に、素朴な疑問として、そう思い至った理由を知っておきたく。そのあたりについて、問うてみた。

「いまと似たような状況に遭ったことが以前、ありましてね」

 なんでも、そのとき、風にまかせて分岐の一方の道を進んでみたところ、その道は滝つぼに続いているだけの短い道だったようで。引き返して“続いているほうの道”を進み、途中にあったお茶屋さんで“そのこと”を話したら、お茶屋のヒトはその“分岐ある道”のことを“ほぼ一本道”と当たり前のように述べたとのこと。

 つまりは今回、情報を教えてくれた方々が、よく道を知っているがゆえに、“些細なこと/続いていない道”を除外して認識していたとしても不思議ではなく。

 事前情報では、あと半日ほどで次の宿場町に到着するらしく。およそ三日をかけてロエさんの村へ戻るより、半日冒険したほうが結果的には損を少なくできるだろう。

 ――と、そういうことらしい。

 まま、ようは、情報を教えてくれた方々を疑いなく“信じたい/信じている”ということか……な? ……たぶん。

 ――そして。

 意図してそれとなく時をかけてお茶を味わってみたものの、待ち人はついぞ現れず。

 お茶飲み道具一式を手早くかたずけてから、再び二叉分岐と対峙する。

「右と左、どっちに行きますか?」

 リアカーの荷台の縁にちょんとちゃっかり座っていらした旅人さんに、

「ちなみに右の道はやや傾斜のある上りで、左は緩やかな下りです」

 いちおう確認。

 旅人さんは「うーん」と下唇に人差し指を当てて小首を傾げ――転じて、「ふふっ」となにかいいことでもあったような微笑みを浮かべ、ニヤリと笑うがごとく「じゃあ」と口を動かす。

「やや上る傾斜がある、右の道で」

「げえっ?」

 こっちから確認しておいて、思わず本音をお漏らししちゃったのだわ。

 諸々の道具一式と水と食料、いつの間にやらなんぞお豆をポリポリ喰っとる壱さんを積載したリアカーを引いて行くのか……この地味にキツそうな上りを…………。

「くふふっ。じょーだんですよ、じょーだん」

 壱さんは炒った大豆っぽいお豆の詰まった掌サイズの巾着袋を差し出し、バツとツミさんに「いかがですか?」とすすめてから、

「行ってみないとわかりませんからね」

 上体をひねってこちらのほうに向け、

「どちらでもよいと思いますよ」

 活発なイタズラっ子が浮かべるような愛嬌あるやったった的な表情を添えて、「美味しいですよ?」とお豆をすすめてくださる。

 五、六粒ほと頂戴して口に放り込み、ボリボリと奥歯で噛み砕く。節分のときに歳の数だけ食べた炒り大豆とさほど変わらぬ、これといった主張と特徴がないザ・豆な味と、水分を持っていかれる感じが、口内に広がる。個人的に、この風味は嫌いじゃない。

 のどにちょいちょい引っかかった豆を軽く咳払いして取り除いてから、ツミさんとバツのほうを見やって、ご意見をうかがう。

 ふたりはわかっているというような優しさある微苦笑を浮かべてそれを返答とし、左の緩やかな下りの道のほうへ歩みを向けてくださる。

 胸の内で感謝を述べつつ、オレもふたりの背を追うように一歩を踏み出す。鼻歌交じりにお豆を喰っとる壱さんの存在を背後に感じながら、リアカーを引いて。まだまだ明るい空の下を。

 ――と思っていたのだが、わりとすぐに空には夕暮れの気配がただよい始めた。

 そして、それに合わせるがごとく、道の先に“ちょっとした冒険”の終りが見えてきた。

 雑木林の中にあって異質な存在感を放つ大きな人工物――石造りの建築物が、愛想なく黙してそこにあったのだ。雑木林と建築物の間には、境界線がごとく我が身長より高い塀がある。無愛想さと無口さを除けば、平屋建ての中規模スーパーマーケットを想わせる。

 まあ、もし実際、そういう客商売目的の建築物だったなら、間違いなくここは閑古鳥のリサイタル会場と化すだろう。

「んー、どうやらここは、“隠れ家的”を狙った宿泊施設だったようね」

 道の続く先にある建築物の出入り口――木製の大きい観音開きな扉の、その脇に設置されてある看板の“記号/オレには読めない文字”を見やってツミさんが、そう教えてくださった。

 どうやら、もうすでに、閑古鳥さんのリサイタルは開催されていたようだ。

 というのも、建築物や周囲から“生気/活気/ヒトの気配”が感ぜられないのだ。塀は壊れている箇所がちらほらあるし、敷地内には我が膝まであろうかという背の高い雑草がびっしりと茂っている。わかりやすいくらいに廃墟っぽい雰囲気なのだ。それに、極めて微かだが、なんぞ腐ったタマゴみたいな臭いもする――気がする。外観とかに気をつかう必要のない施設ならかまわないだろうが、客商売の施設でこれはないだろう。

「まさか……ここが次の宿場町ってことは、ないですよね?」

 道の先でそびえる建築物は宿泊施設だったようだし、じつはこの辺一帯が“過去そうだった”という可能性も……。

「それはないと思います。もしここが私たちの向かっている宿場町の一端であったなら、以前、道中すれ違った方が、少なくとも一言、“こうなっている”ことについて、なにか言葉をこぼしていったでしょうから。それに――」

 いつの間にやらリアカーの荷台から降りていた、いまは道の隅っこで杖を抱くようにして背を丸めてしゃがんでいる壱さんが、きっぱりと断言するふうな口調で言った。なにやら、宿泊施設敷地内に茂る雑草をいじくっていらっしゃる。…………あぁ! 雑草を口に入れおった!

「んーむ……やっぱり」

 壱さんは雑草を「くちゃくちゃ」とガムのように口内で噛み転がしながら、言葉を継ぐ。

「“この雑草”は比較的、背が伸びるのが遅いモノです。それが、ここまで伸びている。つまり、それだけの時を放置されていたわけですよ――」

 もし“ひとつの町”が廃れていたなら、その話がロエさんの村まで聞こえてくる時間が充分にあったことになる。だから道を訊いたとき、そのことを教えられているはずだ、と。

 もし“ひとつの施設”が廃れていたなら、その話を聞いてから忘却するまでの時間が充分にあったことになる。だから道を訊いたとき、それを教え忘れていたかもしれない、と。

「――ですから、ここは私たちの向かっている宿場町ではないと思います」

 それが、壱さんの“考え/解釈”であるらしい。

 逆もありえるんじゃなかろうかと思ってみたりするが、“ひとつの町”と“ひとつの施設”とじゃあ印象が違いすぎるから、逆はないか。

「ま、目的地ではありませんでしたが」

 壱さんは仕切り直すようにぺちんとひとつ拍手を打って、

「雨と風を避けられる屋根と壁のあるところに幸い、たどり着いたわけです」

 鼻歌が聞こえてきそうなほがらか顔で、おっしゃる。

「今日はここで、お休みさせていただくとしましょう」

 ――そんなわけで。

 本日はもう移動せず、ここで一晩を過ごすことになった。

 廃墟然としているし、ヒトの気配もしないので、そうする必要はないかなと思いつつ、

「すみませーん、こんにちはー」

 いちおう最低限の礼儀として、縦一文字に口を閉じている木製の大きな扉を軽くノックする。――が、扉が分厚い作りなのかいまいち音が響かず。なので改めて、

「すみませーんっ」

 殴る勢いで強く、握った手を扉に叩きつける。

 乱暴な音がしばし聴覚を征服するも、ノックをやめると張り詰めた糸がぷっつりと切れたように静寂が再征服してきた。

 扉の向こう側に、これといった動きは感ぜられず。

 一瞬、二瞬、大丈夫かしらと考えてから、

「失礼しますよぉお、おう……」

 断りを述べつつ、芸の細かい装飾が施されたノブを握って扉を押す――が、拳ひとつ分ほど開くも、なにか引っかかってしまったのかそれ以上は動かず。押してダメならと引いてみるが、ただ扉が閉まるに終わる。まさかを信じて上下左右に力んでみるも、まさかなことは起こらず。

「……扉、なにか引っかかって開きそうにないので、どこか入れるところがないか探してきますね。きっと裏口とかあるでしょうし」

 振り返って、リアカーのところで待機している面々に報告する。

「ほう、どれどれ」

 好奇心をくすぐるモノでもあったのか、壱さんは楽しげな顔をして杖で足元を確かめつつこちらに歩み来る。それから探る手つきで扉に触れ、ノブをつかみ、

「ふんっ――ぬぅ」

 扉を開けようと力むも、オレと同様に拳ひとつ分を開けたところで止まってしまう。

「むぅー」

 壱さんは眉根を寄せてぷくっとほっぺを膨らませ、なにぞ考えるふうに腕を組む。

 しばし「むぅむぅ」うなっていたと思ったら不意に、扉から五、六十歩ほど後ろにさがった。

 なにか考えついたのだろうか? と思うた転瞬――

 壱さんは、扉のほうに向かって電光石火の加速あるダッシュを開始。加速が最高に達したところで「ていっ」と棒高跳びのごとく杖を地べたに突き立てて横方向に跳躍、まるで扉の表面に起立しているがごとき垂直さの美しきドロップキックをかます。

 重量感ある鈍い打撃音と重い物を引きずるような音が一瞬した――が、扉はさほど動いてくれていなかった。

 いきなりの出来事に、けれどあっ気にとられているヒマはなく。ど目の前でかましたときの姿勢を維持したまま地べたに落下しようとしている壱さんを、全身全霊全力で腕を伸ばし抱き留めにゆく。

 これで、己が腕だけで壱さんを抱き留め、いわゆるお姫様抱っこ状態にできたなら、個人的には“拍手喝采/百点満点/自己満足”なのだが、

「おうふううぅっ!」

 一瞬だけお姫様抱っこ状態になっても、現実の我が腕筋と足腰ではそのままの姿勢を維持して持ち堪えること叶わず、

「――だはっ」

 お尻から落ちてさらに倒れ、地べたに背中を打ち付けてしまった。同時に、壱さんの存在感という重みがズシッと胸部に刺さった。

 後ろも前もなんてっ……激しすぎて辛いのだわっ…………。

 まま、それはそれとして。

「…………あの……壱さん」

「……はい」

「お元気ですか?」

「ええ、おかげさまで。あちこち跳び回りたくて身体がウズウズしちゃうくらい、とても元気ですよ、刀さん」

「それは、なによりです」

 なんでだか我が胸部に顔面を押し付けて喋るものだから、いちいち壱さんの口の動きをもぞもぞ感じて妙にくすぐったく。本当は詳しくお訊きしたいことがひとつあったのだが、とっとと話を切り上げてしまった。

「だだだ、だ大丈夫っ?」

 ツインテイルを振り乱して駆け寄ってきてくれた、ビックリどんぐり眼のバツと、

「大丈夫かい?」

 ポニーテイルをふわりと揺らして歩み寄ってきてくれた、ややあきれふうなツミさんに、

「大丈夫です」

 と微苦笑を添えて述べつつ、身を起こ――したいので、まずは文鎮と化している壱さんにのいていただく。

 その腕っ節の力強さからは意外な、繊細さある華奢な肩に触れ、極軽く押す。そうしたらば、声をかけるまでもなく自分からのいてくれた。

 少し乱れた黒髪をちょいちょいと手直しする壱さんを横目に見つつ、身を起こす。

 それから、ドロップキックを喰らった扉を改めて見やる。自分の身体ならきっと無事では済まなかったであろう“それ”を喰らってなお扉は、平然とした面構えでそこにあった。

 開き具合も、やはり“さほど”動いてくれていない。けれども、“さほど”は動いてくれていた。先ほどの拳ひとつ分よりは確実に広く、開いている。

「さて、どれどれ」

 髪の手直しを終え、壱さんは“結果を確かめる杖と手”を扉と“開いている空間”へやった。杖で扉を探り当て、そのまま扉の縁にそって杖を動かし“開いている空間”を認識し、杖を三回ほど左右に振って“開いている空間”の“幅/開き具合”を確認。そこで、「むぅ」と、まるで納得いかないことがあるかのごとく眉根を少し寄せる。それから手で、扉から“開いている空間”への流れで再度“結果”を確かめ――どこか悔しそうな顔をして、言いおる。

「あと二、三回、同じことをやれば、確実にっ」

「勘弁してください」

 行動力溢るる壱さんである。このままだと当たり前のように有言実行しちゃいそうなので、身動きを制限するためにお手を握らせていただく。もちろん、それとさとられぬようにそっと自然な動作で。

「ぬぅ……。では、イワさんをお呼びして――」

「ぼ、ぼボクが中に入って、と扉を開けられるようにしてくるようっ」

 壱さんが口を開くのとほぼ同時に、バツが「はいっ!」と挙手して申し出た。

「ぼぼぼボクなら、とと通り抜けられると思うんだっ」

 確かに。いまの扉の開き具合があれば、バツの体躯なら身を横にすることで通り抜けられるだろう。

 けれども、「よし任せた」と言うことはできない。扉の向こう側が絶対に安全であるという保証が、どこにもないからだ。いちおう年上の者として、バツをひとりで危ないかもしれないところへ行かせるわけにはいかない。ここはオレが強引に行くか、もう潔く裏口を探しに行くべきだろう。

「危な――」

「その心意気、とても素晴らしいですっ」

 危ないからダメよ、とバツに言おうとしたらば、壱さんが我が発言にかぶせて“彼”を褒めた。こちらが握っていないほうの手で持っていた杖を小脇に挟み、空いた手でちょいちょいと手招きをし、「えへへ」と照れつつ身近に来たバツの頭を優しくなでる。

 そして壱さんは柔らかな口調でさらっと、危ないかもしれないことや、ツミさんに心配をかけてしまうことなどを言って聞かせなさる。

 バツはツミさんのほうをチラリと見やり、

「うぅ……」

 困ったふうに眉をややハの字にしつつも、

「ででも――」

 と意を述べようとする。

 壱さんはそんな“彼”の口に人差し指でちょんと触れ、発言を一時停止。それから、まるでとびきりの秘密を教えちゃうようなノリで、「私はですね」と言う。

「自分でやると決めたことは、最後までやり通さないと気が済まない性分なのですよ。ですから、その心意気、いまは胸の内で大切に温めておいてほしいのです。私が最後までおこないたいから、ね。……私が最後までおこなって、よいですか?」

 バツは数拍、考える間を置いてから、

「うん」

 微笑み、首肯して応じた。

 壱さんは感謝の意を述べつつ“彼”の頭をひとなでしてから、その手を自らの腰に当て、

「さて、ぶち壊しますかっ」

 ともすれば物騒なことを、じつに清々しくさっぱりとしたふうでおっしゃる。

 バツを相手にしているときは年上のお姉さんな雰囲気だったのに、一転して土方のおっちゃんじみちゃったのは、どうしてだろう。

 いや、それよりも。

 まさか本当に、“さっきの”を二回、三回やらかすおつもりなのだろうか……。ドロップキックをかましたあとの壱さんを抱き留める意志はあるけれども、哀しいかな実力が追いつかず。もはやオレは、体操マットのごとく下敷きになるくらいしかできないわけで。そんなことを繰り返しやったらば、なんか出ちゃいけないモノが出ちゃう気がしてならないわけで。それはちょっと……できることなら、ご遠慮したいわけで。

「ここ以外の入り口を探すという選択肢は、ないのでしょうか?」

 いちおう、それとなくお訊ねしてみる。

 壱さんはふっと郷愁を噛み締めるヒトのような雰囲気をかもして、

「そんな選択肢もありました、ね」

 ポソリと、そんなお答えを返してきなさった。

「……なぜに過去形?」

「だって、“私が最後までおこなう”と明言しちゃいましたもの」

「ああ……」

 引くに引けないわけですね。

「やっぱり、“さっきの”をやるんですよね?」

「……んん?」

 壱さんは意外なセリフを耳にしたという顔をして、

「刀さんが望むのであれば、そうしますけれど……ふふっ」

 なんでか、イタズラっぽい笑みを浮かべおる。

「そんなに、私の下敷きになりたいのですか?」

「――えっ?」

「そのような涙ぐましい努力などせずとも、こっそり耳元でささやいてくださればいつでも密着してあげますよう?」

「じゃあ、いずれそのうち。――って、いや、そうじゃなくて。やらないんですか、“さっきの”」

「ええ、あまり効果的でも効率的でもありませんでしたからね」

「おっと……そうですか。いや、そうでしたね」

 できることなら、実践するまえに気がついていただきたかったですが。

「でも、そうなると、どうやって“ぶち壊す”んでしょう?」

 杖と腕っ節をもちいてテコの原理で、とかだろうか。杖と称しているけれども、ひょろっとしたそれではなく、棍棒とか鉄パイプのようにしっかりと丈夫そうな形状をしている壱さんの杖であるし。

「刀さんは、私の言葉を聞いてくれていないのですね……」

「ええっ? なんですか突然」

「私は悲しいです。しくしく」

「やぁーめぇーてええええええええくださいよっ」

 今回はあからさまなウソ泣きだが、以前に迫真の演技力でウソ泣きかまされたとき植え付けられたトラウマスイッチがあるせいか、どうにも壱さんの“泣き”には過敏過剰に反応してしまうのだわ……。

「わりと一言一句ちゃんとご拝聴しておりますよっ、本当にっ」

「なら、刀さんは、私がこれから“どうするのか”ご存知のはずですよねっ? 私はもうすでに“どうするのか”述べているのですから」

 うそーん……。

「さあ、私はなんと述べていたでしょう? 刀さん、お答えくださいっ」

「ええええぇっとおおおおおおおお――」

 なんか、蟻地獄にはまっちゃったアリさんと美味い酒が飲めそうな気がするぜっ。まあ実際は、そもそもお酒の味を知らないので、美味いか否かの判断なんぞできないけれども。

 ――なんて、アリさんとの飲み語らいを想像して現実逃避している場合ではない。記憶を検索して、“壱さんが述べたこと”を我が口から発しなければっ。

 んんと…………あ、そう、確か、バツが「はいっ!」と挙手して申し出てくれたときに、壱さんなにぞちょろっと言っていたような?

「――あっ! そうだ。そうでした。そうでしたね。イワさ」

「はいっ、残念でした。時間切れでーす」

「うぇいっ? 時間制限あったんですかっ。というか、いま正解をほぼ言えていたと思うのですがっ」

「答えられなかった刀さんは、私に――」

 言って、壱さんはほっぺに片手を添えて「んー」と思案顔をする。

 おおう……。“私の言葉を――”とおっしゃるのに、こっちの言葉は気持ちよいほど華麗にスルーしおるんですね……。

 まあ、気にしてもしょーがないので、

「“私に”……なんでしょう?」

 もうどうにでもしてっ、というノーガード“戦法/心情”で要望をうかがう。

 壱さんはほっぺに片手を添えたまま小首を傾げ、

「……なにを、してくれますか?」

 と訊いてきた。

「はい?」

 なにを言われたのか瞬時に理解できず、素で訊き返してしまった。

「とくにこれというモノが思いつかなかったので、刀さんのお考えを聞こうかと」

「え、んん、えっと、とっさにパッと出てこないです」

 というか壱さん、“話し/言葉”の聞きどころがちょっとズレてますよ。――と指摘したところで、“いま”はこれっぽっちも変わらないだろうなぁ……。

「そうですか――では、いずれそのうち、刀さんがなにか思いつくまで、これは保留しておくとしましょう」

「保留じゃなくて、破棄するという選択肢は――」

「ないですよ」

「ですよねー」

「ふふ、楽しみに待ってますね」

 壱さんは無垢で無邪気な微笑み顔をして、スッと静かに容赦なく“楔を刺して/念を押して”きなさった。

 釈然としないっ。けど、なんでか責める気にはならないっ――のは、きっと壱さんのチート能力に違いない。

「…………それで……あのう、刀さん」

 一転して。壱さんは恥じらうふうにほっぺをほのかな朱色で彩って、つないでいる手をちょいと引き、我が名前を呼んできなさった。

「はい、なんでしょう」

 眉でハの字が描かれたお顔をしかと“鑑賞/観賞”しつつ、応じる。

「扉を開くためにですね、これから身体を動かそうと思うので……そのう、手を」

 つないでいる手が、ちょいちょいとまた控えめに引かれる。

 手がどうしたのだろうか? と数拍、理解が追いつかなかったが、

「おおふっ、これはうっかり」

 いまの“正しい状況”を思い出し、合点がいった。

「失礼しました」

 握るのを解くと、壱さんの手は少しだけその場に留まってからゆっくりと離れていった。

 ――そして。

 壱さんは扉とやや距離を置いて立ち、“それ”を開始する。

 手でふとももを叩いたり、足を地べたを蹴ったり、己が身体を打楽器のごとくしなやかに使いこなして、小気味好いリズムを刻む。

「来たれ――イワさんっ!」

 奏でるリズムが絶頂に達した瞬間、壱さんは手にある杖を地べたにぶっ刺した。豆腐にお箸を突き立てるがごとくあっさりと、杖は半ば地べたに埋まる。

 それから流れる動作で、人差し指を立てた右の手を頭上に掲げ、同時に両の足を肩幅に開き、腰をくいっと左に突き出す。

 転瞬、静寂と沈黙の間が生じた。

 そよ風が、「いましかないっ」というふうに静々と通りすぎてゆく。

 壱さんは黙して風がすぎるのを待ち――

 パチンッ、と掲げた右手の指を鳴らす。

 それを合図として、杖の刺さった地べたに変化が生じた。杖を中心点として円状に、周囲の土がチョコレート味のジェラートがごとく緩くなったのだ。次いで、コーヒーとミルクを混ぜ合わせたあとのような流動さを見せる。

 しばし変化の中心で刺さっているだけだった杖にも、動きが起こった。引っ張られているわけでもないのにひとりでに、せり上がってくる――

 地中から姿を現したのは、しかし杖の先っちょだけではなかった。

 杖の先っちょを握るカタチで右の手を頭上に掲げ、両の足を肩幅に開き、腰を左に突き出す――という壱さんのそれと同様のポージングをした筋骨隆々の小っさいおっさんが、おまけのようにくっついて現れたのだ。しかも、一糸まとわぬフルオープンな見てくれで。

 鎧のように重厚で美しい筋肉でおおわれている身体のおかげか、見苦しいということはない。けれども、だからといって、おっさんの真っ裸を見てもまったく嬉しくはない。

 ……思えば、この小っさいおっさんと“会う/遭う”のは二度目である。オレ以外の、ツミさんとバツも初対面ではない。連れ去られたツミさんを奪還するとき、対面している。

 見てくれはアレだが、なんだかんだでこの小っさいおっさん、“あのとき”とても活躍してくださった頼もしい存在だ。……見てくれはアレだが。

「…………ふぅ」

 小っさいおっさん――イワさんは、寝起きのヒトのように、首を回したり四肢を軽く動かしてから、

「おや?」

 周囲を見やってこちらを認識し、

「ヘイッ! みなさん、こんにちは。久しぶりです」

 じつに礼儀正しく、軽く頭を下げて挨拶してきなさった。

 これで真っ裸じゃなければなぁ……と思いつつ、

「こんにちは」

 フルオープンを理由にシカトするわけにもいかないので、務めてよいふうな微笑みを浮かべ、応じる。

「……こんにちは」

 いちおう二度目ましてなツミさんはポソリと言葉を返し、極自然な反応として困ったふうに顔を赤らめ、そっぽを向く。

「こ、ここんにちは」

 こちらも二度目ましてなバツは、背後からツミさんに「見ちゃダメっ」と両の手で視界をさえぎられつつ、

「おお、お久しぶりでしゅっ」

 素直さ溢るる音声で、一服の清涼剤がごときお返事を聞かせてくれた。

 くそうっ……これで我が視界内にある真っ裸の特定部位に、せめて布の一枚でもあったならっ。ちょっと噛んじゃったバツを、清く正しく心から愛でられたのにっ。

 真っ裸この野郎ぅじゃなかった――イワさんはこちらの返しをちゃんと聞き終えてから、

「マイ・マスター、私はなにをしたらいいのですか」

 自らの王を前にした騎士のごとく、杖を捧げるように持って壱さんの前にひざまずく。

 壱さんは迷いない動作で杖を受け取り、

「どうにも融通がきかない困ったさんな扉が、ありましてね」

 微苦笑が浮かぶ、やや眉尻を下げた表情で、

「イワさんには、私たちの行く手を阻む“それ”を、ちょいっとぶち壊していただきたいのです」

 じつにざっくりと、事の次第を物騒混じりに話して聞かせる。

「イェス、マイ・マスター」

 一切の疑念もためらいもなくイワさんは、そう応じた。ひざまずいた姿勢のまま三歩分ほど後ろへ移り、起立。胸筋をやたらとピクピクさせらがら、扉へ向かう。

 そういえば、よくよく思い返してみると“あのとき”も、いまと似たようなシチュエーションだったっけ。イワさんが閉ざされた道を“開く”という――

 なんてことを思っていたらば、おもむろにイワさんが扉を開きにかかった。

 両の手を扉に当て、肩幅に開いた足でしっかりと地べたをつかみ――尻を突き出す姿勢で、静かに力む。隆々たる筋肉が、惜しみなくその機能美を見せつけてくる。

 そんな真っ裸の小っさいおっさんの力技に反抗するがごとく、木材が軋む悲鳴じみた音がしばし聞こえ――

 転瞬、乾いた破裂音が聴覚を殴ってきた。

 溜め込んだがうっぷんが爆発したときのような勢いで、扉が開く。

 音からして扉が壊れたのかと思ったが、しかし損傷したふうは見られず。向こう側でつっかえていた“なにか”が壊れた――のかな?

 まあ、ともあれ。

 ついに、やっとこさ、扉は開かれた。

 ここまで、えっらい長い道のりだったような気がするのだわ……。

「…………ん?」

 不意と、我が嗅覚が、あまり好ましくはない部類の臭いを感じた。先ほどもふわっとちょっと嗅いだような気がする、腐ったタマゴのような臭い。

 この臭いと扉が開かれたことに関係があるのかわからないけれども、果たしてこのままこの元宿泊施設に足を踏み入れて、さらには一晩を過ごしちゃって、大丈夫なのかしら?

 臭いの原因が、もしも生命的な意味でよろしくないモノだったりしたら……。

 道選びではハズレのほうへ進み、あげくそのハズレの中にさらなるハズレが仕込まれていた――なんて、考えただけで、いたたまれなすぎて穴掘って埋まりたくなってくる。

「ふぇ? むしろ私は、ハズレを装ったアタリだと思いますよ」

 最悪の結果だけは本当に勘弁願いたいので、臭いについて述べてみたらば、

「さすがは刀さん」

 なんでか、お褒めの言葉をいただいてしまった。

 壱さんは「ぬふふ」と機嫌よさげな笑みを浮かべて、「持ってますねっ」と己が腕をペチペチ叩く。

 これが壱さんじゃなかったら、皮肉として“聞いて/受け取って”いたところだ。

「じゃあ大丈夫……なんですかね?」

「ダメなら、すぐに引き返してますよ。少なくとも、刀さんが想像しているようなモノだったら、ここまでして扉を開こうとはしません」

「ああ、まあ、そうですよね」

「ふふ、だいじょーぶです。私の嗅覚は、なかなか優秀なのですよ?」

 壱さんは自らの鼻先をちょんちょんと人差し指で触れて示し、

「信用に足ることは……そうですね、私の夕食の半分にかけて保証してあげます」

 ニッと笑みを浮かべ、夕暮れの光に彩られたエヘン顔を見せてきなさる。

 超スゲーぜっ! ということですね。わかりました。

 ……うん? だとすると、優秀な嗅覚いわく“アタリ”ってなんぞや?

 そのことについて問うてみると、

「楽しみは少し焦らされてから知るほうが、嬉しさ倍増だと思うので――」

 壱さんは慈愛があるふうな表情をして口を動かし、

「教えてあげませんっ」

 言って、「えへっ」と舌先をのぞかせる。

 ん、んん……あれかな、臭いはアレだけどすっごく美味しいというドリアン然り、臭う系の珍味的なモノがある――とか、そういうことなのかな? 楽しみって。

 まま、ともあれ。

 どうやら、穴掘り作業はおこなわずに済みそうだ。

 とりあえずの安堵を得つつ、他の面々を制止してから、ついにご開帳した扉の向こう側へ歩みを進める。

「――おおう」

 扉の境をまたぐと、ホコリっぽさと件の臭いが薄っすら漂う広い空間に出た――いや、入った。壁の所々に光を取り入れるための窓と呼ぶには小さい穴があり、そこから射し込む黄昏色の光が、淡く内部を照らす。

 ひとりでは腕がまわせない太さの石柱が等間隔で建ち並び、高い天井を支えていた。

 正面には、なんでだか木造の小屋があった。建築物の内部だというのにちゃんと屋根まであり、扉に対する面はホテルや旅館の受付カウンターと似た作りをしている。大きな建築物の内部にあるからか、妙にミニチュアじみていて、ぽつねんとして見えた。

「――それで。私たちは、もう入ってもよいですか?」

 背後からの声に振り向くと、向こう側とこちら側のちょうど境目に立つ壱さんの姿があった。杖の先っちょで、こちら側の床をツンツンしている。

 その脇には、待ち遠しそうに爪先立ちを繰り返すバツの姿があり、そんな“彼”の両肩に優しく手を添えているツミさんの姿もあった。

 …………あれ?

 規制モザイクを身にまとうべき存在の姿が見当たらな――

「刀さん? 聞こえていますかー、もしもーし」

「え、ああ、はい、どうぞどうぞ」

 とくにこれといって危ないモノはないようだし、天井も落っこちてきそうな気配は感ぜられない。ホコリっぽさと件の臭いは少々気になるけれども、入場制限する必要はないだろう。

「それで結局、なにが扉を開かなくしていたのでしょう?」

 バツに手を引かれてこちらへ歩みを進めつつ、壱さんが言った。

「おっと、そういえば」

 というわけで、“そちら”のほうに意識を向ける。

 扉が開いたときに脇へ追いやられたらしく、“それら”は左右に分かれて小さな山を作ってあった。複数の、木で作られた長方形のテーブルや長椅子である。

 これがバリケードのごとく扉の前に積まれていたから、開かなかったのか。でも、これくらいなら、壱さんのドロップキックでどうにかなりそうに思えるけれど……うまい具合に引っかかっちゃっていたのかな? バッキリ折れて壊れているモノも数点、見られるし。

 そのことを教えると、

「ほう、“ちゃんとした”お尻の落ち着き先があるわけですねっ」

 壱さんは「あら、これ幸い」というふうに片手をほっぺに添えて言い、

「ねっ?」

 と加えて、小首を傾げ、なんぞ微笑みの圧を放ってきなさる。

「そ、そうですねー」

 なんだろう、長椅子とテーブルを並べてくれたら嬉しいなってことかしら? 

 ――とか考えるより早く、我が手足はセッティングに取りかかっていた。

 テーブルひとつを間に挟んで、

「できましたよっ、と」

 長椅子ふたつを向かい合わせのカタチで設置する。いちおう、古ぼけている中から、もっともキレイっぽいのを厳選したつもりだ。

 長椅子のホコリを改めて吐息と手で払ってから、

「こちらへどうぞ」

 圧を放ってきおった方を座席へご案内するため、そっと手を取る。

「あら、紳士さん。ふふ、ありがとうございます」

 壱さんは務めてお淑やかな微笑みを浮かべて言い、そっと手を握り返してきた。愉快そうな雰囲気が、だだ漏れしちゃっているけれども。

「――ですが、腰を落ち着けるのはもう少しあとにしましょう」

「おっと……」

 できれば、セッティングを開始するまえに申していただきたかった……。

「なにか、するんですか?」

「ええ。軽く探索をしておきたいのです」

 ――そんなわけで。

 ツミさんとバツは施設の内部を。壱さんとオレは施設の外周を。それぞれ、あくまでも軽く、探索することになった。

 残されてあるモノから“いろいろな情報”を読み取れるということで、文字が読めるツミさんが内部を探ることは、壱さんのお願いによって決まった。あとは、その場の流れで。

 バツと夕暮のお散歩ができるかなぁ、と頭の片隅で考えようとしたらば、期待に胸を膨らませようとしたらば、

「さ、行きますよ。刀さん」

 つないだままだった手をクイッと引っ張られ、

「私たちは外周です」

 組分けが終了してしまったのだ。

 まあ、これが無難な組分けだろうから不満はない。けれども、ちょいと心残りではあるのだわ……あぁ、バツとふたりっきりでお散歩…………。

「というか」

 敷地に茂る雑草をかき分けるように踏みしめながら、

「外を探索する必要って」

 ふとした疑問が、

「あるんですかね」

 ポロッと口からこぼれた。

 と同時に、つないでいるほうの手が、ぎうとひとつ握られ、

「ありますよっ」

 お隣から、ちょっとすねたふうな声色が物申してくる。

「情報はあって困るものではないですからね。仮に、これといって特徴的なモノがなかったとしても、外には“なにもない”という情報が得られるわけですから、とても儲けものなのです。べつに刀さんとふたりっきりになりたくてテキトウなことを言ったわけでは断じてありませんからねっ」

「え、あ、はい」

 まくし立てるような後半の語気強めな早口に気後れしつつ、ちょろっと表情でもうかがおうかと視線をやって、

「承知しましぃっ!」

 度肝をぶっこ抜かれた。

 茂る雑草の中へ、吸い込まれるように消えてゆかんとしていたのだ。壱さんが。

 なにがどうなっているのか考えるヒマはなく。スルッと静かに離れてゆきそうになる壱さんの手を、離すまじと全力で握る。――が、まったくの不意打ちで引っ張られるカタチになってしまい、姿勢が崩れ、踏ん張れず。壱さんを追うように雑草の中、地べたにポッカリと口を開けていた穴にダイブ――


 ――そうだ。

 そうだった。

 あまりにも突然のことで状況を正しく認識できていなかったけれど、そうか。あのときの穴が、この枯れ井戸だったわけか。

 て、いや、それよりも。

 回想して記憶の整理なんぞしていたから、かなり遅れてしまったが、

「そんなことより。壱さんは大丈夫ですか? ケガとかしてないですか?」

 いま気にするべきは、その一点だけである。

「もにょ、もにょもにょもにょ」

 壱さんは眉をハの字にした困り顔で、

「もにょもにょ、もにょ」

 すぼまっている口を、窮屈そうに「もにょもにょ」と動かす。

「…………うん?」

 これは、心配させまいという壱さんなりのユーモアかしら?

「もにょ……」

「……あ」

 いま己の手がなにをやらかしているのか気づき、思い出した。

「ああっと、そうでした」

 片手でわしづかむように両のほっぺをプッシュしたままだったの、すっかり忘れてたわ。

「失礼しました」

 名残惜しむ己が手を辛抱強く説得して、引き離す。

 解放されたほっぺはそのままぷくっと膨れて抗議してくる、と思っていたのだが、

「やはり、その……」

 ほっぺは膨れる気配など一切なく。代わりに、なんとも気弱な音声が耳に触れてきた。

「……刀さん、怒って」

「ないですよっ。いまのはぁ……なんというか、ちょっと手がやんちゃしちゃったというか、手違いというか、“そこに触り心地の好さそうなほっぺがあるからさっ”という登山家魂のような衝動のような出来心です。はい」

 なにを言ってるんだろうか、自分は。

「――て、だから、そんなことよりもっ」

 最優先して気にするべきを気にするため、

「身体は大丈夫なんですか?」

 上体を起こして膝立ちになり、

「ケガは?」

 いままで我が上体を背後から抱き支えてくれていた壱さんのほうへ、向き直る。

 壱さんは石積みの壁に背を預け、揃えた両の脚を左に流すカタチで地べたに腰を下ろしていた。パッと見たところでは、ちょっと汚れが付いちゃっている程度だけれども……。

「私は大丈夫です。ちゃんと着地できましたから」

「本当ですか? なんかやたらとしおらしくて、らしくないですよ」

 心配させまいと我慢している可能性もありえるし、ここは無理矢理にでも隅から隅まで余すところなく触って確かめるべきだろうか。

 壱さんは数拍ほうけたような顔をしてから転じて、「ふふっ」と控えめに笑った。

「ヒドイことをおっしゃいますね、刀さん」

 すねたふうに口を尖らせて言い、

「いまの言葉で、心がケガしちゃった気がしますよ?」

 責めを楽しんでいるようなイタズラっ子の表情をして、ぷくっとぽっぺを膨らませる。

 それから「ぷふっ」とまた笑みをこぼして、

「私は本当にだいじょーぶ、ですっ。なので、隅から隅まで余すところなく触って確かめていただく必要はありません。……ですが、そうですねぇ」

 まるで挑発するがごとく胸を張り、

「刀さんがどうしてもおっしゃるのなら」」

 獲物をもてあそぶネコのような表情をして、

「お触りさせてあげないことも、ないですよ?」

 我が理性と煩悩を、つうぅと指先でなでるふうに刺激してきおる。

 それを感じ受けてオレは、

「くはははっ」

 思わず、声に出して笑ってしまった。

「ぬぅ? 笑われてしまいました……」

 どうやら壱さんが“期待していた/予想していた”反応と違ってしまったようで。戸惑うふうに一度、眉根を寄せてから、先ほどの“それ”とは性質の異なるしょんぼり顔をしなさる。

「いえ、違いますよ。“いまの”を笑ったわけではなくてですね、その……あれです、思い出し笑いのようなモノです」

「……思い出し笑い?」

「出逢った始めのころなら、“奥義がどうの”って壱さんに言われてただろうなぁって、ふと思ってしまいまして。最近、言われてないなぁって」

「言われたいのですか?」

「違いますよ。ただ、こう、少しは身近になれたのかなぁーと」

「そうですね。いまや夫婦ですものね」

「あはは……」

 まだ生きてるんですね、その設定。

「まあ、据え膳を喰らう食欲と根性が、刀さんにはやや不足していると勘付いただけですけどね。言わなくなったの」

 おやおや、なんということでしょう。……ボディーブローみたいな言葉をポロッとこぼしてきおりますね、壱さん。

 このままでは日本男児としての我が沽券に関わるっ!

 ――からといって、なにぞやらかすつもりはない。そんなことするくらいなら、この枯れ井戸から脱出することについて考えるべきだろう。

 とりあえず壱さんを肩車――いや、それで地上に手が届くほど井戸は浅くないか。

「オレを踏み台にして跳んだら地上に手が届いちゃった、なんてことになったりしませんかね、壱さん」

「あら、いつの間にかお話が変わりましたね」

 壱さんは独り言のようにポソリと言ってから、「んー」と眉根を寄せて小首を傾げ、

「落下したときの滞空感から考えると、そうですねぇ……」

 しばし思考する間を置いてから、口を開く。

「少し難しいかなと思います」

「少し、ということは可能性はあるんですね」

「はい。やりませんけどね」

「え、可能性があるならやりましょうよ」

「確実に一回で成功できるのであれば、やりますよ。ですが、失敗する可能性もあるわけです。そうなったとき、刀さんが落下する私の下敷きになってしまう」

「受け止めますよっ! 可能な限り」

「だから、ダメなのです。“ヒト一人分の重さ”が落ちてくるわけですよ? もしも変な“受け方/当たり方”をしてしまった場合、最悪ケガでは済みません。刀さんの生命に関わります。なので、絶対にやりません」

 それは扉にドロップキックをかますときに――って、ちょっと状況が違うか。あのときは、避けようと思えば避けられる空間的余裕があったし。なにより、落ちてくるといっても、せいぜい胸の前の高さであって、首から上の高さからではなかった。

「刀さんと私の“ふたりだけ”でしたら、あるいは“それ”を強行しなければならなかったでしょうけれどね」

 言って、壱さんは柔らかな微笑みを浮かべ、

「とても幸いなことに私たちは“私たちだけ”ではない、でしょう?」

 と、うながすように可愛らしく小首を傾げる。

 なにをおっしゃる、壱さんとオレの“ふたりだけ”でしょう。――数拍、とても失礼なことに、素でそう思ってしまった。

「……そうでした」

 というか、言われないと気づけないなんて……。状況のわりにはそこそこ冷静であったつもりなのだが、そうでもなかったらしい。

 ツミさんとバツの存在を忘れていたなんて、もはや自分で自分に驚きを覚える。自覚している以上に焦って、“視野/意識/認識”が狭まってしまっていたようだ。

「思いっきり叫んだら、ここにいるって気がついてもらえるかなぁ……ふたりに」

 根拠のない“ちょっとした期待”を込めて見上げてみたそこには、円形に切り抜かれた黄昏色の空が遠く、当たり前のようにあるだけだった。粛々と薄い雲を流しながら着実に、表情を夜のそれへと変えようとしている。

「んんー、井戸の直上でならよく聞こえると思いますけど、周囲ではあまり聞こえないと思いますよ」

「そう、なんですか?」

「はい――あ、いえ、経験と感覚から個人的にそう思っている、というほうが正確ですね。まあ、どちらにしても、ふたりはまだ施設の中でしょうから、叫んでも声は届かないと思います。なので、いまは抑えておきましょう。ここぞというとき、のどが傷んで声が出せない、ということになってしまってはよろしくないですからね。それに、声を発する行為は、意外と体力を消耗しますから、体力を温存するという意味でも――」

「――まだ“そのとき”じゃあない、と」

「ええ。しばらくしたら、ふたりが様子を探りに来てくださると思いますから。そのときこそ、刀さんの叫びが活躍するときですよっ」

「じゃあ、そのときまで大事に、のどを温めておくことにします」

「あ、あと、不粋なことはするまいと気遣ってくれた結果、来るのが遅れてしまう可能性もありますから、そのことも覚悟しておかなければなりませんねっ」

「そうですねっ……うん? どゆことですか?」

「それは、刀さんに訊いてください」

 おおう……、自問自答しろってことですかい……。

「おっまめぇ~、おっまめぇ~、まめまめおっ豆ぇ~」

 どうやら、本当に“そうしろ”ということらしく。壱さんはおもむろに掌サイズの巾着袋を取り出すと、流れる所作で封を解いてお豆をつまみ、ポリポリと喰い始めた。

 なんでかしら、ただ豆を喰ってるだけなのに、眺めていると気持ちが和んでくるのは。

「……ところで壱さん」

「んぐ、ふぁい?」

「のど渇きません?」

 和んだついでに、ふと湧いてきた素朴な疑問をお訊ねしてみた。

 先だって分けてもらったヤツを食べたとき、口内の水分をけっこうガッツリ容赦なく奪われたことは記憶に新しく。枯れ井戸の底というこの状況で水分が欲しくなちゃうのは、冗談じゃなくわりとひっ迫して、よろしくないと思うのだが。

「んぐ、ぬかりはありません。大丈夫ですよ」

「……んん? ぬかりない、とは?」

「ちゃんとあるということですよ、水分が」

「どこに?」

「ここに」

 言うて壱さんは「よっこいしょ」と起立し、両の足を肩幅に開く。そして一切の迷いなく着物の裾を大胆にはだけさせ、ふとももの内側をあらわにする。

「おおろろろろっ!」

 なかなかどうして悩ましい極めてギリギリなかんじでふとももの内側をあらわにしたりして、壱さんいったいナニをするおつもりなのんっ?

「どうしたのですか、刀さん。いきなり愉快なお声を発したりして」

「どうしたって、それは壱さんがっ――」

「はい? 私が、なんでしょう」

 壱さんは不思議そうな表情を浮かべて述べつつ、着物の裏地を活用した裏ポケットへ手を伸ばし、竹筒っぽい細身の水筒を取り出す。

「……なんでもありません」

「うん?」

 我が返しに、壱さんは少し眉根を寄せて小首を傾げるも、

「そうですか?」

 とくに追求するつもりはないようで。さっと着物の裾を正して、腰を下ろす。

 それから巾着袋を持っているほうの手で水筒の栓を抜き、口をつけ、

「こくりこくり」

 と、のどを小さく鳴らして水を飲む。枯れ井戸の底というひっそりしたこの状況じゃなかったら、たぶん聞こえていなかっただろう。

「ぷはぁ――あっ」

 飲んでからなにか気がついたのか、あるいは思い出したのか、壱さんは口の端からこぼれた水の滴も拭わずに、わたわたと口を動かす。

「“これ”ひとつの水の量はけっして多くありませんが、大丈夫ですよ、刀さん。あとふたつありますからねっ。長期戦に突入してしまったとしても、しばらくは戦えますっ」

「なるほどー」

 短期決戦であることを願いますけどっ。

 ともあれ。お豆を喰った壱さんがのどを渇かさないのであれば、なによりです。

 ――それにしても。

 と、さして脈絡もなく思ってしまったことがある。

 なんだか“ドラえもん”っぽいな、と。

 壱さんが身にまとっている着物の主色が紫というのもあってか、なんとなくドラえもんを連想してしまったのだ。色の系統も似ているし、なんかちょいちょいモノを出すし、食べ物に強い執着があるところも共通項に思える。

 あと、位置関係もどことなく、のび太とドラえもんのそれと似ている気がする。主に、オレが頼りっぱなしなところとか……。

 ……閑話休題。

「ちょーっと、失礼しますよっと」

 壱さんのお口の端が濡れているのがどうにも気になったので、そんな断りをいれつつ、けれども返答は待たず、拭わせていただく。

「むぐ、むぐむぐ」

 なにを言うでもなくされるがままでいて壱さんは、拭うのが終わると、

「ふふ、どうも」

 と微笑み、お豆に手を伸ばしてつまむ――が、

「あ、ところで刀さん」

 いざお口に放り込まんとしたのを一時停止して、思い出したふうに声をかけてきた。

「はい?」

「じつは私も、気になることがひとつありまして。お訊ねしたいのですが、よいですか?」

「ええ、そりゃ、もちろん。どうぞどうぞ」

「“どらえもん”って、いったいなんなのですか?」

「えっ?」

 まさか壱さんの口からその名前が出てくるとは思わず、かの作品は次元の壁を超越して愛されているのかっ、と素で驚いてしまった。

「いまさっき、とても小さな声でしたけれど、刀さんおっしゃっていたでしょう。私がその“どらえもん”っぽい、と」

「え……ああ、ああっ、なんだ、そうか、考えが口から漏れてたんですね。驚いたぁー」

「うん? 驚いた?」

「いえ、こっちの話です。それで“ドラえもん”ですけど……んんーと、そのう……」

「言えないくらい“いやらしい”ことだ、と。なるほどなるほど。そうですかそうですか」

「まったく違います、けど……その、言うには少し難しいというか、どう説明したらよいのかなぁーと。オレの生まれ育ったところではとても有名な、創作物語の登場人物――いや、正確にはヒトじゃあないんですけど、その名前なんですよ」

「ほうっ、ほうほうほう、じつに興味深いですねっ。それはどのようなお話なのですか?」

 そう言って壱さんは、さっき一時停止したお豆を口に放り込み、映画館でポップコーンをつまみに映画を楽しむ子どものノリで、「ぬふふ」と身を乗り出してきおった。「言い難いようでしたら、無理に言う必要はないですけれども」と控えめな音声で付け加えて、いちおう逃げ道も用意してくれる。

「いえ、お話自体は難なく話せるんですけど……“ロボット”って聞いて、なんのことだかわかりますか?」

「さっぱり、わかりません」

「じゃあ、“からくり人形”は?」

「“ぜんまいバネ”や“糸”などをもちいた仕掛けで動作する人形、ですか?」

「おお、“からくり人形”は通じるんですね。“ロボット”は、“それ”のとてつもなくすっごいヤツのことなんですよ。まるでヒトのようにふるまったり、会話できたり」

 まま、“正確/現実的”な説明ではないけれども、“ドラえもん”のストーリーを話す前置きとしては、これでいいだろう。

「ふぇ~、私の想像力では補いきれないですけれど、なんとなくわかった気になっておきます」

「とりあえず“いまの”を頭の片隅に置いて、聞いてくださいね」

 そんなわけで。

 せんえつながら我が個人的な解釈というか意訳の“ドラえもん”を、語らせていただく。

 ちなみに、ドラえもんの見てくれに関しては、自称はしなやかな四肢の化け猫だが、実際はずんぐりむっくりな化けダヌキ型の“ロボット/からくり人形”である、と表現してみた。そのほうがわかりやすいかな、と思ったので。

 概要といまだ記憶に残っているお話を三話、じつにザックリと語る。

 壱さんはお豆をつまみつつ、ときおり「ほう」とか「へえ」とか「ふむ」と相づちを打ちながら聞いてくれた。そして、

「なるほど、とても興味深いお話ですね。刀さんの故郷の“文化/暮らし”を経験したことがないので、少しわからないこともありましたけれど……より強く、刀さんの故郷に関心が湧きましたよ」

 と、感想をくださる。オレ的にはまったく予想外の、とても真摯な表情と言葉遣いで。

「そんな真面目ふうになるようなお話――でしたか? 話しておいてアレですけど」

「どのように受け取るかはヒトそれぞれですよ、刀さん。ドラちゃんの多彩な“ひみつ道具”のおもしろさに純粋に心を踊らせるヒトもいるでしょうし、のびくんが苦労もせずに“特別な力/特別な立場”を得られるのはよろしくない――この話は受け取った者に悪影響を与える、と考えるヒトもいるでしょう」

 幼少の頃から当たり前のようにアニメ版がテレビで放映していて、それを「ぼへー」と眺めていただけのオレには、いまの壱さんの“意/反応/受け取り方”は、なんとも新鮮に感じた。

 だから、もう少し深く“意”を知りたいと思って、

「壱さんは、具体的にどう受け取ったんですか?」

 とくに逡巡することもなく、催促するための訊く言葉を述べていた。

「私は……」

 と壱さんは、なぜか自嘲的な微笑を浮かべて言う。

「“うらやましい”――と思いました、とても」

 のび太の立ち位置に憧れる子どもの“それ”とは、“なにか”が異なって聞こえた。至極感覚的な、“気がする”程度のことなので、その“なにか”について明確に述べることはできないけれども。

「それはそうと、刀さん」

 転じて、壱さんは少しムッとしたふうを装い、

「先ほどは声が小さかったので、ハッキリとすべてを聞き取ることができなかったのですが、刀さんは具体的にいったい私のどこが、ずんぐりむっくりな化けタヌキ型の“ろぼっと/からくり人形”であるドラちゃんっぽいと思ったんですかねっ? ずんぐりむっくりなドラちゃんっぽい、とっ?」

 明らかに“ある一点”に的を絞った思い込みに由来する問いの言葉を、ちゃんと受けないとこっちがケガしちゃう豪速球がごとく、ぶん投げてきおった。

 慌てず騒がず落ち着いて受け止め、

「それはですね――」

 間違いなく受け取ってもらえるように、ふわっと投げ返す。まさか“ある/所持している”と思っていなかったモノを不意と出現させるところが云々、と。

 壱さんは重大な事案を取り扱う裁判官のごとき神妙さで、我が証言を聞き取り、

「……ふむ」

 と小さくうなずいて、ちょこっとだけぷくっと膨れていたほっぺを元に戻してくれる。

 どうやら、正しくご理解していただけたようだ。

「これで旅をしていま――した、からね。これは“最小/最少”で“最大/最多”の機能を求めた、ひとつの“結果/成果/結晶”なのですよ」

 自分のとっておきを誇る――というよりは自慢する子どものような顔をして壱さんは、着物を強調するふうに襟先をちょいと引っ張りながら言って、

「……おや?」

 急に、首を傾げる。

「どうしたんでうっ!」

 突発的に首でも痛めちゃったのかしらと思い、お訊ねしようとしたらば、

「しぃ~」

 お豆を巾着袋ごと口にぶっ込むという斬新な手法によって、阻止されてしまった。

「どうやら、“そのとき”が来たようですよ。刀さん」

 壱さんは“首を傾げたまま/耳を上方へ向けたまま”、抑えめな声量で発音する。

 それがなにを意味するのか、脳ミソより先に聴覚のほうが正しく理解した。

 微かに、けれども確かに、壱さんとオレの名を呼ぶ声が聞こえる。

 個人的にはザックリと短めに編集して語ったつもりだったが、実際はそれなりに時を喰っていたようだ。直上にある円形に切り抜かれた空も、気づけば夜の色が濃い。

「のどの準備はよろしいですか?」

 重要な局面において慎重さあるヒトのふうで壱さんが、確認してきた。

 いまだ熱心にお豆と巾着袋の味を教えてくれている親切な手腕を、ふわっとつかんでゆっくりと引き離してからオレは、

「ええ、そりゃあもう」

 ウソ偽りなく正直に、

「バッチリ過ぎて」

 報告する。

「のど、カラッカラです」

 巾着袋の布がいい感じに口内の水分を奪ってくれちゃったので、のどちんやら舌やらがピタッピタッ引かれ合っちゃって、どうにもよろしくない感じである。

「まあっ」

 それが大事であるかのように、ことさら驚いたふうな表情を浮かべてから壱さんは、

「はい、刀さん、お水をどうぞ」

 先ほどの竹筒っぽい細身の水筒を、差し出してくれる。ポソリと最後に、「私の、飲みかけですけど……」とこぼしながら。

「おお、ありがとうございます」

 感謝しつつ水筒を受け取り、速やかに口をつけ、飲む。水筒の容量が少ないのもあって、一口と少しですぐ空になってしまった。けれども、砂漠の地にやっと降り注いだ雨水のごとく、“潤い/水分”はしかと口内に染みわたる。

「あー、あー、んっ、うん。よしっ」

 コンディション・チェックの結果も、じつに良好。

 よりよい成果を追求し、拡声器に見立てた両の手を口にそえる。そして肺に空気をたらふく吸い込み、満を持して叫――ぼうとしたら、

「あっ! おお姉ちゃんっ! こ、ここんなところに、あ、穴があるようっ!」

 というバツの驚きある声と、

「どこ?」

 というツミさんの落ち着いた声が、わりと近く聞こえた。

「こ、ここだよう」

 ぴょんぴょん飛び跳ねていそうな揺れのある音声で、バツが言う。

「危ないからそのまま動かない」

 ツミさんは“弟”をピシャリとたしなめ、

「あら、本当に――あ」

 けれども納得したふうな音声を発したと思うたら急に、言が止まった。

「ハハッ、どうもー」

 いちおうの礼儀としてオレは、とびっきりの笑みを浮かべてご挨拶してみた。放出しそこなった“満を持した叫びの勢い”を、余すことなく活用して。

 枯れ井戸の中をのぞきこむ姿勢で一時停止していたツミさんは、なんとも苦いふうな笑みを浮かべ、

「……縄、取ってくるわね」

 やれやれと言うときの口調で言葉を残し、我が視界から姿を消す。

 そして視界の外で、ツミさんがバツに事情を話しているのが聞こえてきた。どうやらバツは枯れ井戸の位置を見失わぬための目印としてこの場に残り、ツミさんが縄を取りに行くようだ。

「あ、ほホントだっ! とトウお兄ちゃん、イチおお姉ちゃん、だ、だ大丈夫?」

 円形に縁取られた空の内にひょこっと、たれ耳のウサギ――を思わせるツインテイルなバツが、心配するヒトの顔をのぞかせる。潤んだ瞳が、その背後にある夜色の濃い空の星がごとく煌めく。

「うん、大丈夫だよっ」

「大丈夫ですよー」

 オレは笑みを浮かべ、壱さんはお豆をつまみながら告げて、心配無用なほど健康であることを知らせる。

「あと、危ないので、のぞきこまないで少し離れていてくださいね。刀さんも私も、大丈夫ですから」

 壱さんは柔らかい口調で、顔をのぞかせているバツに注意する。直上からの音声とそれ以外は耳触りが異なる――等々から、現状をよくよく把握しているようだ。

「うん、わわわかった」

 バツは素直に聞き分け、円形の縁の外へ顔を引っ込ませる。

 フォーカスする対象が視界の外へ消えたことで、その背後にあった空がその存在を主張するふうに鮮明さを増す。

 もうほとんど夜の表情をしているが、星々の明かりのおかげか真の闇には程遠く。枯れ井戸の底にあって、薄暗いながらも自分の手元を認識できるくらいである。バツが枯れ井戸を発見してくれたのも、たぶん不幸中の幸いにしてこの明るい星々の恩恵だろう。

 ――と、そんなかんじで空を眺めていたら、自分が思わず鼻歌を歌っちゃっていたことに気がついた。

 選曲は、皆さんご存知、『見上げてごらん夜の星を』である。

 ……まあ、現状でご存知なのは壱さんだけだが。

 ツミさんが縄と共に戻ってくるまで、とくにこれといってすることもないし、壱さんもバツも聞きたくないと訴えてこない。

 だから、なんとなく、鼻歌を続け――

「そろそろ、上ってきてくれるかな?」

 咳払いのあとに、なんぞあきれたふうツミさんの声が聞こえ、

「え、あ、おおう?」

 さらに、袖口をちょいちょい引っ張られる感覚にも呼ばれて、

「おっとう……」

 意識というか認識が“いま/現状”に追いつく。

 いつの間にやら、目の前に縄が垂らされてあった。退屈を訴えるネコのしっぽのように、ゆらゆら揺れている。

 ちょっと――いや、かなり、気分がよくなっちゃって、なかなかの時間、鼻歌の独唱会を開催し続けてしまっていたようだ。我に返ると、なんともこっ恥ずい……。二曲目を突破して三曲目から四曲目へ至ったあたりで、どうして自覚しなかったっ、自分っ。

「刀さん」

 壱さんが袖口をちょんとつまんだまま、言うてくる。

「へい?」

「いまの歌、あとで教えてくださいね」

「え? う、はい……わかりました」

 恥ずいと思ったことを素朴にお求めされると、なんか、こう、けっしてイヤじゃないけれども、どうにも素直に「いいですよ」と言えない複雑な気持ちになるのだわ。

 ちなみに二曲目は、いまのさっきなので、“ドラえもんのテーマ”だったりしました。

 まま、それはそれとして。

「とりあえず、ここから出ましょうか」

 ネコのしっぽ然としている縄をつかんで引き寄せ、

「というわけで壱さん、どうぞ」

 我が袖口をつまんでいるその手に、お渡しする。

 ――が、しかし。

「いえ、刀さんが先に上ってください」

 壱さんは手に触れた縄を、軽く押すようにして我が手に返してきなさった。

「なにゆえっ?」

「刀さんが上っている途中でずり落ちてしまった場合、下から支える必要があるので」

 ほんの一瞬だけ言葉を選ぶような間を置いてから壱さんは、けれどもぴしゃりと言う。

 こう、ズバリ言われると、先ほどとは性質の異なる複雑な気持ちになるのだわ……。

 まあ、握力とか腕力とか身体能力からして、上る際に自分がもたつくであろう自覚はあるので、真っ向から「そんなことになはらない」とは否定できない。見栄を張るつもりもない。“自分のこと”は、それなりにわかっているつもりだ。

「大丈夫です」

 だからこそ、返す言葉はスルリと出てきた。

「自分の握力とか腕力――身体能力は、充分に考慮しました。その結果、壱さんに先に上っていただいたほうが“はかどる”、と考え至ったんです」

 考慮して、考え至ったのは、言われたあとの“いま”だけれども。

「ん? んん? それは……どういうことでしょう?」

「例えばの話ですが」

「はい」

「壱さんの鼻先に“美味しい食べ物”があったとして」

「ええ」

「“ある課題”を終わらせたら、鼻先の“それ”を好きなだけ食べられるとします」

「ふむ」

「鼻先に“美味しい食べ物”がある場合と、ない場合、どちらのほうが“ある課題”を早く終わらせられそうですか?」

「自分に課せられた“やらねばならぬこと”の“でき/内容”に、ご褒美の有無で差を生じさせるつもりはないです――が、やはり、ないよりはあったほうが、嬉しくなって少し早めに終わらせられるかもしれませんね」

「でしょう。つまり、そういうことです」

「はい……ふぇ? いったい、なにが“つまり”で“そういうこと”なのですか」

「壱さんが先に上ってくださると、オレの顔の前に“壱さんのお尻”という名の素晴らしき絶景が現れるわけですよ。オレは“それ”を拝みながら上るわけですから、こう、ぐっときて、一段と“はかどる”のですっ。ですから壱さんっ、ここはオレのためにっ、なにとぞ、なにとぞ、お先にっ」

 顔の前に“ニンジン/美味しいエサ”を吊るされたお馬さんのごとく、本能から全力を尽くせる自信があるのだ。根拠はないけど。

「…………せめて」

 我が説を聞いた壱さんは、なんぞガッカリしたふうな顔をして、

「もう少し、かっこうをつけてくださいよう……」

 と、控えめに口を尖らせる。

「自分に素直な、飾らない性分なもので」

 キメキメのエヘン顔で言って、「どうだっ」とばかりに胸を張ってみた。

 そんな我が態度を“聞いて/受けて/感じて/察して”壱さんは、なにか意をぶん投げたそうに眉根を寄せ、

「……もう」

 けれどもすぐに眉間のシワを消して、困ったふうに眉尻を下げる。

「わかりました。では、お先に失礼させていただきます」

 どうやら、これ以上、言葉を並べても無駄であると悟ってくれたようだ。

 縄を渡すと、今度はちゃんと受け取ってくれた。どことなく、やれやれというふうが感ぜられた――が、たぶん気のせいだろう。

 縄を下方にグイと引いてみたり、井戸の石積みの壁をペタペタ触ったりと、確認作業的なことをおこなってから壱さんは、

「あ、でも――」

 と思い出したふうに、イタズラ小僧みたいな笑みを浮かべ、

「そう簡単には、食べさせてあげませんからねっ」

 言って、こちらに向けた自らのお尻をペチンッと軽く叩く。

「おおう」

 さっきのはあくまでも“例えば”のお話であって、そういう“食べちゃうぞ”的な意で述べたつもりはないのだけれども……。ダメと言われると、より関心を懐いてしまうのがヒトの“本性/本質”というか、

「それはそれで、追っかけるかいがあるってもんですよっ」

 そう言われると、意図していなかったのに、目指すところができたような気がして、なんか向上心っぽいモノが刺激される――のは、オレだけかな?

「ふふっ」

 壱さんは笑いをひとつこぼしてから、上り始めた。縄をつかんだ手腕で身体を引き上げるだけではなく、石積みの壁――石と石の合わせ目に足先を引っかけ、脚を手腕と連動させて身体を押し上げる。

 あまり井戸の壁に突っ張るような体勢をしていないので、上っている途中の壱さんの身体は壁に対してほぼ平行に、まるで壁面を“這っている/匍匐前進している”かのごとく上昇してゆく。

「ほぁ……」

 そんな後ろ姿を見上げてオレは、

「すごいわぁ……」

 全力で本能から“絶景/壱さんのお尻”を拝み楽しむ――よりも正直、据え付けハシゴを上っているような気楽さでちゃっちゃと地上へ向かう、壱さんの“背中/能力”に改めて、あこが……見惚れてしまっていた。

 壱さんの上る動作が淡々粛々としていて大胆さがなく、裾がはだけて“真の絶景/生なふくらはぎ/生なふともも/生なお尻”が「こんにちは」しちゃう気配が一切ないから、よりその“背中/能力”が際立って映り、そんなふうに意識してしまったのかもしれない。

 ――って、見上げてるだけでじゃなく、とっととオレ自身も地上へ向かわねばっ!

 とは思うものの、よくよく考えてみれば、縄をつたって壁を上るなんてアクティブなことした経験がなかったのだわ……。

 さて、どうしたものか。

 小さく揺れる縄を手に取り、ニギニギして実物の触感を確かめながら考えてみる。

 ちなみに縄の形状と触感は、そんなに太くなく、固くない。太さ的には、スナック菓子の“うまい棒”よりやや細身といった握るのにほどよい感じである。しかし“うまい棒”のようなサクサク食感なふうではないので、触感は……なんだろう、もっすごく柔らかいというか緩い、産毛の生えちゃった“ちくわ”といったところか。

 ……自分で例えておいてアレだが、“そんな状態”の“ちくわ”を想像してみたら、ちょっと気分が悪くなってきた……。大型動物のしっぽとかでよかったじゃないか、オレよ。

 ――なんて。

 そんな至極どうでもいいことに、わざわざ脳ミソを使用している場合じゃなかった。もっと効果的に活用しなければ。

 というわけで、答えなりヒントなりはないものかしらと前後左右上――を見やれば、

「はやっ!」

 井戸の壁を三分の二ほど上った“高さ/位置”に、壱さんのお姿があった。下から見上げたかんじでもう少し――ヒトがひとり手腕をいっぱいに掲げて背伸びをした全長くらいの高さを上れば、地上に至りそうである。

 壱さんがはやすぎるのか、それとも単にオレがまごまごし過ぎたのか――いや、両方か。

 ――そんなことよりも。

 経験したことのない、知識のストックがないことをいくら考えても、“適当な解決策”をポンッと発想できるわけがないので、

「……よしっ」

 ここは偉大な“先人/上方を行くヒト”にならって、行動するとしよう。

 いざ縄をつかんで上らん――としたとき、ふと意識した。下方のオレがジタバタして縄を揺らしたりしたら確実に、上方を行く壱さんの邪魔になってしまうだろう、と。

 なので、壱さんが地上へ到達するまで“少し”待つことにする。

 ――そして。

 事実、待ち時間は“少し”しかなかった。壱さんはあっさりと地上へ到達し、疲労の色がこれっぽっちもないお顔を見せてくれる。

 ――が、“それ”とは異なる色が、お顔には滲んでしまっていた。

「刀さん、大丈夫ですか? なにか問題が起きたのですか? まったく迫ってくる気配を感じないのですが……」

 この色の“顔料/原料/原因”は間違いなく、オレのケアレスミスだ。

「大丈夫ですよっ! なんら問題なんて起きてません。……ただ」

「ただ? なにかあったのですかっ?」

「いえ、その、つい……壱さんのお尻を凝視する作業に没頭しちゃっただけです。えへっ」

「…………」

 好ましくない色を滲ませてしまった罪悪感……というとアレだが、そんな手前、ウソ偽りなく“本当のこと”を、ウイットに富んだふうな言い回しで述べてみた――のだが、

「あのう……壱さん、すぅっと無表情になるのだけは勘弁してください」

 あきれるとか、ムッとするとか、そんな贅沢は望まないから、せめて眉をピクッと動かすくらいの反応はしていただきたかった……。

 そんな我が心情は届いていないのか、

「さて」

 壱さんはなにごともなかったかのような自然さで、

「枯れ井戸をこのままにしておくと危ないですし、埋めちゃいましょうか」

 なんぞ物騒なセリフを、埋めるための土に先んじて放ってきた。

「ま、待って! 待ってください! はやまらないでええええ――」

 本気でやるわけがないとはわかっていても、お茶目な壱さんである。リアリティをとことんまで追求した冗談を「えへっ」とやらかしそうで、どうにも余裕でいられず。地上へ至るための縄を引っつかんでオレは、「やめてくだせぇ」と進言するためにお茶目さんの隣へ向かう。尻に火のついた勢いで、ロケットのごとく。

 ――そういえば。

 壱さんの“なにか”について、なにかしようと思っていたような気がするが……なんだったっけか……。

 上りながら“それ”を思い出そうとしてみたが、

「はぁはぁ……」

 どうにか地上に到達したオレは、

「っんぐ、ふぅ」

 正直、それどころではなかった。

 手腕を主として、全身の筋肉がプルプルと小刻みに笑いおるのだ。なんてことないですよ、と余裕あるふうを装いたかった司令塔たる脳ミソの命令に反して。

 なんかもう、このまま大の字に寝っ転がりたい。地べたに茂る雑草が、とても寝心地の好い高級な敷物に思え――って違う、ダメだ。どうにか誘惑を振り払って、現在の四つん這い姿勢をギリギリ維持する。

 地上へ至る最後のところも、本当に“あと少し”で地上に触れられるというのに、全身の筋肉が笑い始めちゃってその“あと少し”を上れず。結局、壱さんとツミさんに引っ張り上げてもらう始末……。

 どうして、こう、“いま少し/いま一歩”が“届かない/足りない”のだろうオレは。

 ガッカリだわ……。

 雑草の葉に視線を落としているだけのはずなのに、なぜだか鏡をのぞきこまされているような心境である。それも、目をつむってもしかと見せつけてくる容赦のない鏡を。

 不意にふわりと柔らかく、背中に温もりが触れるのを感じた。

「最初は口内を湿らす程度にして、ゆっくり飲んでくださいね、刀さん。いっきに飲むと、吐いてしまうことがありますから」

 という言葉に合わせて、つい最近お世話になったばかりの水筒がぬっと顔の前に現れる。

 これ幸いと“雑草の葉/容赦のない鏡”から水筒、それを持っている手腕、肩口、のど元、ほっぺ、お顔へと意識を逃し、

「ありがとうございます、壱さん」

 感謝を述べつつ水筒を受け取り、姿勢を正してから、口をつける。いっきに浴びるように飲みたい衝動に駆られるが、事前の注意を努めて意識し、ゆっくり飲む。

 熱くもなく冷たくもない適度に生温いお水はすんなりと、身体中に染みわたる。

「ほぅ……」

 草や枝葉のささやき声をともなった夜のそよ風は、ほてった身体に心地好く。壱さんが恵んでくれたお水の潤いとの合わせ技で、みるみる疲労感を取り去ってくれる。

 これでそよ風に若干の腐ったタマゴ臭が混じっていなかったら、なおよかった――というのは、ちと欲張り過ぎか。

「それで――」

 ここまで苦笑気味に見守っていてくれたツミさんが、

「“これ”、どうやって埋める?」

 表情を真摯なモノに転じて、言った。

「そうですねぇ……」

 それを受けて壱さんも、

「うーむ」

 真面目な顔になって、眉根を寄せる。

 我が背に触れてある壱さんの手が、赤子をあやすときのそれのようにポンポンと柔らかくリズムを刻む。――が、この場合は、どちらかというと、熟考するとき手に持ったペンで机をコンコン叩いてしまう無意識なそれだろう。

「……えっ?」

 ふたりのやり取りには冗談っぽさが一切、感ぜられず。

 さっきの“ウイットに富んだふうな言い回し”は、そんなにもダメだったのかな……。

「オレ、埋められちゃうんですか?」

 背中に感じていたリズムがピタッと止まり――同時、

「…………」

「…………」

 壱さんとツミさんが息をのんで黙った。

 バツは状況がよくわかっていないのか、頭上に疑問符の浮かぶ微笑み顔で各人に視線を投げている。

「なんとっ! 枯れ井戸の底に身を置きすぎて、枯れ井戸の気持ちがわかるようになったのですかっ? 刀さんっ?」

 幼子のたわいない“発見/自慢”に「まあっ!」と応じる母親のごとく、壱さんは努めて仰天に満ちた表情をして言うてきた。“なにか”を堪えるように、口元をピクピクさせながら。

「ええんっ? いつの間にそんなすごいことできるようになってたんだっ! オレっ!」

 まさか、事ここに至って、しかもなんの脈絡もなく、創作物語の主人公がごとく秘められた能力が覚醒するとは……。

「――って、そんなわけないでしょう。なんですか、枯れ井戸の気持ちがわかるって」

 ある意味ではすごいけれども、微妙を通り越して、残念無意味。というか、至極限定的で実用性がまったくない。それになにより、ロマンがクマムシほども感ぜられないのが、どうにもいまいち好ましくない。

「なんですか、って」

 壱さんはつつぅ~と背骨にそって指を上へはしらせ、

「とんちんかんの言い出しっぺは、刀さんでしょうに」

 首筋を舐めるように経由して到達したその指で、我が頬をツンツン突っつく。

「…………え?」

 いったい、なにをおっしゃっているのだろうか。

 ――という我が反応が想定外だったのか、

「…………ん?」

 壱さんはニヤリ顔のまま疑問符を頭上に浮かべ、眉根を寄せる。

 なにやら認識にズレがあるっぽいので、慎重に言葉を選んで確認――したらば、

「ぷっ、くふふふ、はははははは――」

 結果、笑いのツボを刺激することになってしまった。壱さんのみならず、ツミさんも口元を手で隠して控えめに笑ってらっしゃる。

「突然おかしな冗談を言ったと思ったら、まさか本気だったとは。おもしろいところで真面目というか律儀というか……ふふ」

 おとなしいネコをイラッとさせて反応を楽しむ子どものごとく、うりうりと我が頬を突っついてきおる、壱さん。

「ぬぅ……」

 ネコパンチをかます彼ら彼女らの“そのときの”気持ちが少し、わかった気がする。

「それとも刀さんは」

 すねたいのはこっちのほうなのに、どうしてだか壱さんがすねたふうに口を尖らせ、

「私なら本当に“刀さんを”埋めちゃう、と」

 責めと探りの混在する音声と表情で、もにょもにょと言うてくる。

「そんなふうに思って――」

「いやー、我ながらおかしなこと言っちゃったなー」

 壱さんのお姿がない明後日の方角に全力で顔を向け、ちょっと大きめの声で言い、

「うっかりうっかり、つって。ハハッ」

 自らの後頭部に手をやって、戒めるようにベチベチと音を鳴らして叩いてから、

「ん、でも、だとすると、あっれれぇ~?」

 またちょっと大きめの声で、いま気がついたかのようなノリをかもしつつ、

「壱さんとツミさんは、“なにを”埋めることについて話し合っていたのでしょう?」

 もはや返ってくる言葉がわかりきっている“そんなこと”をあえて、お訊ねする。もう気になって気になって辛抱堪らんっ、という声色を装って。

「“なにを”って、刀くんを除いたら、“これ”以外になにがあるのかしら?」

 いぶかっているふうのニヤリ顔でツミさんが、言葉を返してくれた。茂る雑草の中に姿を隠す枯れ井戸の口を足で踏み叩き、音で“これ”と示しながら。

「ですよねー」

 と自称するところの満面の笑みを浮かべつつ、改めて“話題の中心”へ視線をやる。

 オレが知っている限りにおいての井戸の口は、せめて膝下の高さまで石積みされてあったり、あるいは簡素でも囲いが設けられていたりする。――のだが、ここにはそれがなく。

 ポッカリ開いた井戸の口は、いまも当然のように地べたの一部になりすましてそこにあった。それも、雑草で姿を隠して。

 これが果たして朽ちた結果なのか、あるいは元からこういう造りなのかはわからないが、事の当事者のひとりからすると、これはもう悪意ある巧妙な落とし穴でしかない。

 このままにして放置するのは、よろしくないだろう。

「やっぱり地道に土をかき集めて埋めるしか、ないわよねぇ……」

 ツミさんが枯れ井戸をのぞきこみながら、頬に片手を添え、言った。これからの労を想像してしまったのか、表情がどこか疲れたふうである。

「いえ、それは私が――」

「あのぅ……」

 ひとつ思うところがあったので、意を述べようとしたらば、望まぬ息ぴったりさで壱さんと発言が被ってしまった。

「なんですか刀さん、埋まりたいのですか刀さん、のしかかってあげますよ刀さん」

「おおうっ、意味がわからない……」

 そして本当にのしかかってきおるんですね。

「……もしかして壱さん、怒ってます?」

「いいえ、まったく」

 大きいクッションなり大きなぬいぐるみにそうするがごとく、壱さんは鼻歌が聞こえてきそうなふうで身を揺すりながら、ニヤリとして言う。

「ただ、刀さんの反応を楽しんでいるだけですよ」

「ぐぬ」

「それで、なにを言おうとしたのですか? 刀さん」

「え、ああ、はい。それはですね――」

 のしかかる攻撃に耐えながら、意を述べる。

「フタをすれば、よろしいのではないでしょうか」

「埋めるのではなく、ですか?」

「そうです」

「うーん、いまから木を切り出して作るのは――」

「いえ、そんな手間隙かけたりせずに」

「……んん? フタを作らず、どうやってフタをするのですか?」

「扉のつっかえになってた長椅子とかを活用すれば、うまいこといったり――しちゃったりしないかなぁ、と思うのですが。どうでしょう?」

「ほう」

 ――そんなわけで。

 ツミさんにご助力いただき、扉のつっぱりをしていた長椅子や長方形のテーブルを運んできた。壱さんとバツにはその間、枯れ井戸の位置がわかるようその場に残ってもらった。

 長椅子は、円形の井戸の口の直径より縦幅が充分に長く。しかしそれに対して横幅は大学ノートのそれほどしかない。お風呂の湯船にするフタのごとく、複数横並びにして置いたらよいかなと思える。――が、惜しいかな、テーブルと比べると厚さが頼りない。

 長方形のテーブルは、井戸の口の直径より縦幅が少し短く。仮にひとつを中心に置いた場合、ギリギリ四隅が井戸の口に引っかかるかもしれないというかんじ。けれども厚さは長椅子をふたつ重ねたくらいあるので、強度は申し分ないだろう。これをふたつ横並びにして置いたら、いい具合にフタになりそうだ。

 ――というわけで。

 井戸の口に、足をへし折って取り除いた長椅子を横並びに渡す。そしてその上に、これまた足をへし折って取り除いた長方形のテーブルをふたつ並べて乗せる。さらにその上に、抱えるほどの大きさの石を重しとして置く。

 完全にピッタリ密閉できたわけではないが、これならうっかり落ちて困り果てるということにはならないだろう――と、思いたい。

 最後におまけで、折った足を井戸の周りに突き立てて囲いにし、ここに“なにか”あるっぽいとわかるようにしてみた。

 ちなみに長椅子とテーブルの足をいとも容易くへし折ってただの板にしてくれたのは、誰あろう、壱さんです。

 ――と、一段落したところでオレは、

「ああんっ! いかん……、どうしよう…………」

 一息を吐く代わりに“あること”に対して、そんな声を漏らしてしまった。

「どうしたのですか刀さん、いきなり」

 隣に立っていた壱さんは一瞬、肩をビクッと震わせてから、

「指に、トゲでも刺さっちゃいましたか?」

 気遣わしげに眉根を寄せて小首を傾げ、確認してくれる。

「え、いや、トゲじゃないです。というか、どこかケガしたわけじゃないです」

「そうなのですか? なら、よかった」

「なんかまどろっこい言動しちゃって、申し訳ない」

「いえいえ。それで? “なにか”――は、あったのでしょう?」

「あ、はい。そうです。そうなんですよっ。トゲなんかよりはるかに恐ろしいことに気づいちゃった――思い出してしまったんですよっ」

「あら、それは大変」

 いつもミルクティーには砂糖ふたつなのに間違えてひとつ多く入れちゃった的な、午後のひとときのそれがごとく“大変”を口にする、壱さん。

「いったい、どのようなことなのですか?」

 そんな壱さんの“認識/受け取り方”をピシャリと正す気構えでオレは、説明する。

 ――といっても、“よろしくない”ということはなんとなく知っているけれども、由来やら云われやらを詳しく事細かに熟知しているわけではないので、ザックリではあるが。

「水の神様に埋める断りを述べる儀式、魔除けのための儀式――ですか。刀さんの故郷では井戸を埋める際、それを執りおこなう、と?」

「そうです」

 区画整理だか再開発だかで工事をおこなおうとしている場所で、神主さんと工事関係者らが古ぼけた井戸を前になにか執り行っているのを数回、目撃したことがある。正しく具体的にどのようなことをしていたのかは、わからない。けれども聞きかじった程度の知識的に、“そのような”ことをしていたのだろうと思っている。

「でも、いま、それをやらないでフタしちゃったので……」

「よくないことがおこるかもしれない?」

「はい」

 べつに常日頃から信心深いわけではないけれども、いざ自分で“それに関すること”をやって一度、気にしてしまったらば、なんか頭から離れなくなってしまったのだ。“気にしすぎ/考えすぎ”なだけだろうとは、わかっているけれども。

「ふむふむ。刀さんが生まれ育ったところでも、井戸に対して“そのような考え方”をしているのですねー。おもしろい」

「……おもしろい?」

「“こちら”の国や地域でも、程度の差はありますけれど、井戸に対して似たような“特別な考え”があるのですよ。私の知る限り、ですが」

「そう、なんですか?」

「ええ。まあ、水は、ヒトの生活――ヒトが生きるために必要不可欠なモノですからね。井戸は、それを得るための重要なモノ。大事に扱うための決まりごとや習慣が、禁忌や儀式に変化して、“特別/神聖”になる――このようなところは、“そちら”と“こちら”でも通ずるモノが多いのかもしれませんね」

「ほぇ、なるほど」

「あ、それから、“断り”に関しては気にしなくても大丈夫ですよ。刀さん」

「どゆことでしょう?」

 こういうことに関して、“こちら”ではいろいろ寛容なのだろうか。

「さっき――刀さんがいろいろ運んでいるときにですね、いちおう断っておきました。危ないのでちょっとやっちゃいますよ、って。私が」

「……はい?」

「ですから、そんなに気にしなくてもだいじょーぶです。――気が回るよき妻だと、褒めてくれてもよいのですよ?」

 壱さんはエヘンと胸を張って言い、

「そもそも刀さん」

 と指摘するように人差し指を立て、言葉を継ぐ。

「私たちは“フタをしただけ”であって、“埋めた”わけではありません。それにもし仮に水の神様が怒るとしたら、フタをした私たちにではなく、なにもせずに放置して去った“ここのヒト”に対してだと、私は思いますよ」

「…………それもそう、ですね。確かに」

「まあ“そんな瑣末なことでいちいち怒ったりしないわ”と以前、聞かされましたけれど」

 壱さんは付き合いの旧い友のグチを聞かされたみたいな言い回しでポソリと、最後にそんなセリフをこぼした。

 そんな微妙な壱さんズ・ジョークに対して「またまたー」と述べる隙は、けれどなく。

「あっ! そんなことよりも刀さんっ!」

 星明りある静とした夜の空に鳴り渡る、じつに爽快な柏手をひとつ打って壱さんは、

「よき感じにお疲れでしょうし――」

 スタートダッシュをかます短距離走者のごとき瞬とした勢いで肉薄してきて、

「こんなところでまごまごしていないで早くっ」

 胸の前で両の手をニギニギしながら、わくわく笑顔の圧を放ち、

「私とよいことしましょーようっ!」

 楽しげなノリで、「ようっ!」と瞬間、握った両の手を、まるで肩をポンッと軽く叩くように前方斜め上へ突き出す。

「うっ……」

 結果、その握ったお手々が、我がみぞおちにメリッと刺さった。

 また突然、なんなのかしらこのおヒトは。

「さささのさあさあさあっ」

 と我が手を取って、どこぞへ行かんとする勢いの壱さん。

「ちょ、ちょっと待ってください」

 息が詰まっていたを気合でどうにかして、逆に壱さんの手を取って引き、制止する。

「うぬ? なんですか刀さん。私とよいことするのはイヤ、ですか?」

「え、いえ、まさかそんな」

 と言うと、なんか語弊がある気がしないでもないが、

「イヤだから待ったをかけたってわけじゃあ、ないんですよ」

 これに、“壱さんとよいこと”に対する“YES/NO”は関係ない。それとは異なる“ちゃんとした理由”があるのだ。

「では、なにゆえ?」

 壱さんは答えの予測ができぬ難問を出題されたヒトのごとく、むむっと眉根を寄せて、小首を傾げる。

「これからどこかへ向かうなら、壱さんには――壱さんはオレの後ろを歩いてください」

 枯れ井戸に落ちてしまったのは、事前に気づけなかった我が注意力不足が原因だ。だから、同じことを繰り返してしまわぬよう、自分にできることは微々でもやっておきたい。

「イヤですよ」

 壱さんはキッパリと、聞き違えることはありえないほど明瞭な発音で言った。

「どうして刀さんがそんなことを言うのかは、まあ察しがつきますけれど」

「じゃあ」

「しかし“それ”は正しくありません。“あれ”は私の――」

「いえ“あれ”はオレの――」

 という“オレ”と“私”を繰り返す押し問答を続けること、しばし。

「あのさ、そろそろ結論を出してくれないかな」

 ツミさんが、やれやれというふうに言ってきた。

「だって壱さんがあっ、と」

 事情を説明してあわよくば加勢していただこうとツミさんのほうへ顔を向け、オレは、

「だって刀さんが――むぐっ」

 ほぼ同時に、ほぼ同じことを述べようとしていた壱さんの口をふさいだ。

「むぐっ! むぐむぐぐっ!」

「しぃ~。壱さん、ちょっと落ち着いてください」

「……むぐ? むぐむむぐ?」

 なんとなく“わけあり”と察してくれたのか、壱さんは渋々といったふうにおとなしくなってくれた。

 ――ので、口をふさいでいた手を離す。

 理由を述べよ、という無言の圧をヒシヒシと感じるので、

「壱さんとオレの押し問答は――」

 むむっと待ち構えているお耳に口を近づけ、控えめな音声で伝える。

「どうやら、バツにとってはいい子守唄だったみたいです」

 ツミさんにおんぶされ、バツはその背ですやすやと安らかな寝息を発てていた。口元に流れたツインテイルの片方の毛先を、時たま「あむあむ」と味見している。

「あらっ……ふふ、そうなのですか」

 少しだけあった不機嫌なふうをさっぱり霧消させて壱さんは、柔らかに微笑む。“相手/子ども”を愛おしく思っているヒトの温もりが、ほわんとかんぜられた。

 そして愛でるような若干の間を置いてから、

「…………刀さん」

 至極真摯なふうある控えめな音声で、こちらの名を呼ぶ。

「はい」

「私の話を、聞いていただけますか?」

「もちろん」

「ありがとうございます」

 と、ひとつ微笑んでから、

「刀さんのお気持ちはとても、嬉しいのですよ」

 壱さんは落ち着きある穏やかな音声で、言う。

「でも私は、“私の歩み”の責を、私自身で負いたいのです」

 揺らがない“意”を語る瞳が、

「そうして自分の足で歩みたいのです、私は」

 星明り煌めく瞳が、

「刀さんの隣を」

 そこにあった。

 いまに対する“限ったモノ”ではなく、とても深いところから生じている“意”であるようだった。そう直感させる、“形容し難い説得力”が“そこ”から感ぜられた。

「…………」

 その前にあってオレは、“夜空の星を見上げているような感覚”に射貫かれ抱擁された。

 そして、気づかせてもらった。

 一方的な話を聞こうとしない“親切/善意”の押し売りほど、やられて心底ご勘弁願いたいモノは他にない。だというのにオレはいま、それをやらかそうとした――やらかした。しっかりと自らの足で地べたに立っている“ヒト/壱さん”に、オレなんぞが肩を貸そうとするなんて。壱さんには“壱さんの意による歩み方”があるのに、それを“オレの意による歩み方”に沿わそうとするなんて。余計なお世話なうえに失礼だ。……オレには将来、“過保護が過ぎる迷惑な親”になる“嬉しくない素質”があるのかもしれない。

 けれども、それでも、

「……扉を開けるとき、壱さん言ってたじゃないですか」

 いらぬとは重々承知しているけれども、

「“なにをしてくれますか”、って」

 なにかしたい、と懐いてしまうのだ。

「保留になってましたけど、思いつきました」

 だから改めて壱さんの手をぎうと握り、伝える。

「隣を歩く壱さんより“半歩、先を歩いてあげます”っ」

 相手の意に耳を貸さず、自分に従えとぬかすのではなく。だからといって、相手に合わせて自分の意を抑えるわけでもなく。相手の意を尊重しつつ、自分の意を通せたなら、それが一番よいことだろうと思った。

 ゆえに、“半歩、先を歩いてあげます”なのだ。

 具体的には……まあ、いまのところは、“よりいっそう気をつける”というモノで、今後どうにかこうにかしたいなぁ、という……。なんか“キャッチーな言葉/外枠”だけしたり顔で喧伝して結局、肝心の中身をなにも考えていない政治屋先生の発言みたいでアレだが、悲しいかなポンと一発で“正しいモノ”を出せるような知識も知恵も、いまの我が脳ミソには備わっていなかった。

 もし仮に突発的に“ひとつ”得られるとしたら、創作物語の主人公のようなカッコよい特殊能力ではなく、こういう場面において少しは機転が利く脳ミソが欲しいと切に感じた。……帰ったら、帰れなくても、もう少し真面目に“学ぶということ”に勤しもう。

「……刀さんは」

 我が口が“扉を――”と発したときには、どこか身構えているふうな若干の硬さが見えた壱さんの表情だったが、

「発想が器用貧乏ですね」

 いまは、甘くも苦くも取れる曖昧な微笑が浮かんでいた。

「おっとう…………。えっと、それはどういう――」

 意味ですか? という我が素朴な疑問は、

「よっと」

 けれども、壱さんがおもむろに踏み出した一歩によって、

「……あら? 私より半歩、先を歩いてくださるのでしょう?」

 つないでいた手をちょいと引かれたことによって、

「とぉ~さん?」

 微笑みながら小首を傾げて名を呼ばれたことによって、

「ええ、もちろんっ! “壱さんの半歩、先”は、壱さんにだって譲りませんよおっ!」

 優先順位のランク外まで超特急で下り、消えた。

 ちなみに、気持ち的には大きな声で言い放っているつもりだが、実際のところは“おねむ”なバツに配慮して、そよ風といい勝負な控えめの声量である。

 ――そんなこんなで。

 とりあえず最初の地点、長椅子とテーブルを設置した施設出入口まで戻ってきた。

 枯れ井戸から離れるとき、ツミさんが深い溜め息をひとつ吐きながら、微苦笑を浮かべて首を横に振っていたのが、どうにも横目に焼きついている――のだが、「どうかしましたか?」とおうかがいするのは、どうしてだろう、なんとなく、はばかられた。

 ツミさんがとりあえず寝床をセッティングし終えるまで、バツを預かる。お姫様抱っこ状態で我が腕の中にあるその寝顔は、筆舌に尽くし難いほど愛らしい。いま自分の顔が至極、緩みまくっている確信があるのだわ。

 という至福な時間は、瞬と終わる。

 まあ、厚手の毛布のようなモノを床に敷くだけなので当たり前だが。

 そっと慎重に、バツを寝床に横たえる。

「私はバツを見ているわ」

 寝床についたバツの寝顔をうかがい、

「だから、ふたりはご自由にどうぞ」

 顔にかかっていた髪を優しく払ってから、

「“ふたりで”、“よいこと”、――をするのでしょう? これから」

 ツミさんが、ニヤリとして言った。それから極自然な流れ動作で、種火とまだ余っている“材木/長椅子/テーブル”を手に、いま使用している長椅子とテーブルから少し離した場所へ移動。慣れた手つきでかがり火を灯す。

 施設内の壁には光を取り入れるための穴が多々あるし、なにより空間がだだっ広い。それに出入口も開け放たれているので、屋内ではあるが、火を扱っても息が詰まるということにはならない――と、思う。

「ふふ、ありがとうございます」

 長椅子の隅にちょんと腰掛けてお待ちいただいていた壱さんが、かがり火の温い明かりに彩られた顔で微笑み、ツミさんにそう述べた。

 なんでだろう。いまの極短いやり取りにおいて、ふたりの口から出た“言葉”はハッキリとわかるのに、“女性にしか解釈できない言葉”で会話されているような、どうにも形容し難い不思議で不可解な疎外感的錯覚を肌に感じてしまった。

「では、お言葉に甘えて。行きましょうか、刀さん」

 壱さんはそう言って起立し、

「“よいこと”を・し・に」

 と笑顔で、つなぐための手を差し出してきなさる。

「え、あ、はい」

 その手を取り、握ってつなぐ。そして再び“半歩、先”に陣取る――が、ここでひとつ、致命的な問題に気がついた。

「……えっと、行くって、いったい“どこ”へですか?」

 行く先を知らないと、半歩ですら先を歩むことはできない――いや、まあ、逐一、道順を確認しながら歩けば行けるけれども。しかしそれだと、半歩でも“先を行く”者として、いまいち締まらないというか、カッコ悪い気がしてしまうというか。

「場所は、この施設の一番奥にある――らしいです。なので、とりあえず真っ直ぐ、通路を突き当りまで進んじゃってくださいな」

「わっかりました。……ちなみに」

 行く先と合わせて当たり前のように知っておきたいことを、お訊ねする。

「“そこ”には“なに”があるんですか? よいことって?」

「それは――」

 壱さんはもう片方の手の立てた人差し指を自らの唇に添え、ニッと笑みを浮かべて、

「ヒ・ミ・ツ、ですっ」

 そんな返しをしてきなさった。

「到着してからのお楽しみ――いえ、この場合は、到着してからがお楽しみ、と述べるべきですかね。まあ、つまり、そーゆーことなのです」

 どうやら、事前に詳細を教えてくれる気はないらしい。ま、行けばわかるか。

「じゃ、期待に心躍らせる代わりに、踊るような小粋な足取りで向かうことにしますねっ」

「いえ、そーゆーのはよいです」

「おうふ……」

 バッサリさっぱり斬り捨てられたことにやや傷心しつつ、トボと普通に一歩を踏み出す。

 ――と。

 小さな水溜まりを楽しげに跳び越える子どもがごとき足取りで壱さんが半歩、ヒョイと我が先に躍り出た。

「……壱さん?」

 うかがうと、壱さんは「ぐぬぬ」と悔しげに眉根を寄せ、ほんのり朱色なほっぺをぷくっと膨らませた。それから転じて、

「どうしたのですかっ、刀さん」

 スッと一歩、後ろへ移り、

「まごまごしていないで早くっ、行きましょう」

 一切なにもなかったふうを務めて装い、言うてくる。

「はい……くっ、ふっ」

 可愛い生物を発見した反動で笑いそうになるのを、どうにか堪えながらオレは、

「わかりました」

 改めて、前進の一歩を踏み出した。

 ――終始無言を突き通して歩を進めても楽しくないので、

「そういえば」

 と、ちょっと前後する問いを投げてみる。

「どうして、壱さんが“この施設”のことを知ってるんですか?」

「んー、それはですねー」

 ちょい斜め後ろから、なんとも自然体な音声が“言葉/答え”を投げ返してきてくれた。

 なんでも、オレとツミさんが枯れ井戸のフタの材料を運んでいたとき、バツとお喋りする過程で施設内を探索したとりあえずの結果を聞いたようで。

 どうやら、その話の中に、“私とよいこと”につながる情報があったらしい。

 いったい、どういうことを聞いたのだろう?

 ここは元宿泊施設であるらしいから、ホテルでいうところのスイートルーム的な、最高級の豪華な部屋があった――とか、だろうか?

 いや、だとして、豪華といえどただの部屋である。それがどうして“私とよいこと”につなが……あ! あれか、さっき「お疲れでしょうし」と言っていたところからして、上質なベッドをもちいて、いつかのときのようにマッサージ的なことを――、そしてそのままアレでソレなことに――、なったりするわけないな。うん。

 施設は縦長な造りをしており、奥に広く。正面の出入口から真っ直ぐ貫くようにある通路の左右には、間にゆったりと余裕を持たせた等間隔さで、たぶん宿泊用の部屋が複数こさえてあった。

 ――そして。

 走る系の競技の屋内練習に使えそうな通路の突き当り――とりあえずの目的地には、落ち着きある装飾が施された、明らかに他とおもむきの異なる両開きの扉があった。“閂/横木”はすでに外されており、通路脇の壁に立てかけて置かれてある。ツミさんとバツが探索したとき、そうしたのだろう――たぶん。

 やっぱり高級豪華な特別室なのかなぁ、と思いつつ、

「失礼しまぁ――」

 扉を開く。

「……おっと?」

 開放と同時に、腐ったタマゴ臭がもわんと鼻孔にまとわりついてきた。反射的にしかめた眉間には、けれどすぐにべつの理由でシワを刻む。

「これは……外に出ちゃいますけど、このまま先へ?」

 扉の向こう側に部屋はなく、屋根付きの緩やかな下り外階段があった。星明りに淡く照らされた自然の中へ、薄暗い空間にのまれるように、階段は黙して伸びている。

「はい、そのまま進んじゃってくださいな。扉から出てすぐに下り階段が続いているらしいので、それを下ってください。その先に、“よいこと/お楽しみ”が待っていますよっ」

「おー、了解です」

 確認が得られたので、歩を進める。

 事ここに至って、いまさらながらに勘が仕事をしてくれた。いまここにある“臭い”と“雰囲気”の独特さは、日本人なら人生で一度くらいは経験して知っている“アレ”じゃなかろうか、と。

「あと二歩、踏み出すと階段です。一段一段の作りが低いです」

「はぁい」

 ――階段を下るにつれ、“臭い”と共に湿気も存在感をもわんと増してゆき、

「おおっ!」

 下り終えると、そこには確かに、“よいこと/お楽しみ”が待っていた。

 学校のプール数十個分ほどの広さ、自然公園にある手漕ぎボートで遊べる池のごとき広大さの、

「これはなんと贅沢な」

 それは、それが、露天風呂――温泉だったのである。

 温泉があるのかなぁ、とはいまさっき思ってみたが、まさかこんなにだだっ広いとはっ。

「どうですか、刀さん? なかなか広い温泉がある、というお話だったのですが」

「すっごいですっ」

 最初の扉を開くとき、“アタリ”云々と言っていたのは、つまり“これ/温泉”のことだったわけだ。……ということは、バツから話を聞く以前に、壱さんは“臭い”でその存在に気づいていたわけか……さすがだわ。

「きっと全力で泳いでも怒られな――おおうふ」

 素直な感想をちゃんと伝えようとそちらを向いたらば、

「あっ、じゃあ、泳ぎで競争しちゃいますかっ? 負けませんようっ」

 さも当然というふうに着物の前をはだけて半裸な壱さんのお姿が、間近から飛び込んできた。背面は着物の布でまだ秘められているのに、前面はお胸の頂点とおへそのくぼみの標高差が観測できるほどにご開帳という――この前面と背面との違い、コントラスト。湯気で髪の毛や肌がしっとりしたふうなのがまた、艶かしくて素晴らしい。どこか浮世絵にありそうなふうだ。

 我が返答をしかと聞き取るためか。おもむろに壱さんは、つないでいないほうの手を胸の前から側頭へ回し、肩口でテキトウに切られた黒髪を払って耳の後ろにかけた。

 ただそれだけの動作なのに、なんでだかその様が妙にゾクリと煩悩を刺激してくる。

「……刀さん?」

「えっ、ああ、はい、そうですね……えっと」

 確かめるように名を呼ばれてオレは意を戻され、おくればせながら顔をそむけた。果たしてどれくらい見蕩れていたのか、自覚がない。

「のぼせて鼻血を噴くのがオチですよっ、いつかのように。なので、遠慮します」

「そうですかぁ」

 壱さんはややしょんぼりしたふうな口調でそう漏らし、

「ま、ともあれ、それはそれとしてっ」

 転じて、遊園地のゲートをくぐった子どものごとく、ワクワクとウズウズの混在する爆ぜそうな明るい音声をぶん投げてきおる。

「早くっ、温泉を味わいましょーよっ」

 耳から入った明るすぎる声が、頭の中の煩悩ごと突き抜けたおかげでちょっとサッパリした――ところで、身体もサッパリするために、

「そですね、そうしましょう」

 ここらで、入浴タイムとあいなった。


「……あ」

「どうかしましたか? 壱さん」

「身体を拭くモノと着替えの存在意義を、すっかり失念していました」

「じゃあ、オレが取ってきますよ」

 と言って、濡れたまま半裸で駆けたがためか。その後、体調を崩して、壱さんとツミさんとバツに迷惑をかけてしまったのだが――

 それはまたべつのお話。


「――それにしても」


 表情にあった影を薄くして相方さんは、

「また懐かしいお話を」

 思い出を味わうヒトの柔和な微笑みを浮かべて、

「よく憶えていますね――記念日は“ついうっかり”忘れちゃうくせに」

 最後は少しだけすねたふうな口調で、言った。

「それは、お互い様じゃないですか」

「ふふ、確かに、そうですね」

「それに――」

「それに?」

「“諸々のこと”を“私の言葉”でしっかりと書き記したモノを、つい最近、読み返したので。なんだか、つい昨日のことのように思えるんですよ」

 私が“いま”へ続く“思春期特有の勘違い”をよりこじらせたのが、“あのとき”だった、というのもある。

 ただ、その“勘違い”が、当たり前のように“こちらからの一方的なモノ”でしかなかったと理解するのは、もっとあとのことだ。


 あの頃の私は、“彼女の正体”をまだ知らない。



《ザ・刀と壱の旅》 ~The Tou and Ichi's travels~

 第二部【承】終幕。

 第三部【転】開幕――

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