承/第四十二話:ムシムシ尽くし(其の二十九)
――そして。
ほどなくして客間に到着。
室内には、折り紙をしているバツの姿があった。ウサギの垂れ耳を思わせる黒のツインテイルが、楽しげにひょこひょこ動いている。
「あ、おおかえりなさい」
こっちに気づいたバツは手を止め、
「と、トウお兄ちゃん、イチお姉ちゃん」
柔らかな微笑みでお出迎えしてくれた。
「うんっ、ただいまっ、超ただいまっ!」
ぽわわ~んと温い気持ちに満たされつつ、オレはとりあえず壱さんをベッドの上に運んだ。「むにゃむにゃ」と口を動かしたりしているが、起きる気配はない。万が一にも寝冷えしてお腹を痛くされたら、どうしてだかこっちが困ったことになるような気がするので、毛布のようなモノをお腹にかけておく。
「い、イチお姉ちゃん、どどうかしちゃったの?」
眉をハの字に、瞳を潤ませ、バツが心配そうに訊いてきた。
本当によい子だなぁと思いつつ、オレは首を横に振り、
「壱さん、夕食まで寝るんだって」
と教えてあげた。
バツは安心したのか、「ほっ」と表情をやわらげる。
「あ、そうだ」
ひとつ、とても重要で重大なことを思い出した。
「夕食の準備が整ったら絶対に起こすようにって頼まれてるから、起こすとき、バツ、手伝ってくれる?」
もし万が一にも忘れたり起こせなかったりしたら、酷薄な微笑みを浮かべた壱さんに、「ちょっと歯を喰いしばって表に出ましょうか?」って優しい声色で外出のお誘いをされてしまいそうだからねっ。バツには、是非とも協力してほしい。“味方/心の支え”としてっ。
「うんっ」
守りたいこの笑顔、と心の底から思う素敵な笑みを浮かべてバツは承諾してくれた。
よっしゃあああ! これで確実! 備えあれば回避できるさ鉄拳制裁っ!
そして、いずれ起こされる件のおヒトは、
「でへっ、むにゃむにゃんにゃんっ」
守りたいこの寝顔、と心の底から思う平和な笑みを浮かべて、いまはまだ夢の世界を味わっている。
しばしそのお顔を鑑賞――
「と、トウお兄ちゃん」
なにぞ呼ばれたので、「ん?」とバツのほうを見やると、
「おお茶、どうぞ」
この百億点満点のよい子は、いつの間にやらお茶を淹れていてくれた。
なんでかしら、心が温くなり過ぎて目頭が熱いわ。
「ありがとうっ」
湯のみを手に取り、厳かな気持ちで口元に運び、ズズッと一口、全身全霊で味わう。なんてこった! でら美味いぜっ!
そんな美味しく淹れられたお茶を味わいつつ、「そういえば――」とバツに訊く。お姿の見えないツミさんの所在を、である。
「お、お姉ちゃんは、ゆゆ夕食のじゅ準備のお手伝いをしてるよう」
「そうかー」
訊いておいてアレだが、そうだろうなーとは予想していた。見事に的中したわけだが、そもそも予想それ自体に“意味/意図”がないので、なにがどうなることもない。なんとなぁ~くである。
……お茶を一口、――からのがぶ飲み。
とくにこれといってやることもないので、バツと一緒に折り紙でもしようかと思ったところで、「いやいや、他にやるべきことがあるだろう」と思い出す。
いずれ“関心ある異性”をひょいと“お姫様抱っこ”して、「おおう……、なんでこんな羽毛のように軽いんだ……」とか言えちゃうようになるために、いまは足腰を鍛えよう。
軽く身体を伸ばしたり準備運動してから、スクワットを始める。
足腰を鍛える方法ですぐに思いつくのがスクワットという無知安直さだけれども、なにもしないよりかは、やれることをやるほうが、極々微々たる距離でも“前進/漸進”できる――と信じたい。
ふんすふんすと生温かい息を吐きながらスクワットしていたら、くすぐったい熱視線を感じた。なんだろうか、と熱源のほうを見やる。
「じぃ~」
バツが、興味津々と瞳を煌めかせていた。
「えーと、その……」
くすぐったいうえに、なんだかいたたまれなくてスクワットどころではないので、
「こう、ね、衝動的に足腰を鍛えたくなってね」
と、ウソ偽りのない事実を伝える。
「ほえ~」
なんかもうそっとお持ち帰りしたくなる愛らしさで、バツは相づちを打つ。
けれども、くすぐったい熱視線はなくならない。
純真無垢な子に煌めく瞳で見つめられながら、ふんすふんす生温かい息を吐いてスクワットするとか、なんか新境地を開拓しちゃいそうだぜっ。――なんて、このまま行くと、後戻りできずに、変態王座への階段を三段飛ばしで駆け上ってしまう気がギンギンする。
まだ、というか永久に、そんな階段、駆け上りたくない。
どうする、どうしよう、どうしたものか、と真面目に考える。時たま「いいんじゃね?」とか語りかけてきおる“もうひとりの自分”にビンタかまして正気を取り戻しつつ、極めて真剣に考える。
「――そうだ!」
とても素晴らしい、非の打ちどころが一切ない解決策をひらめいた。
ちょいちょい、と手招きしてバツを呼ぶ。
バツは疑問符を頭の上に浮かべつつ、「な、なあに? とトウお兄ちゃん?」と好奇心溢るるほくほく顔で、我が目前まで来てくれる。
「ちょっとオレをいじり倒すように踏んで――じゃなくて、オレの上に乗ってほしいんだ」
「――え?」
小動物のごとく瞳を潤ませて当惑する“彼”に、いらぬ誤解をされぬよう、正しく趣旨を説明する。ほどよい感じの“加重/負荷/ Weight ”があると、効率よく足腰を鍛えられそうな気がするから、“おもし”になってはくれまいか、と。
バツは意を決するように胸の前で両の手をギュッと握り、
「と、トウお兄ちゃんのおお役に立てるなら、ぼボクの身体、使って、どうぞっ」
と言って、うるうる潤んだ瞳で真っ直ぐ見上げてくる。ぷにぷにと思われるほっぺたが、ほんのり赤い。
なんかみなぎってキタァ――のを抑えつつ、極めて紳士的にバツの肩に手を回し、その身をちょいとこちらへ引き寄せ、
「ふぇっ? とトウお兄ちゃん?」
くりくりお目々をパチクリさせて驚き戸惑っている顔を横目で見やりつつ、もう片方の手を“彼”の脚の下にやり、
「よっこらそぉいっ」
少しの気合を一発かまして、いわゆる“お姫様抱っこ”をした。
鎖骨のあたりから首、顔、チラリとのぞくおヘソのあたりから足首、つま先、腕から手、指先、――と、バツは全身を“熱のある朱色”に染めて、もじもじと身じろぎをし、
「は、は恥ずかしいよう……」
羞恥に困り果てたふうに眉尻を下げ、目尻に涙一粒ある潤んだ眼差しで“抗議するように/懇願するように”こちらを見上げてくる。“彼”の身体に触れているところから、やや高い体温がほんわか伝わってきた。
ふぇーいっ! 魂を撃ち抜かれたぜぇーいっ!
バツの愛らしさに胸の内で生温かいお祭り騒ぎを起こしつつ、けれど頭の一部は冷静に、“ひとつ”しみじみと思った。というか感じた。
「おおう……」
壱さんと比べて、
「なんでこんな羽毛のように軽いんだ……」
我が足腰さんが、「まだまだイケるぜっ!」と親指を立てて余裕の微笑を浮かべている――ような気がする。
「むにゃっ! ふぇふぇふぇふぇ~」
不気味な笑い混じりの聞き覚えある声に、
「とぉ~さ~ん」
いきなり呼ばれ、
「はいいいぃっ!」
背筋がゾクびくぅーんとあわ立った。
べ、べつに、壱さんのことを重いって言ったわけじゃないんですからねっ! か、勘違いしないでくださいよねっ!
「んん、むにゃにゃー、あとでぇ、煮物ぉ、お話しましょ~ねぇ~」
「はい! わかりま――」
まずいっ、どうしようっ。この状況での“煮物”にいったいどんな意味が含まれているのか、さっぱりわからん。
「――わかりたいのですが、オレの勉強不足でまことに申し訳ないのですが、“煮物”の意味がわからないので教えてくださいお願いします」
「じゅるり……むにゃ…………んぐぅ~」
安らかな寝息がよくよく耳に届く無言の間――
「……あら?」
ここは素直に訊くのがよろしいと思ったのに、どうしてだろう、応答がない。
「…………」
なんか、変な汗が滲み出てきたわ。
そんなオレを見かねてか、
「に、煮物はね――」
心優しいバツが、食べるほうの煮物について丁寧に教えてくれた。
「すごくよくわかったよっ。ありがとうっ」
心が、“彼”の優しさに救われた。けれどもしかし、“彼”の優しさに対する感謝の気持ちは本物だけれども、さすがのオレでも食べるほうの煮物については知っている。オレが知りたいのは、この状況で言うところの“煮物”についてだ。
――が、それについて確実に答えを持っているであろうおヒトからは、いまだこれっぽっちも反応がない。
このままだと、ただバツを“お姫様抱っこ”しているだけになってしまう。
――ので、
「あのぉ~」
こちらから答えを頂戴しに向かうことにする。
そぉ~っとベッドに近づき、そぉ~っと様子をうかがう。
「…………あれ?」
そこには、どう見ても、よだれを存分に垂らしてすやすや寝ているようにしか見えない壱さんの姿しかなかった。……………………まさか、まさかまさか、さっきの、寝言?
なんだなぁ~もぉ~驚かせてくれちゃってっ、このこのぉ~。
……やましいことなんて一切ないのに、もっすんごく「……ほっ」としたのだわ。どうしてかしら?
ま、それは永久に、脇に置いておいて。
自分のために、足腰を鍛えることに戻るとしよう。
よだれじゅるりの眠り姫さまには、こっちの安心のためにも、夕食のときまで安眠しておいていただきたい。なので“バツとの共同作業/運動”は、なるだけ密やかにおこなうことにする。
とりあえず無知のひとつ覚え的に、スクワットを。
屈伸するときの衣擦れの音。
自分の、吐いて吸う呼吸の音。
壱さんの寝息と寝言とよだれをすする音。
こちらの屈伸の動きと同調しているバツの呼吸と、時たま唾液をゴックンする音。
室内が静かなので、ヒトの発する生の音がよくよく耳に届く。
そして斜め下のほうからは、ほっぺをほんのり朱にしたバツの、潤んだお熱な眼差しが突き刺さってくる。
なんでだろう、この静かな状況でふんすふんすスクワットしていることが、急に気恥ずかしくなってきた。いま、とてつもなく、“音を発してくれる機械/ポータブル・オーディオ”が欲すうぃっ! ソウルフルな音楽を中くらいの音量でシャッフル再生して、お耳をふさぎたうぃっ! 気をまぎらわせたうぃっ!
けれども、どんなに渇望したところで、我が育ちし文明の利器であるところの現実逃避援助マシーンは“いま手元にない”ので、
「そぉ、ふぅ、いえっばぁ、はぁ、さぁ、ふぅ――」
スクワットをしつつ、ラヴリーでマイ・エンジェルなバツとお話しすることで気をまぎらわせ、なおかつ羞恥熱でこげた心を癒そう。
話題は、オレと壱さんが“夫婦大食い祝事(決勝)”に出場すべく戦略的撤退をしたあと、残されたツミさんとバツとロエさんとジンさんは、いったいどんなことになったのか。じつにタイムリーな話題である。まあ、個人的に気になっていることを訊きたいだけ、というか、訊いただけ、だが。
――結果的に。
保留、ということになったらしい。
確かに、ジンさんは赦し難い“向こう側”に身を置いていた。しかし、イヤガラセ行為をおこなったわけではない。ただ、“向こう側”の用心棒として、目の前で起こっていることを正しく理解していながら、“見て見ぬフリをしていた”。
責めたくなるけれど、ジンさんが“見て見ぬフリをしていた”ことを責めてしまうと、同様に“見て見ぬフリをしていた”近所のよく知るヒトたちも責めることになってしまう。それは、できない。もし自分が“近所のよく知るヒトたちの側”だったとき、目をそらさずに行動できる自信がないから。
でも、責めないからといって、“向こう側”にいたジンさんを赦したわけではない。簡単に割り切れることじゃない。
けど、ロエさんは信じたい。自分の夫のために頭を下げる、自分の夫を心から慕う、真摯な彼女は信じたい。
だから、ロエさんを信じて、自分の気持ちとの折り合いもつけて、とりあえず“このこと”は、保留。
それが、ツミさんとバツの意なのだという。
「そそれに、あ、あんなに、か顔を痛そうにしているヒトを、お怒るなんて、で、できないよう」
そう言ってジンさんの顔面事情を思い出したのか、バツは心配そうな顔をする。
……なんというか。
スクワットしながら軽い気持ちで聞くことじゃなかったなと、聞き終わってから気づきました。失礼いたしました。ごめんなさい。