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承/第三十七話:ムシムシ尽くし(其の二十四)


 壱さんは“なにか”を切り替えるように、自らのほっぺを両の手でペシペシと叩いた。それから探しモノをするように、“音の高い舌打ち/反響定位”をおこないながら顔を右に左に前に後ろに動かす。

 ――そして。

 なにも行動できず傍観に徹していたオレのほうへ、“それ”は至る。

 壱さんはこちらに身を向けると、風呂上りのおっさんみたいに白の手拭いを首に引っ掛けて、

「……さ、戻りましょう。刀さん」

 ネガティブな色のない気軽な音声で言って、やや急ぎ足で接近してくる。

「まごまごしていると、お夕食に間に合わなくなってしまいますからねっ!」

 いまのさっきで、もう夕食のことを考えていらっしゃるとは……。

 正直に、ウソ偽りなく告白しよう。いまオレは、壱さんに対して“恐れ/畏れ”にも似たモノを懐いていた。なんというか、とても形容し難い感覚的なことなのだが、“強すぎる”と感じるのだ。腕っ節も。精神的にも。オレでは、まるで比較にならないくらいに。

「身体を動かしたあとの食事は格別の美味しさがありますからねー。もう想像しただけでヨダレが――。うふふ」

 壱さんはふにゃけた表情でそんなことを言いながら、口元をふきふき、歩み寄ってくる。――はずなのに。……とても遠い、縮まり難い距離がそこにふてぶてしく横たわっているようにかんじてしまった。

 ――が、それを些細と思って流す事態が起きた。

 沈黙していたはずのシズさんが、地に突き立つ槍を折られていない手腕で引き抜き、それを腰の位置で構えて立っていた。折られた腕は“ひねられた/ねじられた”ときのクセをやや残して力なく肩にぶら下がり、対して折れる気配のない“心/芯/真/紳/仁”ある眼差しが壱さんの背を捉えている。鼻から垂れている血と、額から噴出している脂汗が、顎の先で混じり合って一滴となり、ポタリと地に落ちた。

「壱さん後ろっ!」

 と言ったときには、もうすでにシズさんは壱さん目掛けて突進を始めていた。神経毒の仕込まれた切っ先が、与えられた役割をいざ果たさんと猛進する。

「どうして、“正義/意志”を貫くことには、しばしば“痛み/傷み/悼み”がともなってしまうのでしょうね……」

 壱さんはそのお顔に疲れたふうな愁いの影を少なくなくにじませて、“誰か”に問いかける口調で言った。背後に迫る危機を気にするそぶりは、まったくない。

 オレは槍より先に壱さんへ体当たりをかまそうと思い至り、いまだ笑っている空気の読めない四肢を叱咤した。――が、こんなときに限って“コイツら/四肢”は反抗期をこじらせやがる。うまく力が込められない。立ち上がれない。駆け出せない。

 ――壱さんに、殺すための切っ先が迫る。

「はぁ……」

 壱さんは寝起きに背伸びをするがごとく、いかんともし難いことに対する気だるい心情を薄っすらお顔に浮かべて、動く。小粋に散歩を楽しむヒトのように後頭部の位置で両の手を組み、その体勢のまま左斜め後方へひょいと軽く跳ぶ。――足が地に着く一瞬前、腰をひねって狙いを定めるように上体の向きをやや変える。右ヒジの位置とシズさんの顔の位置との軌道が、狂いなく一致する。

 ――転瞬。

 満身創痍がゆえに愚直な突進を選んだシズさんは、まさか自ら危機に近づいてきた壱さんに対応しきれず、跳びの勢いと振り向きの勢いが足された右ヒジが待っているそこへ、吸い寄せられるように突っ込んだ。突進の勢いも足された右ヒジが、顔面を打ち抜く。頭部だけ強制的に後方へやられ、それに首から下で活きている突進の勢いとが連係し、身体が宙を舞った。――わずかな浮遊の後、シズさんは手招きするような重力に引っぱられて地べたに墜落する。後頭部と背中を同時に強打するカタチで。

 その光景は、どうにも現実味が薄く、もはやギャグにしか見えなかった。生々と痛々し過ぎて、一切、笑えないが。

 今度こそ確実に沈黙したと思われるシズさんの側らで、

「さて」

 壱さんは仕切りなおすようにパチンとひとつ拍手を打ってから、

「戻りましょう」

 ヒトひとり地べたに沈めた事実なぞなかったかのような“普通さ”で、そう言った。

 ――結局のところ。

 オレが槍より先に壱さんへ体当たりする必要はなかった。壱さんは、自らの力のみで、自らの脚のみで、そこに確と立っていた。立っている。

 ――どうしてだろう。またも壱さんに対して“恐れ/畏れ”にも似た、あるいは表裏の、“強すぎる”という感を懐いてしまった。

「ところで」

 こちらに歩みを進めつつ、壱さんが思い出したふうに言葉を投げた。けれどそれは、

「“これ”をあなたたちに命じたのは、ロンですか」

 オレに対してのモノではなかった。

「…………はい」

 感情を御して殺したような音声が応じた。その声の主の姿は、まるで影のように音も気配もなく、気づいたときにはもうすでに、沈黙しているシズさんの側らにあった。黒紅色が主色の民族衣装っぽい服を着て、肩口の辺りで切られた黒髪の、左で結んだ髪の一束を斜め後ろへたらしている。

「我々に命を下したのは宰相閣下です」

 折られた腕に添え木を当てて固定する、という応急処置を淡々とシズさんに施しながら、そのおヒトは述べた。

「またずいぶんと出世しましたね」

 壱さんは世間話をする気さくさで驚きを表してから、すっと真顔になって、

「……まぁ、故郷を想うと、あまり素直に喜べるお話ではないですが」

 ぽそりと、心配事があるヒトの曇りある音声でそうこぼした。

「あなたが去らなければ――」

 シズさんへの応急処置を早々に終えた黒髪のおヒトは、停止しているシズさんを「ふっ」と気合ひとつ身体全体を使って肩で担ぎ、

「きっと“状況/情勢”は違っていたでしょう」

 と、“批難するような/切実に懇願するような”眼差しを壱さんの背中へ向ける。

 壱さんは、言葉を返すことなく黙してそれを受け取った。自嘲しているような、泣いているような、なんとも形容し難い複雑な表情がお顔に滲んでいた。

 ――不意に。

 そんな表情を吹き飛ばすかのように。

 強烈な突風が吹き抜けた。

 巻き上げられた砂埃が、無差別に容赦なく襲ってくる。

 オレは反射的に顔をそむけた。

 一瞬の後、速やかに視線を戻す。

 そこに、シズさんと黒髪のおヒトの姿はなかった。


 ――ただ、

 腹部を押さえて苦しげにうずくまる壱さんの姿があった。



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