承/第三十三話:ムシムシ尽くし(其の二十)
「……そうですか」
表情は見えないが、壱さんのその背中からは悲哀のようなものが感ぜられた。それは自らの圧倒的劣勢を絶望して、というふうなモノではないようにも感ぜられた。あるいはどちらも、オレの思い違いかもしれないが。
壱さんの返しに、対するシズさんの顔には自嘲的な微笑が浮かぶ。
――はっ、と唐突に“それ”は脳裏をよぎった。“いまこの瞬間”のタイミングを逃がしたら、すべてが終わるまで口をはさめなくなってしまう。――と、根拠もなく悟ってオレは、
「壱さんっ」
悪足掻き的に、思うところを述べさせていただく。
「逃走しましょうっ!」
「……はい?」
「ですからっ! ここは“戦闘”ではなく“逃走”を選択しましょうよっ!」
「……刀さん」
壱さんは妙に優しげな声色で諭すふうに、おっしゃる。
「…………少しは、場の空気を読みましょう」
それだけは、それだけは壱さんに申されとうなかったわっ!
「というか、空気を読んだから言ってるんですよっ。壱さん、神経毒が仕込まれた槍を相手に、素手でなんぞやらかそうとしてるんですものっ」
この場面にあって“戦闘”か“逃走”かの選択肢があったらオレは、“逃走”を推す。ラノベやマンガやアニメやゲームの主人公だったなら、なにかカッコイイ感じのことを言ったりやったりするのだろうけれど、“死の可能性”がすぐそこにあって余裕をかませる“主人公スキル”なんぞ、オレにはない。“死の可能性”を突きつけられたら、怖い。そして“無関心ではいられないヒト/壱さん”に“それ”が向くこともまた、怖い。――だからオレは、カッコ悪くても“逃げること/生きること”を選ぶ。
「……もう、しょーがないですね」
子どもの駄々に根負けした母親のように言って壱さんは、フトコロに手を突っ込み、
「これで、素手ではないですよ」
と“夫婦大食い祝事”で勝利して贈られた白の手拭いを取り出し、その両端をそれぞれ右と左の手に巻き付けて握り、バンザイするようにして頭上に掲げる。「これでよいでしょう?」と述べるように。
「もっすんごくちょっとだけ素手じゃなくなったのは事実ですが、そもそも戦わないっていう考えは、ないのでしょうかね?」
「まったくありません」
逡巡する気配もなく、きっぱりと真剣な口調で否定してくる壱さん。
「なんでそんなに戦いたいんですかっ?」
まるでお菓子を買ってほしいと駄々をこねる子どものように、
「死んじゃうかもしれないんですよっ?」
地べたにうずくまりつつ、オレは強めの語気で問うた。
「……………………戦いたいわけでは、……ないですよ」
ささやくように壱さんは述べた。声は小さかったが、言葉には深いところから絞り出されたような“濃縮さ”が感ぜられた。
壱さんを見据え、槍を構えて対じしているシズさんの顔が一瞬、その言葉が発せられたと同時に“痛む/傷む/悼む”ように歪んだ。――ように見えた。
「じゃあ、どうして」
思わず、責める口調をその背へ投げつけてしまった。
言ってることもやろうとしていることもチグハグじゃないですか、と。
「“忠”を尽くさんとする者への、最低限の“礼儀”です」
硬球を弾き返すコンクリートの壁のように、その背は揺らぐことなく。どうしてだろう、壱さんがとても遠いところに立っているような錯覚を覚えた。――“孤高”という言葉を、その背に想った。
「“忠”って……、どうして“それ”で――」
あるいは核心に触れられたかもしれない問いの言葉は、しかしさえぎられて消える。
まさしく問答無用に。
開始されてしまった。
――“戦闘”が。