承/第二十八話:ムシムシ尽くし(其の十五)
「――はっ!」
なんかうたた寝しちゃったときのような意識の空白が一瞬あった気がするが、
「おおうっ!」
そんなことよりも、鼻先が触れるくらい間近に壱さんの顔面があることに驚いた。
「あの……壱さん、なにをしていらっしゃるんですかね?」
至極当然な問いである。
「なにを、って」
壱さんは困ったふうな微笑みを浮かべて、顔を離し、
「素晴らしく豪快に転んでなかなか起き上がる気配のない刀さんを、甲斐甲斐しく助け起こそうとしているんですよ?」
なにぞ意味のわからないことを、幼子に言い聞かせる口調でおっしゃる。
「……はい?」
まったくもって、状況がのみこめない。
けれども、どうやら自分は道の真ん中で横たわっているらしいということは、バストアップ画な壱さんの背景に青空が広がっていることからして察せられた。まぁ、だからこそ余計にわけがわからないのだが。
しかし、いまは湧き起こる疑念と格闘するよりも先に、とっとと身を起こそう。
「ありがとうございます」
壱さんが差し伸べてくれたお手を拝借しつつ、起き上がる。
そして改めて、
「ん~、転んだ憶えなんてないんだけどなぁ……」
湧き起こる疑念との格闘を開始する。自らの意志で自由に動かせる首を、惜しげもなくひねって。
「転んだときに頭でも打って、うっかり記憶を飛ばしてしまったんじゃないですか?」
ずいぶんとまた軽ぅ~く言ってくれますねっ。
「うっかりで記憶喪失なんかになりたくないですよ。てか、なりません」
「じゃあ、ちゃっかり?」
言い回しは似てますけどね。
なんですか、ちゃっかり記憶喪失って。
「壱さんが“失神するツボ”どうのって言ってたところまでは、憶えてるんですけど……」
逆に言うと、そこから先がピンボケしているわけで。
正直あまりヒトを疑って物事を考えたくないのだが、言動と状況から推察するに、というかどう考えても――
「言ってませんよ、そんなこと」
ひとつの答えを得ようかというその瞬間を、“疑わしきそのヒト”は狙ったようにぶった斬ってきた。
「え?」
「ですから、私はそんなこと言っていないと述べているのです」
壱さんは断言するように胸を張って言い、
「なんですか“失神するツボ”って。初めて聞きましたよ」
心の底から不可思議そうに眉根を寄せる。
「やめてくださいよ、それだとまるでオレが妄言を言ってるみたいじゃないですかっ!」
「妄言とは言いませんけど……、頭を打ったとき“一瞬の夢”を見たんじゃないですか?」
一歩どころか半歩すら退くことなく壱さんは、さらりとそんな返しをしてきおる。
なんというか、いまの壱さんにこそ“ちゃっかり記憶喪失”という言葉がピッタリなんじゃなかろうか。
「…………」
あまりにも頑強な精神状態の壱さんを相手に、果たしてオレには言い返すべき言葉が思いつけない。
「さあ、さっ、刀さんっ」
我が沈黙をどのように受け取ったのか。……まぁ、どう考えても壱さんにとって好ましいほうにだろうけれども。壱さんは鼻息を「ふがふが」と荒げながら、
「些細な事柄に囚われてまごまごするのは、ひとまずここまでにして、いまは“夫婦大食い祝事(決勝)”の会場へ急ぎましょうっ!」
正直ちょっと引く感じの気迫を全身からみなぎらせて、我が手をむんずとつかみ、
「さきほどから美味しい匂いが食欲を刺激して、私っ、もう辛抱たまりませんっ!」
溢れ出る唾液をじゅるりとすすって、美味なる匂いのする方向へ力強い一歩を踏み出す。
脳ミソが混乱している当人としては、まったく些細な事柄ではないのだが……。しかしだからと言って、“食”に突き動かされている壱さんをどうにかできるわけもなく――