承/第二十七話:ムシムシ尽くし(其の十四)
――ともあれ。
そんなわけで今現在、オレと壱さんは“夫婦大食い祝事(決勝)”に出場すべく、会場になっている村の広場へと歩行進行中である。
「しょれにしへほ、しゅごはったれすね」
黙々と歩くのもアレなので、お隣にいらっしゃる壱さんへ時事ネタをふってみた。
「すごかったですね――って、なにがですか?」
よもや、いまのさっきで訊き返されるとは思わなかったが、
「しゃっきの――」
修羅場がです、とお伝えすると、
「ああ……」
壱さんは少し困ったふうな表情をしてから、
「すごく痛そうな音してましたね」
と苦笑する。
なにもあそこまでボコボコにしなくたったいいですよね、と意を述べたら、
「私は、むしろ当然だと思いますよ」
真面目な顔で言い返されてしまった。
「家族が、夫が、他人様に迷惑をかけてしまったのですから、家族として、妻として、きちんと叱るのは当然のことでしょう?」
言っていることは間違っていないと思うけれども、果たして、さっきの撲殺未遂的なアレを叱る行為と考えていいのだろうか?
「“愛のムチ”というヤツですよっ」
実際はムチじゃなくて鈍器と打撲でしたけどねっ。
「“愛のムチ”の打撃力は、相手を思う気持ちの大きさに比例するものです」
ゆえにロエさんは、それだけジンさんのことを思っている――と壱さんは言いたいらしい。
「だって“怒る/叱る”って、相手に対して関心があるからこその、偽りのない“感情/気持ち”じゃないですか」
静かに力強く断言する響きのある、けれどもそれゆえに気さくな口調で、壱さんは自らの意を述べる。
「子どもが悪さしたら、たとえ他人様の子であろうと大人は“怒る/叱る”でしょう? ダメなことはダメって教えるために。それは誰にとっても子どもは等しく宝で、大切な存在だから、よりよく成長してほしいと願っているからこそ。つまり相手が大切だからこそ“怒る/叱る”わけですよっ」
相手をおもいやる気持ちがなければ“怒る/叱る”は成り立たない。それが壱さんの“怒る/叱る”に対する考えであるらしい。
カミナリおやじが稀有な存在になってしまったオレの育ちし現代は、つまるところ、他人様の子どもに関心がない、誰にとっても等しく子は宝ではない、おもいやりに欠ける、そういう世の中ということになるのだろうか?
あるいは、“怒って/叱って”くれるヒトに対する信頼が希薄になってしまったのか。
「――ですから、その……」
壱さんは一転して、どこか親とはぐれてしまった迷子を思わせる、不安と切なさの混在した顔になって言う。
「……自覚があるのに“怒られ/叱られ”ないと、……ちょっぴり寂しい、じゃないですか。本当は自分に関心ないのかなって、そう思えてしまって」
その心情は、経験があるからよくわかる。
まだ小学一年生だった頃、オレは親にかまってほしくてショボイ悪さをした。トイレの便座とフタを瞬間接着剤で接着して使用不能にするという、よくよく考えれば自分も非常に困るお粗末極まりない悪行である。
当然のように即刻その悪行は親の知るところになるわけだが、
「欲しがってたゲーム機、ソフトも一緒に買ってやるぞっ!」
そう言って我がご両親は、じつにあっさりと事を流した。そのときの、ふたりの酔っ払ったふうなニヤニヤ顔は、いまでも鮮明に憶えている。
お咎めなしどころか、気持ち悪くすらある寛容で寛大な対応に、しかしオレはまったく嬉しさを感じず。目の前に親父とお袋は居るのに、どうしてだか“気がつけば公園でひとりぼっち”な感覚が胸の内にシクシク湧いてきて――耐え切れず、オレは泣き喚いた。
そんなに当選した“ロトくじの券”がいいのかよっ、と。
寛大と無関心は、やっかいなことに、とても似ているのだ。それを受ける側がどう取るかによって、どちらにもなりえてしまう。
……まぁ、いまにして思えば、親父とお袋が酔っ払いみたくニヤニヤして理由も、気持ち悪いくらい寛容寛大になれた心情も、理解できなくはない。
当選金額――五十七万四千六百円。
クソガキのショボイ悪さなんぞアウトオブ眼中だよねっ!
「…………」
金に目がくらんでニヤニヤしている父親と母親の姿という、若干トラウマな光景を思い出して、ほんのちょっぴりホームシック混じりの残念な気持ちになっていたら、
「……刀さん」
意を決したふうに、けれど、もじもじしながら、壱さんが訊いてきた。
「刀さんは、“怒らない/叱らない”んですか?」
…………なにを?
「頭が、おバカになってしまったことを」
予備動作なしで、バッサリ斬り込んできますねっ!
まぁ、自分の脳ミソが低スペックであることは否定できない。というか否定するための材料が悲しくも残念ながら存在しないので認めるしか選択肢がないわけです……がっ! なしてこのタイミングでオレは、勉学に勤しまなかった過去の自分を“怒らねば/叱らねば”ならんのですかねっ?
「……ですから、その、さっきから刀さんの“ろれつ”がまわってないのは、私の一撃で頭がやられてしまったのが原因と思われるわけで……、私は“怒られて/叱られて”当然なわけで…………ごめんなさい」
どうやら、さすがの壱さんも気にしていたらしい。
まぁ事実として、さっきの強烈なアッパーカットが原因なわけだが。しかしオレの頭はどうにもなっていない。低スペックでも正常に稼働中である。喋りがちょっとヘンなのは、ガツンと喰らったときに噛んでしまった舌をかばいながら発音して喋っているからだ。
「そう、なんですか? 私はてっきりやってしまったかと……」
どこか「ほっ」としたふうにおっしゃる壱さん。
舌を噛んでしまったので、まったく痛くなかったというわけではないけれど、いままで喰らったダメージと比較したら、こんなのツバつけときゃ治る程度の超軽傷だ。やっちまったと言うならば、そしてやったことを気にするのならば、いきなり我が口に拳を突っ込んできたときとか、軽いノリで地獄突きかましてきたときとか、泣かせてしまったんではなかろうかと本気でうろたえてしまった超絶演技な泣き芝居のときに、少々でいいから、していただきたかったわっ。
「でも、刀さんが舌を噛んでうまく発音できなくなってしまったのは、やはり私のせいですから……ここは、きっちり責任を――」
なして壱さん、いまに限って妙に律儀なのっ?
「だって、“律儀者は子だくさん”と言うでしょう?」
……まぁ、律儀なヒトは遊び歩いたりせずに家庭を大事にするから自然と夫婦の営みがバッチコーイッ! となって子宝に恵まれる、とかって言いますけど……。
「だからですっ」
なにがっ?
そんなキッパリ言われましても、まったく答えになっておりませんよっ!
――てか壱さん、なんであたりまえのようにオレの頭部を両の手でガッチリ挟んで固定していらっしゃるんですかねっ? ビックリするぐらいピクリとも自分の意志で頭が動かせないんですけどっ!
「ですから――」
壱さんはオレの頭部をグイと引き寄せ、吐息のかかる距離で言う。
「責任を取るために」
いったいどんなふうにっ? 具体的に詳細をお聴かせ願いたいっ。
「刀さん、心の内でおっしゃっていたじゃないですか、“こんなのツバつけときゃ治る程度の超軽傷だ”って」
なにその限定的過ぎる超高感度な以心伝心っ!
……って、いや、まあ、“ろれつ”がまわっていないオレと難なく意思疎通できちゃう壱さんですから、いまさら驚くことでもないですがね。うん。てか、そこを気にしてもしょーがない。
「ですから、せめてそれくらいは私が“やるべき”かと思いまして」
これっぽっちも具体的じゃないけれど、いたって真摯にお答えくださる壱さん。
そんな壱さんの真面目な表情が近くて、不覚にも、なんだか妙にドキリとしてしまった。
――のは、一瞬の気の迷い。
迅速に覚める。
そして改めて、いまここにある状況を認識した脳ミソが、常識にとらわれない壱さんだからこそやりかねない“まさか”な可能性を脳裏によぎらせる。
……いや、さすがにそれはないだろう。
とは思うものの、その可能性を完全に否定することはできず。なのでここは完全否定するためにも、あえてお訊ねさせていただこう。
壱さんっ、“やるべき”って、なにをですかっ?
「そんなの、決まってるじゃないですか」
あたりまえのことを話す口ぶりで壱さんは、
「ツバをつければ治る患部に、ぺろっとツバをつけるんですよ」
そんなことを言って、イタズラっぽく微笑み、チロリと艶な舌をのぞかせる。
アナタはもっと常識にとらわれてぇーっ!
その限りを知らない“まさか”の発想力には、ビックリ脱帽ですけどっ!
そんな“まさか”を事前に予想しちゃった自分には、なんかガッカリですけど……。
――ともあれ。
壱さん、ご自分がなに言っちゃってるか正しく理解しておりますか?
「……?」
怪訝そうに眉根を寄せて壱さんは、小首を傾げる。
「そのつもりですけど。……どうしてそんなこと訊くんです?」
どうしてっ?
どうしてってアナタやっぱり自分の言ってることわかってないようですねっ。
オレが負傷したのは舌なわけですよ? そこにツバつけるって、それってつまり“イントゥ/into”するってことじゃないですかっ! さすがにダメでしょ、いろんな意味でっ!
「それは……」
壱さんは一気にトーンダウンして、しゅんとなる。
「私のがばっちいから生理的にダメと……」
なぜにアナタはあえて厄介な解釈をしなさるのっ。言ってませんよ、そんなこと。
「じゃあ、なにがダメなんです?」
そこは訊かずに察していただきたかったっ。
というか、どうしてそこを察してくださらないっ。
いまここは村の道の真ん中なわけですよ? さっきから村に住まう方々の好奇に満ちた眼差しが全身に突き刺さり続けてる、とっても公衆の面前なわけですよっ?
「なんですかそんなこと。べつに恥じるようなことしてないんですから、堂々としたらいいんです」
壱さんが鉄のハートをお持ちなのは、重々承知しております。けれどもそれを基準に物事を考えないでいただきたい。これ以上こんな状況でなにか(主に“イントゥ/into”なこと)やらかして注目を集めてしまったら、こっ恥ずかしさに耐え切れなくなった脆弱なマイ・ハートが新しい“なにか”に目覚めてしまうわっ。
「傷も治って、新境地も開拓できて、まさに一石二鳥ですねっ!」
恐ろしく前向きなご意見、どうもありがとうございます。
――でもね、そもそも論、これだけは述べさせていただきたい。
口内で唾液の漬物状態な舌に、わざわざ“イントゥ/into”してまでツバをつける意味はないでしょ、と。
「増量してさらにヒタヒタにすれば治りも早く――」
――なりませんよっ。
いや、唾液には身体を守る成分が含まれているから、量が多いほうが口内の清潔が保たれるって話は聞いたことありますけどね。でも、それと治癒速度はあまり関係ないですし、なにより“自分の”で事足りてます。
壱さんのお気持ちだけはありがたく、そりゃあもう末代まで語り継いじゃうくらいありがたく受け取らせていただきますから、いまはとりあえずオレの頭部を解放してくださいませんかね? 周囲の視線が突き刺さってるうえに、壱さんのお顔が近すぎて、なんかもうダメな感じに心臓がドキドキしちゃって、そろそろ身と心が限界です。
「…………わかりましたよぅ」
どうしてだか壱さんはぷくっとほっぺを膨らませて、なにかおもしろくなさそうに、我が頭部の拘束を解いてくださる。
オレは緊張して強張った首筋を軽く揉み解しつつ、自分の意志で自由に首が動かせる喜びをしばし味わう。
「ところで、刀さん」
ぶーたれ顔から一転、というか急転、壱さんはなにかおもしろいモノ見っけちゃったヒトのごとく微笑みながら話しかけてきた。
あまりにも急な変り身っぷりに、どことなく不気味なモノを感じつつ、けれども不機嫌でいられるよりは百倍よろしいので、
「ふぁひ?」
そのまま話に乗っかることにする。
「人体には“失神するツボ”があるんですよ、ご存知でしたか?」
「ふぇ?」