承/第二十三話:ムシムシ尽くし(其の十)
「――――――――はっ!」
いかん、いかん、寝落ちるところだった。
危ういところで覚醒した我が意識は本能的に自身の置かれている現状を把握しようとし、目ん玉だけをギョロリギョロリと動かして辺りを見回し確認する。
どうやらオレは、ベッドの上で顔を左に向けてうつ伏せになっているらしい。
……まぁつまり、一瞬意識が途切れるまえと同じ状態なわけだ。
うん、なんら問題ない――と安堵しようとして、しかし重大な問題に気がつく。
さっきまで見える範囲にいらっしゃった壱さんのお姿がないっ!
なぜにっ?
と冷静に慌てつつ、腕立て伏せの要領で我が身を起こし――ていたら、
「おはようございます、刀さん」
まるで朝の挨拶でもするかのように、聞き覚えのあるお声が呼びかけてきた。
ベッドの上でよつんばいという姿勢のまま、オレは首だけ動かして音源の方を見やる。
窓際のイスに座り、そのおヒトはお茶をすすっていた。
だだそれだけなのに、どうしてだろう……窓から差し込む日光の中にあって淡い光に縁取られたそのお姿は儚く麗しく、その消えてしまいそうな哀しい美しさに我が目ん玉は完全に魅了され――オレは思わず息をのんだ。
「……あれ? 刀さん?」
著名な画家が全身全霊を込めて描いた絵画に登場する人物がごときそのおヒトは、
「二度寝……ですか?」
いぶかるように小首を傾げて、
「もう、しょーがないですねっ」
ぷくっとほっぺを膨らませてから、
「とぅーさーんっ! 朝ですよぉー!」
騒音としか言いようのない大声を容赦無くぶっ放してきおる。悠然たる巨匠の力作が、一瞬で無邪気な子どもの絵になってしまった……。
「とぅーさーんっ!」
黙っていると近寄りがたいほど美麗なのに、口を開くと好い意味で残念なくらいフランクなおヒトである。
「とぅーさぁ――」
その過剰に元気ハツラツな呼びかけは、
「――起きてますっ!」
いよいよもって我がお耳が潰れそうなので、
「オレは起きてますよっ! 壱さんっ!」
そろそろ止めていただきたい。
「起きているのなら返事してくださいよ、もうっ」
壱さんは眉根を寄せて、ぷりぷりと怒ったふうに抗議を述べてから、
「おはようございます、刀さん」
なんか今日も頑張れそうな気持ちにさせる、とても素敵な柔らかい微笑みをくれる。
「おはようございま――」
と口から出したところで、薄々とは気づいていた疑念が、
「――す?」
ちょいと顔をのぞかせる。
朝昼晩の感覚が不定期になりちな御仕事をしているヒトまたは生活を送っているヒトからしたら、対面時の挨拶はすべからく「おはようございます」になるらしいが、一般的に「おはようございます」と言えば朝の挨拶だ。
――が、しかしそうなると今現在が朝であるということになってしまう。
まさかそんなこと、と思うのだが、
「初めて聞きましたよ、疑問系の“おはようございます”なんて」
そう言って薄っすら苦笑する壱さん――の背後にある窓の外には、朝日が照らす清々しい朝の光景が広がっていた。
どうやらオレは、完全に寝落ちていたらしい。
「なんか寝た感覚がない……と言いますか、気づいたら朝になってた感じで、いまが朝だっていう実感が薄くて……」
いいかげん、よつんばいでいるのもアレなので、オレはベッドから降りて背伸びをしつつ、朝の挨拶が疑問系である理由を説明した。
「それはきっと眠りが深かったからですよ」
と壱さんは思い出したようにほくほく顔になって、
「とっても気持ち良さそうに寝息を立てていましたもの、刀さん」
ムフッと自らのほっぺに両の手を包み込むようにあてがっておっしゃる。
「もう食べちゃいたいくらいでしたよっ」
それはどういう意味ですかねっ?
食欲旺盛な壱さんに言われると、どうしてだか比喩表現に聞こえなくて末恐ろしいんですが。
「刀さんたら、やぼったいこと訊きますね――」
いじらしく恥らうように唇を尖らせて、壱さんは言う。
「――言葉通りの意味ですよっ」
ゾワゾワッと背筋に悪寒がはしるのは、何がしかを死守せんとする防衛本能からの忠告か、はたまた生存本能からの警告か。
というか正直、壱さんがおっしゃるところの“言葉通りの意味”の意を正しく理解できていないのだが、
「そんなことより――」
と壱さんは、空腹のオオカミを前にしたか弱き子羊がごとくプルプルしちゃってるオレのことなど知らぬ存ぜぬといったふうに、
「――お散歩に行きましょうよ。お散歩。ね、刀さん」
なんぞ遊園地の入場口でテンションが最高潮に達した子どもがごとく、「早く、速く、は・や・くっ!」と急かしてきおる。
「べつに行くのはかまわないんですけど……なぜに散歩を?」
そんなオレの素朴な疑問に、壱さんはオモシロくなさそうにぷくっとほっぺを膨らませて、
「……理由がないとダメなんですか?」
むぅーっと不満ありげな仏頂面で訴えてくる。まるでどこぞの超戦士がみなぎらせる闘気がごとく、その顔面からは威圧的なオーラがヒシヒシと発せられていた。
あんまり強くない我がハートであるからして、そのプレッシャーに耐えられるわけもなく。
「思い立ったが吉日って言いますものねっ、理由なんていりませんよねっ」
……どうしてだろう。親父の背中が、お袋の尻に敷かれて加齢臭と一緒に哀愁かもし出しちゃってる親父の背中が、走馬灯のごとく脳裏にチラつくのは……。