承/第二十二話:ムシムシ尽くし(其の九)
ある意味で「ガガーンッ!」という効果音がバッチリくる絵図らだったかもしれない――とか思いつつ、オレは件の手帳に事ここに至るまでを書き記した。
なんだかんだで小まめに日記を書いているのが、自分でも意外だ。
――というか、まあ、それ以外に夕食後のよいんタイムを潰す術が、オレにないだけなのだが。
「ん〜〜〜〜っぐ」
書き記す行為でコリ固まった背筋を伸ばす。首を右に左に傾けたらバキボキと小いきな音が鳴った。
ちょいとスッキリしたところで、室内へと視線を転じてみる。
最初に我が視覚がとらえたのは、ウサギのたれ耳を思わせるツインテイルな黒髪であった。
なにやらバツは床にペタンと尻をついて座り、自らの手元に真剣な眼差しを注いでいる。
なにしているのかなぁと素朴な疑問に駆られて注意深く見やってみると、なんと“彼”はお裁縫道具らしきモノを駆使して“まんじゅうを見て逃げ出した襲撃者”によって切り裂かれてしまった壱さんの着物の袖をチクチクと慣れた手つきで縫っていた。
頼まれてもいないのにっ!
なんと健気でよくできた子だろう。
もっすっごく頭をなでなでしてあげたい衝動に駆られるが、作業の邪魔をしてはいけないので――頑張れ、我が自制心っ!
衝動に負けて身を任せてしまうまえに、気合で眼球を動かす。
次に我が視覚がとらえたのは、ベッドの上で大の字に伸びているおヒトの上に“もりもり”と、しかし“とろける”ようにそびえていらっしゃる、ふたつのお山であった。だらしなく着こなされた寝間着の襟ぐりは大胆にはだけてしまっていて――ちきょうっ! 頑張れ、我が自制心っ!
「壱さん、寝間着がダメなくらいはだけちゃってますから、ちゃんと着直してくださいっ」
視線のやり場が一点集中しちゃって困りますから。オレが。
「ええー、だってぇ〜」
と、壱さんは寝そべったまま口を尖らせて反論してきおった。
「満腹なんですよ、わ・た・しっ」
だからどうしたっ! と言いたいところであるが、それは脇に置いといて。
なんだか、いまの壱さんには“あるセリフ”がものすごく似合いそうな気がしてならない。
「壱さん、ちょっと“ごっつぁんですっ!”って言ってもらえませんか?」
そんな脈絡のない提案に、
「…………」
壱さんは思考を巡らせるように眉根を寄せて――しかし、すぐにどーでもよくなったらしく、
「ごっつぁんですっ!」
……すばらしく、相撲取りのようであった。ちょっと息苦しそうなのが絶妙である。
けれども、この行為に深い意味はまったくない。もれなく浅い意味もまったくない。
ただオレが聞きたかっただけである。
――というのも、まあ置いといて。
そもそも壱さんの言わんとすることは、「ええー、だってぇ〜」と彼女の口から発せられた時点でわかっていた。最近、我が察し能力は無駄に鍛えられているので、こんなの朝飯前もとい夕食後である。
満腹で苦しいからお腹周りにゆとりが欲しい――というのが、壱さんを大胆にはだけさせちゃってる理由だろう。
「わかってくれているのに、どうして刀さんは“寝間着を着直して満腹のお腹を圧迫しろ”だなんてヒドイこと言うんですか……あれですか、苦しくてもだえる私の姿にハァハァしたいんですか?」
ハァハァしないために、寝間着を着直していただきたいと申しているんですがねぇっ。
察してっ、我が心情をっ! 自制心が頑張っているうちにっ!
……いや、まあ、満腹のお腹を圧迫したくないという気持ちは、オレにだって当然のように経験があるのでよくわかるんですがね。
――でも、だからこそ、
「胸元にゆとりはいらないでしょ」
と言いたい。
「私も、そう思いますよ」
壱さんは同意を示してくれつつも、
「……でも」
と、なにやら深刻そうな口調でおっしゃる。
「どうしてでしょう、胸が苦しいんです」
「胸焼けじゃないですかね」
さっき夕食をガッツリどころかオレの分までゴッソリ喰ってましたものね。
「そういう苦しさとは違うのですっ」
壱さんは抗議をするように、ぷくっとほっぺを膨らませる。
んんー、間違っているようには思えないけれども……他に考えられる事はといえば――胸元に実ってる果実がとってもタワワだから物理的に苦しいとか、もしくは、
「食道に食べた物が詰まっちゃってる、とか?」
壱さんはほっぺを膨らませたまま、
「…………」
無言という不満の念でお返事くださった。
べつに壱さんが納得したから正解とか、そういう事柄ではないと思うけれど、
「じゃあ、どういう苦しさなんですか?」
オレとしては寝間着を着直してもらえれば、それでいいので、壱さんがご納得してくれそうな妥協点を探すことにする。
「圧迫されるような、締め付けられるような、なにかつっかえているような――」
壱さんは少々苦しげに表情を歪めて言い、
「――それでいて、なぜだかちょっぴり切ないのです」
と自らの胸元に片手をあてがう。
もう絶対――胸焼けでしょ。
焼きイモとか激甘なケーキを食べ過ぎたとき似たような症状になりましたよ。
まあ、あのときオレが感じたのは「ちょっぴり切ない」じゃなくて「ちょっぴり酸っぱい」でしたけど。
「だ、だ誰かを、す好きになると、む胸がくっ苦しくななるって、ぼボク聞いたことがああるよ」
不意打つように、お裁縫する手を休めてバツが言った。
それを聞くや、
「ま、まさかっ!」
壱さんは一気に上体を起こし、まるで驚愕の真実に気づいてしまったがごとき勢いで、
「これが、恋の胸キュンっ!」
――違うと思います。
いや、恋の胸キュンがどういうモノか知らないので断言はできませんがね。
でも現状のそれは、限りなく胸焼けに近い恋の胸キュンだと思いますよ。
というのは、まぁそれはそれとして。
壱さん、起きたついでに胸の辺りでこぼれちゃいそうになってるモノを収納してくださいっ。
「もー、わかりましたよう」
しょーがないなぁ、というふうに壱さんは寝間着を着直してくださる。
……いまさらながらに、どうしてオレがお願いする側なのだろう。
…………ま、いっか。
気にしたら負けだ。
うん。
――と、そんな感じで開き直って、身も心も柔軟する気分で再び背筋を伸ばし、首を右に左に傾けてバキボキ鳴らす。
「あんまりバキボキやると――」
すっと寝間着の襟元を正して、
「――痛めてしまいますよ?」
壱さんはとがめる口調で言う。
「いや、まあ、それはわかってるんですけどね」
わかっちゃいるけど、やめられない。
というか、一連の動作がクセになってて無意識にやってしまうのだ。
「こっているのなら、私がモミモミして揉み解してあげますよ」
と言って、壱さんは準備運動するがごとく両の手をにぎにぎする。
お気持ちはとっても嬉しい。
――けど、どうしてだろう。壱さんの「揉み解してあげますよ」という言葉が「握り潰してあげますよ」と聞こえてしまうのは……。
よし、ここは丁重にお断りさせていただこう。
「あー、刀さん、私の腕前を疑っていますね?」
望まれぬ勘違いというか深読みを、どうもありがとうございます。てか壱さん、なしてご立腹と見せかけて、ちょっと嬉しそうなんですかねっ。
いやもうオレは、その嬉しそうなお顔を拝見できただけで満腹ですよ。身も心もゆるゆるに弛緩しまくり、コリ解れまくりっ。壱さんは存在自体が極上のマッサージです。ごちそうさまでした。
なので断じて、揉み解しの腕前を疑っているとか――
「そういうわけでは」
――なくてですね。
テンション上がると加減が利かなそうな、たくまし過ぎる腕っ節の強さをお持ちの壱さんですから、できれば痛いことになる前に、オレとしてはご遠慮申し上げたいところなのですよ。
「ほら、ヘンに揉むと“揉み返し”がきて、むしろ痛めてしまうことが――」
聞くや、壱さんは眉根を寄せて、
「やっぱり疑ってるじゃないですか」
ぷくっとほっぺを膨らませる。
アカーンッ! 言葉のチョイス間違えたわっ。
「私、これで旅の資金を調達したりするんですよっ」
と嬉々と誇らしげに、壱さんは訴えてきおる。
なんでも、壱さんはフトコロ事情が寂しくなってきたら、そのとき宿泊している宿屋の亭主にお願いして旅人や旅商人が泊まっている客室を回らせてもらい、長旅で疲れている彼らを“整体/マッサージ”的な技術で癒やし、その対価として報酬をいただくのだそうな。旅館とかではマッサージ師さんを呼ぶサービスがあったりするから、それと似たようなモノだろう。この場合は、マッサージ師さんが自ら売り込み営業しているが。
「ちゃんと報酬が頂ける腕前なのですよっ」
壱さんはふんぞり返るように胸を張って言い、
「それとも……刀さんは、私になんかモミモミされたくない……ですか?」
一転、いじけたふうに訊いてくる。
そう言われちゃったら、もうオレに残された選択肢はひとつしかない。
「まっさかーっ! そんなわけないじゃないですかっ! オレもう全身バッキバキにコリ固まっちゃってて、是非とも報酬が頂けるほどの腕前をお持ちの壱さんに揉み解していただきたいですよっ!」
我ながら残念なほどに三文芝居であるが、
「そ、そうですか?」
壱さんはにへらと顔面筋を緩ませて、
「刀さんがそこまで言うなら、私の超絶技で身も心も揉み解して昇天させてあげますよっ」
オレのわがままにしょーがなく付き合ってあげる的な態度で言い、こっちに来いとベッドの上をポンポン叩いて示す。
壱さんの言う昇天が、そうなっちゃうほど心地好いという意味である事と、万が一にも片道切符ではなく往復切符であることを切望しつつ、オレはベッドに歩み寄ってその縁に腰を下ろた。
「うつ伏せになってください」
という壱さんのご指示に従って、オレはベッドに上がり、うつ伏せになる。
いままで壱さんが大の字になって寝ていたそこには、彼女の匂いと体温が残っていて……どうしてだろう、妙に生々しく温かった。
壱さんはベッドの上をはわすように手探りし、それがオレの身体に接触すると、そこから全体を確認するように手を動かす。背中とか首筋とかをソフトタッチで触られるのは、非常にくすぐったい。
「では、始めますよ」
壱さんはそう言うと――しかし何も始めなかった。というか、オレの身体はモミモミされている触感を感じなかった。
どうしたんだろうか、と思い首と眼球を駆使して壱さんのいらしゃるほうを見やってみる。
「――っ!」
ふとももっ! と思わず口から出そうになるのをどうにか堪えるも、やった視線はブラックホールの超重力に捕らわれてしまったがごとく脱出困難な釘付け状態に陥ってしまう。
視線をやった先にあったのは、なぜか膝立ちしている壱さんの寝間着の裾からチラリとのぞく――しなやかでありながらも、どこかムチッとムニッとしていらっしゃる、色っぽいと言うよりエロっぽいふとももであった。正確に言うと、うちももであった。
もっすっごく惹き付けられてしまうのは、男として産まれたがゆえの“宿命/必然”だ。いたしかたない。
――が、それに真っ向から勝負を挑んでフル稼働しちゃってる優秀で強靭な自制心がオーバーヒートを起こすまえに、首と眼球に全力でムチ打って視点をずらす。
「…………?」
壱さんは、なにやら真剣にオーケストラの指揮者がごとく両の手と腕を動かしていた。
……意味がわからない。
――ので、ここは素直にお訊ねさせていただく。
「あの、壱さん……お取り込み中に申し訳ないんですが、いったい何をなさっているのですかね?」
しばしの間を置いて、一連の動作を終えてから壱さんはご回答くださる。
「手を温くしていたんですよ」
それをオレは準備運動的な意味合いだと受け取った――のとほぼ同時に、壱さんの手がオレの腰辺りに置かれる。
「――っ!」
ちょっとビックリするぐらい、壱さんの手は熱を帯びていた。温かいというよりは熱いという感じの、最高温度に達した使い捨てカイロを押し当てられているような感覚である。
てっきり比喩的な意味での“手を温く”だと思っていたが、どうやら事実としての“手を温く”だったらしい。
気功のような技術だろうか――とか、そんな些細な疑問なぞどうでもいいと思えるくらい、壱さんの温い手はじんわりとしみわたるように我が筋肉の緊張を解してゆく。
告白しよう。
とっても眠い。
例えるなら――冬場に、ほどよく温もった布団で寝るときのような、なんとも形容し難い至福に満ち溢れた眠気とでも言おうか……。
もう……正直、思考するのも面倒臭いような…………。
なんだか……とっても…………マブタが……重たくなって…………き……
……
…………
………………