承/第二十話:ムシムシ尽くし(其の七)
目前の状況が把握できないのか、“彼”は数瞬その場で呆け……そして、壱さんが「おいおい」と肩を震わせて泣いているのを認知すると、
「どっどどう、どうしたのうっ? い、イチお姉ちゃんっ! どどうどうどうして、な泣いているのう?」
動揺しすぎて瞳をうるうる潤ませる。
「うぅぐっ、刀さんがぁ、うぅうっ刀さんがぁ」
夕食を食べ終わったって言うんです――と最後まで言い切ってくれないものだから、オレが何かして泣かせたみたく聞こえ、しかし実際その通りなので、激しくいたたまれない。
「と、トウお兄ちゃん?」
やめてぇバツぅ、無垢な瞳でこっちを見ないでぇっ!
心が、心が苦しいっ!
そんなヘビの生殺しみたいな痛い立ち位置に、心の臓をかきむしってもだえていたら、
「刀さん、とーさん」
聞き覚えのある――しかし、いまはありえないであろう声が、まるで悪魔のささやきがごとく密やかな音量で呼びかけてきた。
まさかそんな、と思いつつ声の聞こえたほうを見やってみる。
「……っ! …………っ!」
思わず、二度見してしまった。
自分の眼球がとらえた視覚情報を、これほどまでに疑ったことは、いまだかつてない。
そこにあったのは、してやったりって感じの薄ら笑みを浮かべている壱さんのお顔であった。さっきまで泣き顔を覆い隠していた両の手は、観音開きのようにパカッと開かれている。
なんかもう色々と理解が追いつかず、言葉もなく立ち尽くしていたら、
「どうです? このいたたまれない状況から抜け出すために、私からとても素晴らしい提案があるのですけれど、聞きたいとは思いませんか?」
ニタリとした表情はそのままに、彼女はヒソヒソと言の葉を投げてきおった。
もう、わけがわからない。
――が、「とりあえず聞いとけ」と我が危機感知生存本能が警告してくるので、
「て、提案とは?」
お訊ねすることにした。意図せずヒソヒソ声になってしまったのは、なんでだろう。
「これから食べることになる夕食、刀さんの分を全部――とは言いません、半分でいいです、半分、刀さんが私にわけてくれるなら、事態は万事解決ですよ」
なんか引っかかるが――それで、さっきからずぅーっと我が心の“やわらかい場所”に刺さりっぱなしな潤んだ瞳の無垢な眼差しを抜くことができると言うのならば、
「壱さんのご満足ゆくまで差し上げますから、万事ご解決願いたいっ!」
それを聞くや、壱さんは満足げに口の両端をニィと吊り上げ、
「では――」
と乱れた寝間着の裾を正しながら立ち上がり、
「――そろそろ“亭主関白ごっこ”はやめにしましょうか、ね? 刀さん」
しれっとそんな事を言うのだ。
まるで何事も無かったかのように。
いたって平静な態度で。
……恐えぇ。ちょー恐えぇ。なんか寒気を覚えるわっ、その平静さっ。
ていうか、なんですかねっ“亭主関白ごっこ”って!