承/第十九話:ムシムシ尽くし(其の六)
――状況整理という名の過去回想現実逃避は終わる。
結局、“その場の思いつき根競べ”は主催者が鼻血を噴いて強制終了とあいなり、自業自得な壱さんはあてがわれた部屋へと送還された。ちなみに運んだ者の感想として、くったり脱力したヒトを背負って運ぶというのは、なかなかの重労働であったと、あえて言っておこう。
部屋に到着しても、壱さんはへばったまま微動だにしないでの、ツミさんとロエさんが連係プレーで汗と鼻血を噴いた彼女の身体を拭き、寝間着に着替えさせた。当人は無抵抗主義なお人形さんのごとくされるがままを貫いて、いまはベッドの上でのびている。
オレはと言えば、さっきまで壱さんのことを“うちわ”のような物で扇いでいたのだが、途中から聞こえてきた彼女の安らかなる寝息を聞いたとたん、ヤル気が失せたので、件の手帳に事ここに至るまでを書いてヒマを潰すことにした。
バツは最後の最後まで壱さんの事を心配してオロオロしていたが、ツミさんに料理の助太刀を頼まれて、
「い、イチお姉ちゃんが、がガッツをつけてくるれるような、おおいしいモノが作れるように、がガンバッテくるよっ!」
と勇んで炊事場へ。なんとまあ、健気な子だろう。すやすやと寝息をたてている、愛くるしくもアホな御方とは大違いだ。
夕暮れの終わった空が夜色に染まり、炊事場からただよう美味しそうな香りが鼻孔をくすぐるころ。
「はっ! 夕食っ!」
ガバッと唐突に半身を起こして、壱さんは起床しなさった。お化け屋敷の仕掛けみたいで、こっちの心臓に悪いので、以後はご遠慮願いたい起き方である。
「まさかっ! 私としたことが夕食を食べ損ねた? いや、まさかそんなこと――」
その執着心は、もはや尊敬に値するが、
「――刀さん、刀さんっ! とぅーさーんっ!」
死にもの狂い過ぎる形相で名前を連呼されると、チト怖い。
「はい、はい、はい、“とぅーさーん”はここに居りますよ」
と答えつつ近づいたら、伸びてきた手に胸ぐらを力強くつかまれて、恐喝するがごとき迫力をもってグイと般若にみたいなお顔に引き寄せられ、
「夕食は、夕食はっ、夕食ばっ!」
壮絶なまでにツバをぶっかけられながら、単語の発音に強弱をつけただけで「まさか、もう食べ終わってしまった、なんてことはないですよね?」という意思を相手にわからせる、壱さんのどうでもいい技を弩近距離でご拝聴するハメになった。
なんというか彼女の必死過ぎるその姿勢に、死に際の武士が君主の安否を気にかけているような、ある種の“忠”を感じてしまって、「ヤベェ、超カッケー」と一瞬でも思ってしまったオレは、いよいよ壱さんに毒されてしまったのかな……。
あ……なんか自分自心がとっても心配になってきた。
なんていう惑いは、顔面にかかった壱さんのツバと一緒にぬぐいさることにして。
「夕食はですね――」
と言ったところで、イタズラ心というのかイジワル心というのか、がオレの脳内にふと顔をのぞかせた。わざとではないにしても、顔面を唾液まみれにされたのだ、プチ報復したくもなるだろう。だってオレは、人間だもの。
「――美味しく残さず、の・こ・さ・ずッ! いただきましたよ。いやぁ美味しかったなぁー」
現状、もっとも壱さんが聞きたくないであろう言葉を、あえて強調して言ってみた。むろんデマカセであるが。
「――どっ!」
壱さんは、かの名画“ムンクの『叫び』”になって「聞いてない聞いてない聞いてない」と耳をふさぐ。が、しかし逆にその行動が、しっかり聞いてしまったと物語っている。
「…………ど、どうして、起こしてくれなかったのですか」
いまだ耳をふさぎながら、壱さんはうつむきかげんに、精も魂も燃え尽きてしまったようなか細い声をもらした。
「気持ちよさそうに寝ていたので、起こしちゃ悪いかなぁーと」
これはまぁデマカセではない。
「そ、そうですか……」
彼女は何もかも失ってしまった人のような哀しすぎる微笑を、ふっと浮かべた。
やっておいてイマサラだが、予想以上に衰弱してしまった壱さんは見るに忍びなく……しかしそれゆえに「じょーだんでした」とネタばらしをしたら何されるか想像できず恐ろしい。
が、しかし弱った姿よりは、ぷりぷり怒っているお姿のほうが壱さんらしいと言うか、しっくりくると言うか――
まあそんなわけで。
もう何をされてもいいと覚悟を決め、ネタばらしをしよう――としたら、
「…………うぅっ」
壱さんは耳をふさいでいた両の手で顔を覆い隠し、
「……うぅ」
その場にペタンと尻をついて、
「うぅっぐっ……うっうぅ」
肩を震わせて嗚咽を――
ま、ままままさか壱さん泣いちょるっ!
「あ、あの壱さ――」
「うぅぐっうっぅう」
なんかもう、オレなんかが生まれてきてゴメンナサァァァァイッ!
ほんの冗談のつもりだったんです。アナタを悲しませるつもりなんてミジンコほどもなかったんです。もうほんっとに申し訳ないっ!
いまここに人類史上最上級の土下座でもってお詫びを――
「じじゅ準備ができ……た…………よ?」
――しようとしたら、なんともバッドなタイミングでバツがご登場した。