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承/第十七話:ムシムシ尽くし(其の四)

 着替えを受け取るときにロエさんから場所を聞いた、というバツの案内でお風呂へ向かうことになった。

 けれども、

「庭にお風呂が?」

 バツは黒い板張りの廊下に出ると、すぐ目の前にある縁側から庭へ降りて、トコトコと転びそうな危うい足取りで先に行ってしまう。

「家にお風呂がある場合は、普通そうですよ」

 風呂は庭に在るものだ、とお教えくださる壱さんの声には「あたりまえ」という響きがあった。

「まぁ普通と言っても、いい御家柄に限っての話ですけれどね」

 彼女が補足するには、水を注いだ大きめの桶に浸かって体を拭い洗うのが庶民の普通なのだとか。住んでいる所に、先だっての宿場町のようにお風呂屋さん(公衆浴場)が在ったなら、そこを利用するらしいが、それは少々娯楽的要素を含む贅沢であるらしい。健康ランドとかスーパー銭湯のような感覚なのだろうか。

 ともあれ、

「じゃあロエさんは、いい御家柄の次期当主さんだったんですか……」

 じつはすごい人なのでは、と意識したとたん、失礼はなかっただろうか、と心配になってきた。というか、無遠慮にまんじゅう喰いまくっているヒトを約一名ご存知なので気がきではない。まあロエさんならば、あの天使のごとき微笑で無かった事にしてくれそうだけれども。

「“メスム屋”という店名を聞いた時点でわかることだと思いますけれど。刀さんは、ご存知なかったのですか?」

 この世界の事柄に関しては、大抵どころかまったくご存知でないですよ。

 ええもうなんだか、すねてもいいですか?

「それはそれで、拗ねちゃった刀さんを、たっぷりと愛でて慰めて差し上げる、心と体の受け入れ準備はバッシリですけれどっ?」

 よっしゃこーいっ! てなぐあいに両手を広げて身構えないでくださいよ壱さん。オレの心と体はバッチリもなんも準備できておりませんから。まったくもって図々しくも、すねたりして申し訳ございませんでした。

「あら……そうですか?」

 それは残念です、と壱さんは蠱惑的に尾を引く微笑みを浮かべてから、

「というのは置いといて――」

 架空の“何か”を両手で挟んで脇に退かし、

「――メスム屋さんはですね、クレベル王室が頼んで“おまんじゅう”を献上してもらってる、それはそれは厳格な、老舗中の老舗なのですよ」

 とご解説してくださる。

 つまりは、王室御用達のお饅頭屋さんであるということだろうか。

 あまり実感がわかないけれども、とってもスゴイ事であろうとは、なんとなくわかった。

 ツミさんがここへ到着してからずっとおまんじゅう作りを教わっているのも、それが理由なのだろうか? 王室御用達の味を盗む、みたいな感じで料理人魂に火がついてしまったとか。

 きっとそうなのだろう。さすがは料理人。

 うん。

 そして――もうひとつ、とてもとても得心をした事がある。

 ロエさんがお礼を申し出たとき、壱さんが有無を言わせぬ勢いでそれを即承諾したことについてだ。

 きっと、あのときの壱さんは「やったぁ! 王室御用達の美味しいおまんじゅうが食べられるぅっ!」みたいなノリで居たに違いない。

「なにかそれだと、私がとてもイヤシイみたいじゃないですか」

 我が心の声を盗聴していたらしい壱さんは、ムッとしたように眉をひそめ、不満を示すように下唇を突き出して頬をぷくっと膨らませる。

 壱さんはイヤシイというより、ただの食いしん坊だと思いますけれど。

 それはさておき。

 とくに脈絡もなく、無性に、登山家が“そこに山があるからさ”と頂を目指して登山するがごとく、オレは素晴らしく見事にぷくっと膨らんだ壱さんのほっぺを両側からプッシュしたい衝動に駆られた。

 数秒間の葛藤の後、オレは自分に素直であることを心に誓う。

 勘付かれぬよう密やかに自らの右と左の手を彼女の頬の左右にセッティングし、優しく丁寧に、しかし素早く圧力を加え――

「ぶぅっブゥゥ」

 壱さんの口の中に溜まっていた空気は、最初だけ破裂的に吹き出て、あとは彼女の唇を小刻みに振動させ唾液を飛散させつつ終息してゆき、

「ゥゥぷっ」

 最後の最後は、か細く鳴って散った。なんでか哀愁を感ずるよいんが尾を引く。

 間髪いれず、

「なにするんですか」

 ブーブークッションみたいに愉快な音を発していたのと同じお口が、今度は唇を尖らせて抗議してくる。ともすれば可愛らしいそんな表情の影に隠れて、

「グゥッヌォッ! ありがどうございまずっ!」

 ガッチリ握り固められた拳が、神速の勢いで我が腹部にえぐりこみ、

「な・に・す・る・ん・で・す・か」

 一音一音を強調するがごとく、内蔵を引っ掻き回すようにグリグリと動く。

 壱さん、穏やか過ぎる微笑がとても末恐ろしいです。

「い、いや、なんと申しますか……そこに膨れたほっぺがあったもので、つい」

 危険で過酷な状況に陥るとわかっていても止められない。ああ、なんでだか登山家さんの心情がわかった気がする。あくまで、気がするだけ、だけれども。

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