承/第十参話:まんじゅう怖い(後)
しばし静寂のみが場を支配し――
不意に、我が正面、壱さんの背後で、なにかが煌いた。一瞬、自分の涙かと思ったが、しかしすぐにそれが鋭利な刃物の光沢であることに気づく。
壱さん! 後ろ、うしろっ!
オレは迫りくる正体不明の危機を知らせようと最善を尽くすが、
「なんですか刀さん。私の拳をレロレロ舐めたりして……。なにかが覚醒してしまったのですか?」
なぜかとっても残念そうな表情をするアナタが残念でなりませんよ壱さん。そもそもヒトの口に拳を突っ込んでるアナタはいったい――
と言いたいことは天を貫くほどにあったが、いまはそんな場合ではない。
オレはアゴが外れることを覚悟しつつ、すっとぼけな壱さんを抱きしめ、
「と、刀さん。なにを突然、だいたんな――っ!」
渾身の力を込め、壱さんをぶん投げる要領で二人の身体を横転させ、どうにか不意打ちの一閃を回避する。
狙いの外れた刃が地面をえぐる音と共に、横転の勢いでオレの口から壱さんの拳が抜ける鈍い音が聞こえた。
本気でアゴが外れてしまったかと心配になったが、それは杞憂に終わり、
「壱さん! ピンチですっ!」
自由になった口で、どうにか危機を知らせることに成功する。
「い、いきなりのしかかってくるなんて、覚醒した刀さんの以外な行動力には驚きましたよぅ。そその初めてが野外だなんて私――」
なんのピンチを感じているのアナタはっ! いりませんよ恥らった表情とか。
「そうじゃなくって!」
もどかしく思いながらも、オレは警戒と再確認の為に背後へ視線をやる。とそこで、我が首を刈る為に薙がれたと思しき剣が迫っていることを知る。
「ひぃっ」
反射的に全力で身体ごと頭を下げた。後頭部から首筋にかけて、なにか不吉なモノがいっそ清々しい勢いで通過するのを感じ、次いで顔面が温かで柔らかでタフンタフンと弾力のある素晴らしき感触を心地好く味わう。
もう少しで首が落とされるという心臓が止まりそうな出来事に、意図せず呼吸は乱れ、
「っはっぁはぁはぁ……」
過呼吸気味になってしまい苦しくて動けず、しばし心地好き温かで柔らかな弾力に顔をしずめる。すると、どうしてだろう気持ちが落ち着いた。
て、落ち着いている状況ではない。
「壱さん、絶対絶命ですよ!」
名残惜しみつつ柔らかなソレから顔を上げ、オレは再度、現状を端的に言う。
「確かに、乙女の絶体絶命です……。まさか覚醒した刀さんがこれほどとは――」
さっきからアナタは何と戦っているのですかっ。
「――しかし刀さんが露骨な変態さんになりさがってしまったのは、私のわがままボディーの罪なのです。ですから刀さん安心してください。私が全力で――粛正してさしあげますっ」
なんの話をしているんですか。という疑問を口にする間もなく、壱さんが放った掌撃をもろに喰らったオレは吹っ飛ばされ、ワイヤーアクションのような人生では経験しえないだろう浮遊感を体感したのち、地面に叩きつけられた。そこで初めて、剣技を揮っていた人物を視界に捉える。土色をした丈の長いフード付きコートを目深にかぶっているので表情はうかがえなかったが、オレが吹っ飛ばされてきた事に、若干の戸惑いを覚えているように思えた。
それも当然だろう、オレだっていきなり掌撃を放たれた理由がわからないのだから。
「さてさて……」
壱さんはのっそりとホコリをはたきながら立ち上がり、
「どこからでも襲ってくるといいですよ。貴方の変態さんハートが砕け散るまで、あしらい続けてさしあげますから」
半身に構え、音の高い舌打ちでリズムを刻み始める。
けれど、根本的に間違っていますよ壱さんっ。というか殺気を感じ取ったときのアナタはどこにいっちゃったんですか……。
オレは思考のズレを壱さんに指摘しようとしたが、それよりも早く謎な襲撃者が動いた。思うに、彼女の態度を挑発と受け取ったのだろう。
襲撃者は右下段に剣を構え、壱さんの隙をうかがいつつ、摺り足で間合いをつめる。
「……あら?」
隙なく身構えつつも壱さんはなにか疑問に顔をしかめる。
「刀さんいつの間に道具を装備したのですか? ズルイですよ、私は素手だというのに」
音の高い舌打ち――反響定位のなせる技なのか、壱さんはオレと襲撃者との決定的な違いに気がついたようだ。
「オレは何も装備してませんからっ! いいかげんに気づいてくださいよっ!」
ミゾオチにクリーンヒットした掌撃のせいか、ちょっと苦しかったがどうにか声を張って言うことができた。
「あら? あらあらあら? 身体の位置より遠くから声が聴こえてきますけれど……刀さん、どのような技を使っているんですか?」
たとえ使えたとしても利点がまったくないそんな奇抜な技を体得した憶えはありません。
「壱さん、すっとぼけるのもタイガイにしてくださいよ。最初に殺気を感じ取ったのアナタでしょうっ! さっきから殺気の発生源に襲われてるっていうのにっ!」
「えっ……殺気の発生源は刀さんの煩悩では?」
なにその「まさかそんなっ!」て言いたげな表情は。どうして煩悩から殺気を感じるのさ。
「オレは殺気立つほど飢えちゃあいませんよ」
「えー、私を前にして?」
と意味のわからない疑問符を壱さんは頭の上に浮かべる。
その瞬間に「隙あり!」と判断したのか襲撃者が動いた。
大きく右脚を踏み込み、同時に右下段にあった剣が重みを付加し一閃、おまんじゅうの詰った壱さんの腹部を斬りにいく。
オレはとっさに視線を逃がした。
次瞬、鈍い音が聞こえ――
「ちょっと何するのですか。ものすごくジンジンするじゃないですかっ!」
ずいぶんと不機嫌そうな壱さんのお声が飛んできた。
オレはゆっくりと、恐怖心を説得して黙らせながら逃がした視線を呼び戻して様子をうかがう。
そこには、お腹の前に構えられた左腕のヒジで刃を受け止め、その剣の柄を襲撃者の手ごと右手で押さえ込み固定し、なおかつ踏み込んできた相手の右足を自分の左脚で踏みとめている、という壱さんのお姿があった。
「いま、刀さんと大事なお話をしているのです、邪魔しないでください」
襲撃者のことなど、服に羽虫がとまった程度のことがごとく。抗議を口にしながら、壱さんは腰を落として全身で剣ごと相手を引いた。と体勢を崩しかけた襲撃者はバランスを保とうと左脚を出す。そこへすかさず壱さんは自分の右脚を引っ掛け、流れる動作で自らの全体重を相手に押し当てた。すると後に踏ん張れない襲撃者は、
「ガッハァ!」
渋い声質のあえぎを漏らし、じつにあっ気なく押し倒される。そのとき襲撃者は反射的に身をかばおうとして剣を持つ手から力を抜いてしまったようで、壱さんは相手を押し倒すと同時に剣を奪い取っていた。
「まったくもう」
ほっぺをぷくっと膨らませてご機嫌斜めなお顔はなかなかにしてちょっと可愛いが、苛立ち紛れに奪い取った剣をぶん回すのはご遠慮願いたい。そんな現状の壱さんに、
「あ、あのう、ななにがあったのう?」
戦々恐々と声をかけるのは、いつからそこにいたのか、なにかを大事そうに胸元で抱えるウサ耳ツインテイルなバツであった。
「あら――」
と壱さんは背後からの声に、ぶん回していた剣を不意に手放し――自由になった剣は嬉々としてぐるんぐるんと風を斬りながら数回転したのち、押し倒されて後頭部でも強打したのか地べたにひんのびている自らの持ち主たる襲撃者の頭部数ミリ横に帰り突き立つ。
「――なにか美味しそうな匂いがしますね」
いま物凄い事故が起きそうになった事や、せっかく剣を奪い取ったのにまったく意味がなくなっている事など知る気もなく、壱さんはパチンと拍手を打って嬉しそうに微笑む。
「お、お姉ちゃんが作ったおまんじゅうを、いイチお姉ちゃんに試食してもらってって」
バツは胸元に抱えていた布袋から、湯気のぼる蒸したてのおまんじゅうを取り出すと、「ふぅーふぅー」とちょいと冷ましてから壱さんの手に乗せる。
「私に食べ物の味見を頼むとは、素晴らしい思考の持ち主です」
ツミさんを称賛しつつ壱さんはまんじゅうを二つに割ると、それはそれは美味しそうに「はふはふ」しながら喰い始めた。
食べ物をやたらと美味そうに食べる人を見ると、なぜだか不意として表情がほころんだりする。そんな優しい表情でまんじゅうに喰らいつく壱さんを見上げていたバツは、ハタとしてこちらに気がつき、
「と、トウお兄ちゃん、道に寝転んだりして、どどうしたのっ?」
戸惑いながらもこちらへ駆け寄ってきて、地べたに両膝をつき、
「だ、だいじょうぶ?」
気遣わしげな眼差しでのぞきこんできてくれる。
なんだろう理由はわからないけど、こういうのを幸せと呼んだりするんじゃなかろうか。
なんて弱り気味なことを思ってしまったのは、たぶん壱さんの一撃が予想以上に重たかったせいだろう。
「大丈夫。肋骨は折れてない」
胸部に残留する痛みをメンタルパワーによって払拭することを試みつつ、オレは上半身を起こす。
「クッ――ソッ!」
時を同じくして、なにやらダンディズム溢るる悪態を我が耳は察知した。音源の方へ視線をやると、そこには苦悶と憤りに顔を歪めた――どこかで見たことのある気のする、一人でハードボイルドな雰囲気をかもしだす渋いオッサンが、地面に突き刺さっている自分の剣を引き抜きながら居た。
渋いオッサンは迅速に身を起こすと、こちらになど眼もくれず、無防備にも背を向けながら蒸したてのおまんじゅうを試食している壱さんを斬りに行く。
「壱っ!」
とっさに口から出た叫びゆえか、オレは腹から出せるだけの声で壱さんを呼び捨てる。
「なんですか、そんなに焦らなくても分けてあげますよ? 刀さん」
腹の底から叫んでまで蒸したてのおまんじゅうを食べたがるなんて発想はアナタしか持ち得ないという現実は後々お教えするとして。渋いオッサンが斬りかかるより数瞬早く、壱さんは訝しげに眉をひそめて、まんじゅうをほおばりながら振り向いた。
――刹那。
「ヒィッ!」
猛々しく剣を振るおうとしていた渋いオッサンは情けなく口から空気を漏らすと、その場に尻を着く。
突然のこと過ぎて状況がまったく読めず、言葉も出ない。
果たして渋いオッサンには、まんじゅうを喰っている壱さんの姿がどういう風に見えているのだろう?
「や、やめてくれっ」
「ん? 急に渋いお声になったりして、意外と隠し技をもってますね刀さん。軽蔑しますよ」
せめて尊敬してほしかったなぁ。
「て、そんな技をオレが持ってるわけないでしょう」
「冗談ですよ、じょーだん。そんなムキにならなくてもいいじゃないですか」
なんで、冗談で軽蔑されねばならんのだ。
「それで、どなたかは存じませんが」
と壱さんが一歩足を動かすと、
「こっちにソレを――ひっぃいい、お恐ろしい」
なぜか腹部に手をあてがいながら渋いオッサンはジリジリと後退り、壱さんから離れようと必死である。
「なんですか失礼ですね。こんなにもタオヤカな乙女に向かって恐ろしいだなんて」
まんじゅうを咀嚼しつつ、ほっぺをぷくっと膨らませ、壱さんは「不愉快です」と態度で示し、ズイと一歩踏み込む。
「うっ、ひっぃ、そそソレを、ここっちに近づけるなっ」
どうやら本気でなにかを恐れている様子の渋いオッサンは、額に脂汗をにじませ顔面蒼白である。
「……ソレ? 近づけるな?」
これといって持ち物の無い壱さんは、
「いったい何をです」
意味がわからないと疑問に顔をしかめた。
しかし渋いオッサンはソレの名詞を口にするのもイヤなようで、
「ソレをだっ!」
と過呼吸気味に、壱さんのある一点を親の仇でもねめつけるように凝視する。
「だから何を」
相手の視線を読めない壱さんは、面白くなさそうに本気で困っているふうに聞き返す。
しかし渋いオッサンは壱さんの態度を攻撃手段のひとつと思ったようで、憎々しげに睨み返しつつ苦痛に耐える。が、長くは持たなかったようで、結局は折れて、
「……まんじゅう、だ。頼むから、ソレをこっちに近づけないでくれ」
懇願するように白状した。
「……はぁ?」
何を言っているのか理解できない、というように数泊のあいだ壱さんは呆け――
「ああ――」
と、ひとつの答えを導き出し、
「――まんじゅう怖い、ですか」
愉快そうな笑みを浮かべた。
「そんな“まんじゅう攻め”に期待するような回りくどい事しなくても、普通に言ってくれれば分けてあげますよ」
言って、壱さんは「はい」と手の内にまだあった半分のおまんじゅうを差し出す。
「だから近づけるなっ」
顔面に飛翔してきたゴキブリを払い除けるがごとく、渋いオッサンは差し出されたまんじゅうを壱さんのお手ごと全力で払う。
「なんですか、半分では満足できないと? 図々しくも欲張りですね」
あきれた、と言いたげに肩をすくめてから、壱さんは「好きなだけ取らせてあげなさい」と、まんじゅう入り布袋を抱くバツをうながした。
いままで事をあっ気にとられながら傍観していたバツは、「う、うん」と戸惑い気味にうなずくと、渋いオッサンに駆け寄り、布袋の中身を提示――
――された瞬間、
「ヒィぃぃぃいいいっ!」
サァーっと血の気を顔面から引かせ、まんじゅう入り布袋から全身全霊で後退ると、
「おおおぼえてろよ!」
渋いオッサンは捨てゼリフを置いて、村とは反対の方角へ猛ダッシュで消えていった。
しばし時を忘れて、去りゆくオッサンの背中を眺めていたが、ふと思うことがあったので、
「そういえば壱さん」
いまだに、おまんじゅうを喰らっているお人に話しをふってみた。
「はふへうか?」
即行で返答してくれるのは嬉しいけれど、
「口にモノを入れて喋らないでくださいよ」
おまんじゅうだったモノが言葉と仲良く飛び散ってますから。なんか似たような事を近しく言った気がするのは、確信をもって気のせいではないと断言してもいい――というのは置いといて。
「てっ! 壱さん、せっかく口の中にあったモノ飲み込んで喋りやすくなったのに、なに次のおまんじゅうに喰らいつこうとしてるんですかっ」
指摘された壱さんは、
「…………っ」
もっすごく逡巡してから、意を決したよに食べようとしていたおまんじゅうを布袋へと押し戻す。
「そ、それでぇ、刀さん」
なんかお声が、とっても涙声に聞こえたのは、オレの幻聴か空耳かな?
「ごようけんはぁっ、なんですか?」
強がりな子どもが泣くまいと感情を押し殺して声を震えさせちゃってる――みたいな喋り方をして、アナタはそんなにおまんじゅうが食べたいのですかっ?
「べ、べつにぃ」
壱さんは下唇を噛みしめ、
「そんなことないですようっ」
ぷいっとそっぽを向く。
「……ぅ……う…………ううっ」
そ、そんな、ぷるぷる震えながら堪えなくても……。
「もう食べてイイっ! 食べてイイですよ、壱さんっ! 喋る前に飲み込んでくれれば、それでいいから。もう思う存分、食べてください」
壱さんは「いいのですか?」と似合いもしない遠慮がちな態度で訊いてから、「ではっ」と、また喰らいつきを再開させる。嬉しそうに、幸せそうに、美味しそうに――まったくもって、惚れ惚れするぐらいナイスな表情でお食事しますね。
というのは切りがないので気にしない事にして、話を先に進めよう。
「で、ですね壱さん。ずっと気になっていたのですけれど」
なんですか? と壱さんは「ぱくぱくもぐもぐ」喰いながら小首を傾げる。
「さっき剣をヒジで受けてましたけど、大丈夫なんですか?」
たとえアレが剣のような刃物でなかったとしても、金属質なモノをまともに喰らったらヒジの骨はヒビ折れるなり砕けるなりしてしまう。どうってことなさげにしているけれど、衣服の下ではとんでもない事になっちゃてるんじゃないかと心配なのだ。
「んんー」
壱さんは左手をグーやパーとニギニギ動かしてから、左腕を屈伸させ、
「問題なく動きますけど……どうにかなってますか?」
見てみてとヒジをこちらに突き出す。
紫が主色の民族衣装みたいな壱さんの着物。そのヒジ部分は、やはり剣という刃物によってパックリと裂かれてしまっているが、しかし血がついているとかそういうことはない。着物の裂け目から突き出たヒジには、縦に一文字の短いミミズ腫れがあるだけで、素人目ではこれといって問題があるようには見えなかった。
「どうにかなっているようには見えませんけど……本当に平気なんですか?」
念押しを込めて訊いてみる。
「ダメだったら、そう言ってますよ。それに、この程度でどうにかなってしまうようでは、一人旅はできませんよ」
いまは独りじゃないですけどね、とこともなげに言うと、
「さあ、そろそろお散歩を再開させましょうよ」
杖の代わりになれと手を差し伸べてくる。オレがその手を取ると、我がもう片方の手をバツが取り――
しばらくテキトウに三人でぶらついてから、帰路へとついた。
「……結局、なんだったんだ?」
という疑問を生んだ出来事を、ロエさん宅へと帰還したオレは件の手帳に書きとめた。
「お腹が空いて魔が差してしまったんじゃないですか」
お茶をすすりながら壱さんはあっけらかんと言う。けれども、
「襲われたのは、バツがまんじゅうを持って現れる前ですよ?」
ていうか殺気を察知したのはアナタだったでしょうに。
「そういえば、そうですね。まあ、なにか目的あってのことなら、また出現するでしょう。その時にでも、お訊ねすればいいじゃないですか」
簡単に言うけれども、少し違えば自分の首が斬り落とされていたかもしれないのだ。オレは壱さんみたいに余裕ではいられない。
「そんな事より、夕食はまだですかぁ?」
我が生死に関わる問題は“そんなこと”呼ばわりですか。
ていうか、今のいままで蒸しまんじゅうをたらふく喰らっていたのに、
「まだ喰う気ぃですかアナタはっ!」