承/第九話:夜明け
「残念なお知らせです。塩まんじゅうは、ご好評につき完売いたしておりましたッ」
縁側に腰を下ろし、庭を流るる風を感じながらお茶をたしなむその御方に、私は深々と、それはもう脳挫傷で死ぬんじゃないかというくらい深く勢いよく頭を下げて詫びた。
だが、なかなかリアクションがない。
苦痛というべき沈黙が私を襲う。
自らの罪によって強いられる死へのカウントダウンを噛みしめながら、十三階段を一歩、また一歩と踏みしめ進む死刑囚のごとく。
コチコチと時を刻む柱時計の音が、いままで経験したことがないくらいに強調されて耳へと流れ込んでくる。
コチコチ、コチコチ――
ゴクリっと思わず生唾を飲み込んでしまう。
床にめり込みそうなほど深く密着させている額に、嫌な汗が、脂汗がジワリをにじみ出ているのがわかる。
呼吸もなんだか不規則で、胸がなんだか苦しい――
ふいに、気配が動くのを感じた。
視覚は怖くてギュッとマブタを閉じてしまっているので機能していないが、嫌でも音を拾うことをやめない頑固な聴覚が、衣擦れの音を微かに聴く。
気配が、畏怖すべき気配が、超近距離前方で動きを止めたのがわかる。わかってしまう。
奥歯がガタガタと鳴りそうだ。
というか、もう、お股の間から何か漏らしそう。
こんな怖さ、怖がられる事をなりわいにしているであろうスーツ姿の方たちが搭乗している高級車に、自転車でこすってしまったとき以来だ。
「――です」
なにか、前方にいらっしゃる御方が言いなさったが――不覚にも、うまく聞き取れなかった。聞き返すのは恐ろしすぎて、できようはずがない。
「もういいですよ」
はい?
「もういいですよ。無いものを求めたって、仕方ないじゃないですか。そのうち買い直しておいてくれれば、いいですよ」
前方のお方の声色は、それはもう平静で。
むしろ逆にそれが怖いのだが。
「お、怒って、ないでございますか?」
長いこと油をさしてもらっていないブリキ人形のごとく、ギギギっと軋む音が聞こえそうな硬い動きで、面を上げ、前方のお方の表情をうかがってみる。
お茶が飲み干された湯のみを両手で包むように持っていらっしゃる、昔は黒かった今は銀髪をキュッとうなじの辺りで束ねた、いったいアンタは何歳なんだという疑問を投げかけたくなるほどあまり老けていない容姿のそのお方は、呆れたように眉尻をさげている。
「言葉遣いがオカシイことになってますよ。それに呼吸と脈拍が乱れすぎてます、それだと長くない寿命が更に縮んでしまいますよ?」
寿命を縮めているのはアナタなのですがね。
ともあれ、キレてなくてよかったです。即死の危機からは脱した、ということだと思いますので。
私は正座の姿勢で、
「……ほっ」
と一息ついた。
強張っていた全身の筋肉が、一気に弛緩する。
「なにを『ほっ』としているんですか」
年齢不詳の銀髪さんは、呆れた表情のままに、お茶のおかわりを淹れに台所へ向かおうと一歩を踏み出した――
「――あらっ?」
と思ったら、和服じみた民族衣装の裾を踏んで、こちらに倒れこんできた。
私は正座しているので、とっさに避けようがなく。
――まったく、いくつになっても……このドジっ娘め。
とでも言ってやろうと、受け止めようかと思ったのだけれども、残念な事に年齢不詳の銀髪さんは身体の前に両手で湯のみを持っており、その湯のみはずっこける勢いにのって、まるでハンマーを振り下ろすような勢いでこちらへ向かってきており、私の視線の先には湯のみの底がスローモーションで迫ってきて――
「――ガッはッァ!」
額を湯のみの底でぶん殴られ、なおかつそれに続くように年齢不詳の銀髪さんが全身で突っ込んできおる。正座という姿勢のため、前方からかかる力にたいして抗うこと難しく、心もとない腹筋を駆使してみても、(自分の重み)+(銀髪さんの重み)+(ずっこけの勢い)にかなうはずもなく、
「ぬぉッはッァ!」
前の次は後と、後頭部を床に強打し、正座の後倒しという無理な姿勢と年齢不詳の銀髪さんの体重の苦しさを感じ――急激に、なんだかとっても眠くなってしまい、しかし眠気に抗う気力は湧かず、なるがままにすべてをゆだね……
薄ぼんやりとした意識が、なにかをとらえた。
それは心地いいと思えるもので。
その心地好さにすべてをゆだねていたら、それが詩であることに気がついた。
どこかで聞いたことがあるような、とても耳触りのよい詩であると。
不意に、なにか温いものがそっと自分の手に触れてきたことに気がつき、それを起として意識が鮮明に近づいて、詩が、歌声が至近から聞こえていることを知り――
ふぅっと歌声は途切れ、手からも温もりが消える。
歌に聴き入っていたオレの意識はもうすでに覚醒しており、歌声の主がなかなかの歌唱力をもっているという驚きよりも、なぜこの歌を歌声の主が知っているのかという事のほうが不思議で、
「どうしてこの歌を?」
疑問を口に出していた。
「あら、起きていたのですか刀さん。もう、急に動かなくなってしまうから心配してしまいましたよ。と、それはともかく、うわごとのように“塩まんじゅう”と連呼していたのですけど、塩まんじゅうって何ですか?」
オレの疑問に答えることなく、自らの疑問をかぶせてくる、黒髪を肩口でテキトウにぶった切った、紫が主色の民族衣装に身を包んだ人物は、なんでかオレを横から覗き込むような体勢――バストアップな絵図で我が視界に映りこんできた。その背後には星々が煌く夜空が広がっている。
若干の思考の間を置いて、自分がその人物に膝枕されているということに気がついて、急にこっ恥ずかしくなり慌てて身体を起こした。
とたん、視界がぐわんと揺れ、なんだか頭が重い――というか、後頭部がズキンズキンとうずく。
なんだ、なんでこんなに後頭部が痛むんだ?
オレはズキズキする部位を優しくさすりつつ、思い当たる節を探してみる……。
んんー?
そういえば、オレは日記を書いていたような。
いや、書き終って――
本棚の整理中に発見した懐かしき手帳を再読しているうちに、時を忘れて……。眼に入れても痛くない孫に、一概には言いがたいほどにトンデモナイ体験談が書かれた手帳の中身を訊かれて、誤魔化す為に塩まんじゅうを生け贄に捧げて話をそらし、でも「私の塩まんじゅうをスケープゴートに使ったってっ!」と相方さんを激怒させたあげくに塩まんじゅうを再購入しに行くハメになって、しかし何だか嫌な気分じゃなかったから恥ずかしくもよさげなセリフをぬかして、だけれども残念で悲しいことに塩まんじゅうは売り切れゴメンで――
「……あれ? なんか、んー? 色々とごちゃ混ぜになっているような?」
夢と現の区別が曖昧で。
いやしかし、どちらにせよ後頭部が痛いことには違いなく。
夢にせよ現にせよ、痛みの原因は、明後日の方向に視線をやりつつもこちらを見ている人物――壱さんであると確信が持てる。
ノリでボディータックルされるか、湯のみで殴られたのちボディープレスされるか、の違いでしかなく、地に後頭部を打ち付けた原因は他にあろうハズがない。
いやいや、後頭部の痛みの原因なんかイマサラどうしようもないのだから、どうでもいい。
そんなことより――
「塩まんじゅうってなんですか?」
壱さんが素敵な疑問顔で繰り返す。
アンタはそればっかですか。夢でも現でも塩まんじゅうなんですかッ。
と若干の苛立ちを覚えたところで、なにが好転するわけでもないので、
「それはそれは美味しゅう、ほっぺたが落ちるにとどまらず、他人を湯のみでぶん殴ったあげくにボディープレスしたくなるほどの味わいな――おまんじゅう、ですっ」
「それは“しお”という名の危ないお薬が混入した、いろんな意味でオイシイおまんじゅうなのでしょうか」
眉間に小じわを刻んで、真剣な表情でおっしゃる壱さん。だが、なんでそんなどうでもいいところで、真面目な反応を返してくださるのかしら、ねッ?
「いやもう、危ない意味の“オイシイ”おまんじゅうでいいですから、オレの問いかけに答えてくださいよ」
「問い?」
んな、可愛く小首を傾げたって何も出ませんよ。ていうかむしろオレが出して欲しいのですよ、返答を。
「さっき口ずさんでいた歌についてです」
「見上げてごらん〜ですか?」
「そうです」
と力んで言ってみたものの、なんでか壱さん黙りこくり――
沈黙……。
なにコレは。どんなジラシのプレイですか。
「いえ、べつにジラシて楽しんでいるわけではなくて、あの歌について何を問われているのかわからなくて」
壱さんは眉尻を下げて困ったさんな表情をする。
ああ、なるほど、急ぎすぎましたかオレ。
「どうしてあの歌を知っているのですか?」
そう、どうして壱さんが、“見上げてごらん夜の星を”を知っているのか。
オレもリアルタイムで知っているわけではないが、テレビを観ていると昭和を代表する名曲であるとかで不意に流れていたりするし、最近でも有名なアーティストがカバーして歌っていたりする。たしか“坂本九”氏の歌であったと思う。
つまり、オレの世界での有名曲である。
それを、なぜ壱さんが口ずさむ?
「どうしてって――」
なんだそんなこと、とでも言いたげなキョトンとした顔つきで、
「――覚えたからに決まってるじゃないですか」
あたりまえじゃん、と壱さんの表情が語っている。
もうっ!
抱きしめちゃうぞっ!
形容し難い、指先をワナワナと動かしまくってしまう、煮え切らない、全身を駆けずり回るこの感覚が、もはや憤りとかそういうモノを超越して、いっそ抱きしめてしまいたくなる。という奇妙な感覚が、お頭の九割を占領したが、しかし優秀な理性というか自制心が、それらの奇妙な感覚を駆逐して、オレに冷静さを取り戻してくれる。
「いやもうごもっともなんですけれど、そうではなくて……、えーと、どうやって覚えた――いや、そう、誰かに教わったんですか?」
「ええ、そうですよ」
オレはやっと最適な問いを言えたようだ。
そして壱さんが語るに、
「ほら、まえに鉄の大鳥のお話をしたことがあったじゃないですか、じつはですね、そのお話を私に聞かせてくれた人が、先ほどの歌も教えてくれたのですよ」
アバウトすぎてオレが得たかった回答とはちょいと違うが、
「ちなみにどんな感じのお人でしたか?」
兎にも角にも、いまのオレは、自分の世界とのつながりが髪の毛ほどの細さでも得られれば喜ぶべき事態なので、些細な情報でも欲しい。
「そうですね……」
深いところにある記憶を呼び起こそうとしているのか、壱さんは曲げた右手人差し指をアゴにあてて、思案顔で「んんー」とうなり、
「ひとつの約束を果たせずに来てしまった、せめて歌よ響けよ世界を越えて――と言っていたのが印象的な方でしたね」
うん、と一人思い出し納得したように壱さんはうなずく。
来てしまった、世界を越えて、か。やっぱりオレと同じような人が居る可能性は大きいと考えて間違いない、のかな。
いや、でもしかし、壱さんに歌を教えたその人物は、ここが何所だか検討がついているのか? “来てしまった”って、来たくなかったけど、来てしまったていうことなのか? んんー考えても、よくわからない。
オレが思考の迷路に迷い込み始めたらば、
「ふぁ〜」
壱さんが大きなアクビをかました。
そしてスクッと立ち上がるや、
「それでは刀さん、たき火のばんと見張り、交代です」
と言い残し、いつの間にか握っていた杖をたくみに使い、少し離れたところに在るリアカーの近くまで移動し、杖でなんだろう毛皮のカタマリのようなモノをつつくと、姿勢を低くして手で直接それの感触を確かめ、その中へもぐりこむ。よくよく目を凝らしてみると、その毛皮のカタマリの下には、ツミさんとバツが安らかな表情で寝息をたてている。
なんだ、どういうことったい?
疑問と共に意識を広げると、どうやらオレはたき火の前で壱さんに膝枕してもらって寝ていたらしいということを知る。
「で、オレにどうしろと?」
あまりにも周辺警戒とたき火ばんがヒマを極めるものだったので、どうやら壱さんにボディータックルされてそのまま寝ていたらしいオレが見ていた夢を含めた、いまに到るまでの出来事を日記帳に書き書きしたわけだが、
「さすがに、眠い」
星々が煌く夜空は、いまや薄明るい。
いやまあ、つまるところ、気持ち良さそうに寝ているお人を叩き起こすということができなかったマイチキンハートなわけで。
夜の次には朝が来るわけで。
オレは眠いわけで。
早くどなたか自然起床してくれないかなぁ……。
そんな事を願いつつ、起きているのか寝ているのか曖昧な思考の中をただよっていたオレの耳に、
「どなたかァーッ! 助けてくださいましぃーッ!」
そんな騒音が飛び込んできたのは、果たして夢か現か――