起/第一話:その時、大型ダンプがやって来て……
これは、彼女のお話である。
* * *
不意に目が覚める。
ハッキリ言えば、望まぬ目覚めだ。
だから、
「あと五分……」
なぜに五分なのか――とか、そういう疑問も無くはないが、お決まりのセリフと共に、二度目の睡眠にはいろうと思う。
望まぬ目覚めであったが、しかしこの二度目の睡眠にはいる瞬間に、いわれもない至福を感じるのは、なぜだろうか。
「はい、五分。終ぅー了ぉー。とっとと、起きやがれ」
ああ、わかってない。わかってないなぁー。この至福をわかれないとは、人生九割損してるよ?
「あんたの二倍は生きてるけどね。そんなんで損した憶えはないわよ」
「おふくろさんよぉ〜、おふくろさん」
「なによ」
「そんなんだからぁ〜、目尻にシワがぁ〜――ごっふぉっ!」
クソお袋めっ! 寝ていて無防備な青少年の下腹部に、カカトをぶち込むとはっ!
「ほら、早くしないとバスに乗り遅れる」
はいはい、起きますよ。
「ていうか、痛くて眠気跳んじゃったし」
そんなこんなでオレは起床し、本日が始まった。
下腹部に鈍痛を感じつつ部屋から出ると、そこには朝の匂いがあった。
ようは朝飯の匂いである。
とくに味噌汁と焼いた魚の匂いが強い。二階まで届くのだから格別だろう。
アクビを噛み殺しつつ、階段を降りる。
お決まりのコースに沿って、まず便所へ向かう。そして朝一番の御仕事を済ませてから、洗面所へ向かい手を清潔キレイにして、次いで顔を洗う。
お手が過ちを犯し、鼻に水が入ってちょっと痛い思いをする破目になったが、タオルで二度三度と鼻をかんだらどうにか痛みは遠退いた。
「なんで、タオルで、鼻かんでるのよ」
鼻の痛みと戦いながら現れたオレに言うのは、テーブルに品を並べているお袋である。
「オレの鼻はデリケートでね」
そんな返答をしつつ、テーブルの席に着く。目の前には、朝食の定番がいらっしゃった。
ほっこりご飯に、アジの開き、ナメコの味噌汁、きゅうりの漬物――最後に牛乳。
これが我家の定番メニューである。世間様では朝はパン派とか言って、こじゃれたトーストとか出るのかもしれないが、それは世間での話しである。知ったことか。オレは生まれてこのかた、ごはん派だ。
朝食を喰らいつつ、朝のテレビニュースを観る。
どうにも、最近のテレビ局は個人の能力よりも容姿を重視するのか、原稿を読みながら噛む人が目立つ。まあ正直、ニュースの中身よりも、この番組の中で噛む人がどれだけいるかを数えるほうが面白い。
そんなこんなで朝食は食べ終わり、一息吐きつつ、ニュース番組の後半を観る。
が、最後まで観れないのが我が常。
番組終了十五分前に家を出ないとバスに乗り遅れ、学校に遅刻してしまうのだ。
正直に言えば遅刻したっていいのだが、まぁそこは、ほら、世間体とオレの意識は一致しないもの。遅刻して“いいこと”なんぞあるわけがない。
というわけで、歯を磨いてから自室に戻り、必要な物があらかじめ詰ったカバンを持ってから、番組終了十五分前というギリギリまで朝のニュースをしっかり視聴して、家を出る。
我が高等学園には指定の制服とかがないので、本当にギリギリまで何もしてなくて大丈夫なのが良いところだと思う。
ときたま道の状況で遅れたりもするが、始発のバス停にはいつも乗るバスが止まっていた。
方向的に乗る人が少ないのか、本数が多いことが幸いしてなのか、バスの中は混んでいるわけでもなく、かと言って空いているわけでもない。そんな状況で、オレはいつもと同じように、一番後ろの扉側の窓際に座る。
なんというか“小・中・高”と通学で長年乗り続けていると、特等席というのか、自分の尻がピッタリフィットしてやたらと落ち着く席ができたりする。この一番後ろの席が、つまりオレの座る席というわけだ。
眠気を引きずっている時はこのまま寝に落ちるのだが、いまはそうでもないので、カバンに手を突っ込み、読みかけの文庫本を取り出し、読書を始める。
二ページ目を読み終えたとき、扉の閉まる音が聞こえた。それまで停止していたエンジンが駆動し、時には子守唄のごとき振動と音を発しながら、バスが走り出す。
これから約一時間、座りっぱなしだ。
心地好い揺れに身を任せつつ、読書に専念するとしよう。
どれほどの時が過ぎたのだろうか。
区切りのいいところで、いったん読書を休む。
目を休ませつつ、いまどの辺りを走行中なのだろうかと、窓の外に視線をやる。それにあわせるかのように、バスは赤信号で停車した。
現在位置は、通行量の激しい、よく渋滞する大街道の途中にある交差点だった。この交差点を右に折れて、そこにある急な坂道を登れば、目的地たる終点までは、あと十五分ほどである。
「まあ、道が混まなければだけど」
長年のバス通学の経験上、渋滞する確率は八割強だ。
ハッキリ言って、混まぬ方が珍しい。
というか、オレがバスの心地好い揺れに身をまかせて寝入ったときに限って、終点到着時間的に道が空いていたと予測できる。つまり何の因果か、オレが寝てないときほど道が混んでいるのだ。正直、しょーじきな話――というか、誰だって逆のほうが好ましい。現状、非常に損した気分である。
が、世は無常にも事も無く、オレが損する方向に動くわけだ。
まあ、嘆いてもしょうがない。
貴重な時間を有効活用するために、読書を再開しよう。
そう思い、指が文庫本に触れ、右手人差し指が枝折に触れた――
――刹那。
低音なクラクションが間近から大音で聞こえ、
反射的に見たそこには、
大型ダンプが、
刹那の距離に、
次にあったのは、息が詰るほどの衝撃――
ではなく、
わき腹をツンツンと探るように突かれる感覚だった。
が、とうとつにツンツン突きは止む。
数泊の間を置いて、今度はさわさわと、わき腹から背中にかけてをまさぐるような手の触感があり、それは次いでもみもみと微妙に力を加えて、触れた物体を確認するように動く。
なんだ?
もみもみされる感覚に耐えかねてガバッと目を開いたオレの視界に映ったのは、カサカサにジャリってる地べたであった。左のほっぺにジャリが食い込んで、中途半端に痛い。そのうえ、口呼吸するたびに砂の味がする……
そこでオレは、自身の不自然さに気がつく。
「なぜにジャリの上で寝てるんだ……?」
声を出して初めて判ったが、口のどこかを切っているらしく、じんわりとした痛みが鉄っぽい血の味と侵入した砂の味とまじり合って口内に広がった。
ああ、そうか――確か本読もうとしたらダンプが……、あの後どうなったんだろう? よくわかんないけど、外に投げ出されたのかな……? 口の中、痛いなぁ……声を出すのは控えよう。
「もし、もし――」
声を出すのを控えようと決断したとたん、もみもみ触感と共に声がふってきた。
「もしもし、大丈夫ですか?」
「血と砂の味が口の中いっぱいに広がってますが、たぶん大丈夫です」
オレは答えつつ、首と眼球を最大限に動かして、声の聞こえたほうを見やる。
そこに居たのは、紫色が主色の民族衣装みたいな服を着て、オレをツンツン突いていたと思しき棒のような物を左手に握り、右手でオレの右肩甲骨あたりを揺すりつつ、明後日の方向へ目線をやっている、少しバサついた黒髪を肩口でテキトウにぶった切った、女のような顔をした人物だった。
「そうですか。それはよかったです。てっきり、行き倒れかと思ってしまいました」
安堵したふうに言うその声は、透き通るように澄んだ――あるいは、儚げな色だった。聴いた感じだと女性の声のようだ。
うつ伏せ状態のままなうえ、右肩甲骨あたりに手を押し込むように置かれて身動きがとりにくいので、
「ははは、いまどきの日本で行き倒れはないですよ」
地べたに左ほっぺを食い込ませたまま、返答する。
「大変。やっぱり無理をしているのですね。おむすびしか持ってないですけど、いま出しますから、どうぞ食べてください」
我が返答のどこら辺を聴くと、そんな反応ができるんだろうか。
彼女の声色には、本気で「大変っ!」という雰囲気がこもっていた。
まあ、お腹は空いていないが、彼女がおむすびを取り出すために右肩甲骨の上から手をどけてくれたおかげで、オレは地べたと頬をすり合わせている現状から抜け出せる。
全身に力を込めてみても、とりたてて痛むところはなかったので、
ガバッ! と身を起こした。
目の前に広がるのは、東京砂漠の端っこ――ではなく、
「あっれええぇぇぇぇええええぇぇ――」
遮る物の無い、だだっ広い、果てに見える山脈のすそ野まで広がる田園風景……。
「――えぇッ?」
どーなってるんっ? と全身で疑問符をアーティスティックに表現していたら、おむすびを取り出した彼女が少し探るようにさまよわせた手にガシッと肩をつかまれた。やはり視線を合わせないまま、彼女は「落ち着け」と言わんばかりに、ずいっとおむすびを差し出してくる。
オレは無言のままにそれを受け取り――
きっと、コレを全部食って全身全霊で落ち着けば……
目を閉じ、神聖なモノをいただくように、オレは一口、また一口と、おむすびを噛みしめた。
ちょっと塩っけが強いなぁ、口内の傷にチトしみるなぁ、とか思いながらも美味しくいただき、指先っちょに付いた米粒をも綺麗に喰らい――
鼻から大きく空気を吸い込み、「スゥ〜」と口から息を吐く。
深呼吸をし、呼吸を整えてから、
ゆっくり、慎重に、両の眼を見開き……
…………
………………
……………………
…………………………
「…………。ココ、何所?」
しんぷるいずざべすとな疑問系。
誰か、我がシンプルな脳にも理解できるように、この状況を説明しておくれ……。
「この辺りは、王国の外れですよ」
おお、お優しい彼女さん。我がシンプルな脳でもわかるよう端的に教えてくれてありがとう。
でも、
「いつ日本に王国ができたんですかあっ? わたくし、ムツゴロウ王国しか聞いたことないですよ……」
ダンプにぶっ飛ばされて、時を駆けてしまったのかなオレ。それとも時代の流動はオレが思うよりも早く速く激しいのかな。時代の流れに取り残されちゃったのかなオレ。
「あの……、さっきから貴方が言っている“ニホン”て、なんていう意味なんですか? それとムツゴロウ王国という国名は初めて聞いたのですけど、ここからは遠いのですか?」
ああ、彼女さん。アナタは明後日の方向を見ながら、何を問うているのですか?
日本の意味って。そりゃあ、突き詰めた歴史背景云々付きの意味はオレも知らないけれどさ、その問いかけは愚問でしょう。
それにムツゴロウ王国は王国だけど国名じゃないってことくらい、知っているでしょう? 動物とディープに全身全霊で語り合うアノお人を知っていれば。
「本当に知らないんですか?」
「はい……? 私は、いままで知りませんでしたけど」
「本当に? ダンプにぶっ飛ばされて頭を強く打ったとかしてない?」
「“だんぷ”――ですか? その言葉も初めて聞きました。やはり貴方は遠い国の人なのですか? こっちの言葉が上手なので、てっきりこちらの地方の方かと」
あっれぇ? なんでだろう。全然、話がかみ合わない……。
どうする。
どうすんの――オレっ!
「どうなってるんだぁぁぁぁああああぁぁぁぁああああっ!」
とりあえず、叫んで現実逃避することにした。