第7話 本当に見えないもの(解決編)
夕刻を過ぎ、うっすらとした残照に包まれたトランスパレンツ家の館。その大広間、ヤコブが殺害された現場に、七人の男女が集っていた。ハンナ、スフィンクス、オフィーリアの三人に加え、ハンス、マシュー、フランケン、そしてリンケの四人が、お互いに不審の眼差しを向け合っていた。
彼らを呼び集めた当のハンナは、何かを待ち受けるように、腕組みをしてじっと天窓を見上げているだけだった。苛立ったマシューが、靴の爪先で床板を小突いた。
「おい、もう七時になるぜ?」
遠くで鳴った柱時計の鐘に、マシューはちらりと視線を向けた。
「そろそろね……」
ハンナは他の六人を一瞥して、部屋の中央へと躍り出た。
六人は輪を描くように、ハンナの周りに並び立った。
「今から、ヤコブ・フォン・トランスパレンツ殺害事件の真相をお話しします」
スフィンクスとオフィーリアは、準備完了と目で合図した。一方、他のメンバーは明らかに動揺を隠せていなかった。
その中で比較的落ち着きを見せていたのは、なんとマシューだった。
「ハハーン、オレを逮捕する気だな?」
ハンナは右手を上げ、マシューを黙らせた。
少年はムッと口元を歪め、ハンナに一歩詰め寄った。
「おい、もったいぶらないで言えよッ! オレを疑ってるんだろッ!?」
「私は、真相をお話しすると言いました。犯人の名前を挙げるのは最後です」
ハンナの気迫に、ハンスは唇を噛んで、うしろに下がった。
ハンナは前置きするようにもう一度、六人の顔を見回した。
「……では、最初から説明させていただきます。今回の事件について、私とオフィーリア刑事、助手のスフィンクスの三人で調査をした結果、被害者のヤコブさんは、加害者の存在に気付かないまま殺されたという結論に至りました」
ハンスとマシューが、お互いに目配せした。
「ヤコブさんは、正面からひたいの中央を殴打され、それを防ごうとした形跡がありませんでした。これは、加害者の姿が見えなかったからだと思われます」
ハンナは、そこで言葉を切った。すると、マシューが大声で笑い始めた。
「何がおかしいのですか?」
「ハハハ……いや、だってさ……」
笑い過ぎて溢れ出した涙を拭いながら、マシューが答えた。
「あまりにも間抜けな推理だからさ。要するに、あんたはこう言いたいんだろ? ヤコブ兄さんが犯人に気付かなかったのは、犯人が透明……」
「いいえ、違います」
ハンナの先制攻撃に、マシューは笑顔を崩した。
「トランスパレンツ家の人々は、透明になってもお互いの姿が見える……そのことは、フランケンさんから、既にお聞きしました」
マシューはちらりと、フランケンを盗み見た。
フランケンは直立不動の姿勢で、その視線に耐えていた。
「……じゃあ犯人は、オレたち以外の透明人間ってこと? それとも幽霊?」
「事件はもっと単純なのですよ。ヤコブさんの目に犯人の姿が映らなかったのは……」
ごくりと喉を鳴らす音が聞こえた。
息苦しい緊迫感のなか、その場に居合わせるだれもが、ハンナの次の一言を待った。
「この部屋が真っ暗だったからです」
一瞬の沈黙。
それを破ったのは、フランケンの野太い声だった。
「お、お待ちください。私の記憶では、ヤコブ様はこの部屋の中央にお倒れでした。それにもかかわらず、なぜ部屋のなかが暗いのです? ヤコブ様は、この部屋へお入りになられたあと、入口のそばにある電灯のスイッチを必ず……」
「そこが盲点なのです」
ハンナはスフィンクスに、目で合図を送った。
スフィンクスは黙って、部屋の入口へと向かった。
そのあいだ、ハンナは、粛々と説明を続けた。
「なるほど、フランケンさんのおっしゃることは、ごもっともです。ヤコブさんが殺害されたのは、おそらく深夜。この部屋は、真っ暗だったに違いありません」
「ならば、さきほどの推理は……」
ハンナは鋭い目付きで、フランケンを制止した。
「ですから、そこが盲点なのです。真っ暗な部屋に入れば、だれでも明かりを点ける。果たしてそうでしょうか、ハンスさん?」
名前を呼ばれた青年は、かすかに体を動かした。
「……なぜ僕に訊くんです?」
「ハンスさん、あなたは遺言状をお捜しですね? そしてあなたは、物体を透過させる能力をお持ちなのに、遺言状はまだ見つかっていない……」
「ええ、その通りです……しかし、なぜ今その話をするのですか?」
「それはまさに、その遺言状の隠し場所が、今回の殺人事件のトリックと動機になっているからです……スフィンクス!」
ハンナの掛け声と同時に、部屋の明かりが消えた。
突然襲った暗闇に、めいめいが声を上げた。
「あ、あれはッ!?」
マシューの声。
指示対象の掴めぬ人々も、すぐにそれが何であるかを理解した。
入口に向かって左側の壁に、うっすらと淡い光が見えた。
「け、蛍光塗料だッ!」
ハンスが叫ぶのと同時に、だれかが入口へと駆け出す足音が聞こえた。
「止まりなさいッ!」
ハンナが大声で叫ぶと、部屋は明るさを取戻した。
足音の主は、リンケだった。
「リンケさん……やはりあなたが犯人だったのですね……」
「ち、違います……わ、私は……」
舌がもつれているのか、リンケは不明瞭に口ごもった。
そこへ、マシューが猛然と割り込んで来た。
「ふざけるなッ! リンケが犯人なわけないだろッ! 証拠はあるのかよッ!?」
マシューは、リンケを庇うように立ちはだかった。
その肩を押しのけて、ハンナはリンケのまえに出た。
「もちろん、証拠はあります……オフィーリアさん、例のものを」
「はい」
オフィーリアはポケットから黒い箱を取り出し、その表面に触れた。
《すべて私のせいなんです……私が身分違いの恋などしたせいで……マシュー様が家を追い出されてしまうなんて……私さえいなければ、マシュー様は今頃……ううっ》
再生されたリンケの声に、マシューは困惑した。
「そう驚かないでください。これは私の国の発明品で、人間の声を記録することができる道具なのです……さて、リンケさん」
ハンナは、リンケへとさらに詰め寄った。
リンケの不規則な吐息が、ハンナの耳にも届くほど近くなった。
「ヨハンさんは、自分が発明した蛍光塗料をインク代わりに使って、あの壁に遺言状の下書きを残しました。ちょっとした遊び心だったのか、それとも相続人を指名する際のテストに使うつもりだったのか、今となっては分かりません。しかし、リンケさん、なぜあなたが、その下書きの内容をご存知なのです?」
「そ、それは館の者ならだれでも……」
リンケの弁明に、ハンナの美しい瞳が光った。
「いいえ、それは嘘です。うわさの内容は、マシューさんとあなたが、この館で生涯隠居するというもののはず。違いますか?」
ハンナは、マシューに同意を求めた。
マシューは人形のように、ぎこちなくうなずいた。
「ところがリンケさん、あなたは、マシューさんが館を追い出されると考えた……いえ、考えたのではなく、そうなることを知っていたのです。館に流れているうわさとは違い、先代のヨハンさんは、マシューさんを遠方の領地へ島流しにするつもりでした。あの下書きにも、同じことが書かれています」
リンケは震えながら、視線を床に落とした。
ハンナは、ふたたび六人の輪の中央に立ち、一同を見回した。
「事件のあらましはこうです。なんらかの偶然から、リンケさんはあの下書きを見つけました。おそらくは、掃除のときでしょう。あるいは、先代のヨハンさんが、この部屋に出入りするところを、目撃したのかもしれません。ともかく、遺言状を見つけたリンケさんは、それを利用してヤコブさんを殺害する計画を立てました」
ハンナは、そこで一息入れた。その場のだれもが、続きを待ちこがれていた。
「リンケさんは、遺言状の在り処をヤコブさんに匿名でリークし、暗がりの中で彼の入室を待ち続けました。そして、ヤコブさんが蛍光塗料を確認するため、明かりを点けずに部屋の中央へ来たところで、頭部を正面から殴りつけたのです。マシューさんは、その夜、ランプを持ったヤコブさんと偶然出会ったそうです。しかし、この館にはデンキュウというものがあり、夜でも明るい。なぜランプを携帯する必要があったのでしょうか? リンケさんは、わたしたちを寝室へ案内するとき、そのようなものを持っていませんでした。そうなると、使い道はひとつしかありません」
ハンナは、ハンスに視線を移した。
ハンスは軽く首をひねってから、こう答えた。
「遺言状を確認するには、灯りをつけられなかったからでしょう?」
「そのとおりです。わたしはこの国に来て日が浅く、ヨハンさんの発明品を、つまびらかには知りませんでした。そこで、フランケンさんの発言に、おやと思ったのです」
「わ、わたくしの発言というのは?」
「『ヨハン様の生涯は、光というテーマに貫かれておりました』……さらにあなたは、ヨハンさんが『特殊な塗料』を発明したとも言いました。光と関係する塗料……わたしの住んでいた世界にはありませんでしたが、オフィーリアさんは知っていました」
オフィーリアは、どうだと言わんばかりに親指を立てた。
「たしかに……蛍光塗料は、ヨハン様が発明なさったものです……」
フランケンはハンカチを取り出すと、ひたいの汗をぬぐった。
ハンナはうなずいて、リンケに視線をもどした。
「リンケさん、あなたはなぜ、わたしたちの案内役に選ばれたのですか?」
「……」
「それは、あなたがメイド服でいたからです……なぜメイド服だったのですか? あの夜のあなたは、マシューさんとの逢い引きを予定していました。それならば、さっさと私服に着替えていなければならない。仕事服に妙な皺が寄ったりすると、次の日に見咎められる虞がありますから。つまり、あなたは、ひと仕事する必要があったのです。ヤコブさんを殺害するためには、館のなかを徘徊しなければならず、そのとき私服姿を見られては困るからです」
ハンナの推理は、そこで終わった。
全員の眼差しが、リンケに注がれた。
一様に守られた沈黙のなかで、マシューが口を開いた。
「リンケ……おまえ……嘘だろ?」
リンケは答えない。
「嘘だと言ってく……」
「うるさいッ! この大馬鹿野郎ッ!」
豹変したリンケの声に、その場の空気が凍りついた。
「リンケ、今なんて……?」
「大馬鹿野郎って言ったのよッ! せっかく色目使いで取り入ったと思ったら、ヘマして勘当されるなんてッ! 私の計画が台無しじゃないッ! だから私はヤコブを殺して、ハンスに罪を着せてやろうと考えたのよッ! そうすれば……そうすれば……」
リンケの瞳から、大粒の涙がこぼれた。
「そうすれば、あなたがすべてを相続できたのに……」
リンケは、スカートの裾へと手を伸ばした。
その動作の意味を、ハンナは数秒遅れで理解した。
「こうなったら……ッ!」
リンケは手に握り締めたナイフを、自分の喉元へと向けた。
「止めなさいッ!」
ハンナが飛び掛かろうとしたとき、一筋の光が、リンケの胸を突いた。
リンケは軽い悲鳴を上げたあと、ナイフを手放し、床に崩れ落ちた。
ハンナが振り返ると、そこには例の箱を構えたオフィーリアの姿があった。
「射撃の苦手な私も、さすがにこの距離は外しませんよ」
その声と重なるように、床を踏み鳴らす足音。
ハンナは、入口を飛び出すマシューの後ろ姿を見送った。
少年の頬には、流れるように光る涙の河が見えた。
「ハ、ハンニャ様! 追わニャくていいんですかニャ!?」
入口のとびらとハンナとを交互に見比べるスフィンクスに、彼女は首を振った。
「色恋沙汰の後始末は、わたしの仕事じゃないわ……もう終わったのよ……」
○
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リンケをオフィーリアに引き渡したあと、ハンナとスフィンクスは、支度も早々にトランスパレンツ家の館を去った。現場に残された物悲しい雰囲気が、ハンナの背中からゆっくりと遠ざかっていくのが分かった。
オフィーリアの話によれば、リンケはなんらかの治療を受け、マシューたちは記憶を消され、死んだヤコブについては、そのそっくりさんがあとを引き継ぐことになるのだと言う。その話に少しばかりホッとしつつも、スフィンクスは大げさに溜め息を吐いてみせた。
「ニャー……マシューさんも可哀想ですニャ。もとに戻ったら、あの性悪女とまた付き合うことにニャりますニャ……」
「そうかしら?」
ふとハンナは足を止め、遠くに霞むトランスパレンツの館を振り仰いだ。
「リンケさんは、ひとつだけ嘘を吐いたんじゃないかしら?」
「嘘……ですかニャ?」
スフィンクスは、怪訝そうに眉をひそめた。
ハンナは、ぼんやりと先を続けた。
「リンケさんは、財産目当てじゃなかったのよ……マシューを本気で愛していた……だからこそ、最後に嘘を吐いたんだわ……殺人犯である自分が、マシューから愛想を尽かされるようにね……それに、リンケさんが犯人である以上、その恋人のマシューにも嫌疑が掛かったかもしれない……彼に迷惑が掛からないよう、リンケさんはすべてを自白して、死ぬつもりだったんだわ……」
ハンナの話に聞き入っていたスフィンクスは、ハッと目を見開いた。
「そ、そうだったんですかニャ……酷いことを言ってしまいましたニャ……」
しょぼくれたスフィンクスに、ハンナは悲し気な笑みを送った。
「全部、私の解釈に過ぎないわ……だって……」
ハンナは過去を振り切るように、そっと歩み出す。
「結局、最後まで見えないのは、人間の心なんだもの」