第2話 透明な殺意
「さきほどは、弟のマシューが失礼致しました。お許しください」
寝間着のガウンを着た三十代そこそこの男が、深々と頭を下げた。
「ほんとだニャ。心臓が止ま……」
ハンナの手が、スフィンクスの口を塞いだ。
「いえ……こちらこそ、夜分に失礼致しました……」
男はスフィンクスを一瞥したあと、ふたたび社交的な笑顔に戻った。
「私はこの館の主、ヤコブと申します。ハンナ様とおっしゃいましたね。町までは、まだずいぶんと道のりがあります。今夜はぜひ、この館で一夜をお過ごしください」
「お心遣い、感謝致します」
ハンナの礼に、ヤコブは目を細めた。
明らかに自分を女として見ている。ハンナの勘がそう囁いた。
「いえいえ、このような時間に女性ふたりで山を越えられるのは、あまりにも物騒。当然のこととお受け取りください。では、部屋を用意させますので……おい、リンケ!」
ハンナから向かって左サイドの扉が開いた。
長い後ろ髪を束ねたメイドが、控え目な態度で部屋へと入って来た。
「ヤコブ様、お呼びでしょうか?」
「お部屋の用意はできたかね?」
「はい、既に用意してございます」
メイドはそう言って、杓子定規に頭をさげた。
「夜も遅いですし、私はこれで失礼させていただきます」
「ありがとうございました、ヤコブ様。おやすみなさいませ」
ハンナは、あらためて礼を述べた。
ヤコブは右サイドのドアを通じて、部屋を出て行った。
あとにはハンナとスフィンクス、そして、見ず知らずのメイドだけが残された。
「では、お部屋にご案内致します。申し訳ございませんが、客室のフロアは屋敷の反対側になっておりますので、わたくしについていらしてください」
メイドは、ハンナたちがここへ案内されたときに通った後方のドアをひらき、一足先に部屋を出た。ハンナとスフィンクスも、黙ってそれに続いた。玄関ホールへと戻り、さらにその奥の通路へと歩を進めた。応接間とは、まったく逆の方向だった。
3人とも、言葉ひとつ発しなかった。普通ならば気まずい時間だったが、疲れ切ったハンナには、むしろ心地よい沈黙だった。途中の階段をひとつあがって、すぐ右手の壁に、例の光の玉が備え付けられていた。
「こちらでございます」
メイドがドアをあけて、ふたりに入室を促した。
ハンナとスフィンクスは、真っ暗な部屋の中へと、足を踏み入れた。
暗くて何も見えない。蝋燭はないのかと、ハンナは暗がりの中で、手探りをした。足下のテーブルにぶつかりそうになったところで、室内がパッと明るくなった。
振り返ると、怪訝そうに彼女たちを見つめるメイドの顔があった。
「あの……灯りのスイッチはこちらに……」
メイドは最後まで言わず、事務的に姿勢を整えると、ぺこりと頭をさげた。
「では、ごゆっくり……」
「ちょっと待って」
ハンナの呼びつけに、メイドは礼をしたまま固まった。
「……なにか、お言い付けでしょうか?」
「いえ、そういうわけじゃないんだけど……リンケさん……だったかしら?」
ハンナは室内を見回して、光の発生源を突き止めた。
光り輝くガラス細工のようなものが、天井からぶらさがっていた。
「変な質問かもしれないけど……あれって、いったいなに?」
メイドは首を曲げ、ハンナの指差したものを、ぽかんと見つめた。
「……電球ですか?」
「デンキュウ?」
ハンナは、聞き慣れぬ単語を、おかしなアクセントでリピートした。
メイドはハッとなり、ハンナのほうへ視線を戻した。
「電球をご存じないのですか?」
「えっと……まあ、そうね……」
ハンナは、恥ずかしそうに頭を掻いた。
客人を困らせたことに気付いたメイドは、あわてて居住まいを正した。
「し、失礼致しました。電球というのは、電気を使って明かりをつける道具のことで、先日お亡くなりになられたこの館の当主、ヨハン様の発明品です」
デンキという言葉に、ハンナの思考回路は、ふたたび疑問符を投げ掛けた。
しかし、彼女は敢えて追及しなかった。
説明されても分からないだろう。そう思ったのである。
「失礼ですが、おふたりは外国の方で……?」
リンケは、おずおずと尋ねた。
「そうね……すごく遠い国から来たの……」
「そうでしたか……では、お分かりになられないことがございましたら、なんなりとお尋ねください。すぐに参りますので。では、どうぞごゆっくり……」
そう言い残して、リンケはとびらを閉めた。
ハンナとスフィンクスは、お互いに顔を見合わせた。
「どうやら私たち、未来の世界に来ちゃったみたいね」
「ニャニャ? 未来?」
ハンナは、天井にぶらさがった、電球なる物体を見上げた。
これが未来の技術でなくして、なんだろう。ハンナがもともと住んでいた世界では、灯りと言えばランプと蝋燭くらいしかなかった。このデンキュウという代物は、炎とは異なる原理で光っているらしかった。でなければ、火事が恐くてどうしようもないだろう。
「とにかく、用心するに越したことはないわ。この世界の事情が分かるまで、しばらく様子を見ましょう。そのデンキュウに触っちゃダメよ。なにが起こるか分からないから」
「りょ、了解ですニャ。ところで……」
ハンナの視線に合わせて、スフィンクスも天井を見上げた。
「これは、どうやって暗くするんですかニャ?」
○
。
.
コンコン
ハンナは微睡みから目覚め、ベッドの中で寝返りを打った。
コンコン
「うーん……もう朝なの……?」
ハンナは体を起こし、ベッドから這い出ると、ふらつきながらドアを開けた。
「ハンナ様、スフィンクス様、おはようございま……すッ!?」
扉の向こうに現れたのは、リンケだった。
ハンナのあられもない格好を見て、リンケは口元に手を当てた。
寝間着のないハンナは、上半身裸で寝ていたのだ。
「し、失礼致しました」
リンケはドアノブに手を回し、扉を閉めようとした。
それを制するように、ハンナはドアの縁に手を掛けて、それを押しとどめた。
「もう起きたほうがいいのかしら?」
「で、できましたら……朝食の用意が済んでおりますので……」
「じゃあ、五分だけ待って。すぐに着替えるから」
ハンナはリンケを廊下に待たせると、いびきをかいてソファーの上で寝ているスフィンクスを叩き起こし、着替えを済ませた。
寝ぼけまなこをこするスフィンクスの手を引き、彼女は廊下に出た。
「お待たせ」
「い、いえ……では、食堂へご案内致します」
食堂は、階段を下りてすぐのところにあった。中へ入ると、純白のテーブルクロスに覆われた縦長のテーブルが、朝日に照らされてふたりを待っていた。
ふとハンナは、端のほうに座るふたりの若い男に目を留めた。
見覚えのある少年が、馴れ馴れしく手を振っているではないか。
「おはよう、昨日はよく眠れたかい?」
ハンナは少年の質問を無視して、すこし離れた席に腰を下ろした。
少年は、おおげさに肩をすくめて見せた。
「おやおや、朝からご機嫌斜めのようで……」
「昨晩はあまり眠れませんでしたわ。どなた様かに、悪戯されましたもので……」
少年のからかいに、ハンナは澄まし顔で答えた。
これはやられたと、少年は額に手を当てて笑った。
その隣にいた猫背の内気そうな青年が、軽く目を見開いた。
「マシュー、また透明になって、お客様の寝室に忍び込んだのかい?」
「やだな、ハンス兄さん。あのふたりが勝手に家へ上がり込んで来たから、すこしおどろかせてやっただけだよ」
「あら、たしかその前に、二度ほど玄関をノックしたのですけれどね。それに、鍵は内側から開けられたように記憶していますが」
ハンスと呼ばれた青年は、やれやれと首を左右に振った。マシュー少年は何か言い返そうとしたが、はたと口を噤んだ。リンケが戻って来たのだ。
静まりかえった食堂に、彼女のしずしずとした足音だけが響いた。お盆を持ったリンケはハンナたちのそばに立ち、ベーコンエッグとオレンジジュースを給仕した。
「では、ごゆっくりお召し上がりください」
リンケが食堂を去り、気まずい沈黙が室内を満たした。
ハンナとスフィンクスは一言も喋らず、もくもくと食事を進めた。
「辛気くさくてたまらないね。ごちそうさま」
そう言ってマシューが席を立った。
「まだ残ってるだろ?」
無機質な口調で、ハンスが声を掛けた。
「もういらないよ。兄さんこそ、ちんたら喰ってないで、親父の遺言状でも探したらどうなんだい? 執行人が来るのは、明後日なんだろ?」
ハンナには理解できない家庭の事情をまくし立て、マシューは食堂を出て行った。
バタンという強烈な開閉音に、スフィンクスが卵を喉に詰まらせた。
「失礼しました。弟は、ここのところ荒れ気味で……」
ハンスと呼ばれていた少年は、もうしわけなさそうに詫びをいれた。
「いえ、お構いなく……ところで……」
ハンナは間を取ってから、唇を動かした。
「先代のヨハン様は、最近お亡くなりになられたとか……?」
ハンスはフォークとナイフを置き、かすかに顔色を曇らせた。
「はい……先月、急な病で……」
「お悔やみ申し上げます」
ハンナの追悼に、ハンスはフッと笑みを漏らした。
「いいんです。父は、家族に好かれるタイプの人間ではありませんでした」
「しかし、マシューさんは、ずいぶんと神経質になっていらっしゃるようですが?」
「弟は気に病んでるんですよ。自分の将来をね。この国では、貴族の当主が遺言を書かずに亡くなった場合、長男がすべてを相続することになってるんです。他の親族にも、多少の生活資産は遺されますが、大した額では……」
そのとき、早朝の空気に相応しからぬ駆け足の音が、廊下から聞こえて来た。
「兄さんかな? どうしたんだろう?」
とびらが勢いよく開き、大柄な執事服の男が飛び込んで来た。
男のいかめしい顔からは、はっきりと血の気が失せていた。
「どうした、フランケン? お客様の前だぞ」
「ハンス坊ちゃま! ヤ、ヤコブ様がッ!」
「……何だ? 兄さんに、なにかあったのか?」
男は震える声で、先を続けた。
「お、お亡くなりになられましたッ……!」
ハンスは真っ青になると、椅子を倒れんばかりに押しのけた。
そして、フランケンと呼ばれた執事とともに、食堂を出て行った。
それを見届けたハンナとスフィンクスは、お互いに目配せをして、腰を上げた。フランケンが先頭をいそぎ、ホールを抜けた反対側の区画、昨晩、ハンナたちが通った廊下の途中にある装飾扉のまえで立ち止まった。
「こ、こちらです」
フランケンは声を落とし、ドアノブに太い指を掛けた。
重々しい音を立てて、扉がゆっくりと開いた。
四人の前に、ほとんど家具のない殺風景な大広間が現れた。その空虚な場の中央で、入口に頭を向けて横たわるガウン姿の男。それが長男のヤコブであることを、ハンナは扉越しに視認した。
さらに、そのヤコブのそばで呆然と立ち尽くしている少年の姿も。
「マシュー!」
ハンスの呼びかけに、少年はハッと我に返った。
「に、兄さん……」
「マシュー……おまえ……」
ヤコブの死体とマシューの顔を、ハンスは交互に見比べた。
マシューの顔色が変わった。
「ち、違うッ! オレがやったんじゃないッ!」
大声で容疑を否認するマシュー。
ハンスが室内に踏み込み、ハンナもそれに続こうとした。
「お待ちください」
巨大な手が、ハンナの肩を引き戻した。
「失礼ながら、お客様はこちらへ」




