第3話 寝ずの番
「ニャー……硬くてごつごつしてて、痛いですニャ……」
メイド服からオオカモメの衣装に着替えたハンナの横で、スフィンクスがぶつぶつと不平を言う。ハンナは書き物机で今日の日記をつけながら、関心がなさそうに言葉を返す。
「じゃあ放せば?」
ハンナの助言に対して、スフィンクスはキッと犬歯を剥き出しにした。
「そうはいきませんニャ!」
ここは館の3階にあてがわれたハンナたちの寝室。元は客間として使われていたのか、使用人の部屋にしては破格の居住性である。床にはきちんと絨毯が敷かれ、ベッドもふかふかの不毛布団。クローゼットにテーブル、それに書き物机までついている。
ここまで豪華な部屋で寝るのは久しぶりだと思いつつ、ハンナは気持ちを引き締めた。観光に来ているのではない。金庫の番をしなければ。
その金庫を今、スフィンクスが人形のように抱き締めている。一辺が30センチほどの、鉄でできた頑丈な代物だ。
「別に、そこまでして守れとは言われてないでしょ?」
「そんニャことニャいですニャ。こうして抱いて寝るのが、一番安全ですニャ」
そんな体勢じゃ寝られないだろう。そう言いかけたハンナは、頬肘をつき、金庫をしげしげと眺めた。
確かにベッドで悠長に寝ているよりは、この方がいいのかもしれない。半ばスフィンクスに同意する形で、ハンナはあることを思いついた。
「じゃあこうしましょ。ひとりずつ、3時間交代で寝るってのはどう?」
ハンナの提案に、スフィンクスの耳がぴくりと動く。
「ニャハ! それはニャイスアイデアですニャ!」
満面の笑みを浮かべるスフィンクス。それだけで場が明るくなりそうな笑顔だ。
ハンナは相棒のこういうところが好きだ。義賊などと粋がってみても、やはり辛い日もある。もはや故郷には帰れないとしても、どこかに定住したいと思うこともある。何度世界の変わり目をくぐり抜ければ、探している少年のもとへ辿り着けるのか、それは分からない。それがチキュウという名前であることしか、彼女は知らないのだ。もしかすると、一生再開できないのかもしれない。そう考えると、ハンナは少し鬱になってしまう。
そんなとき彼女を励ましてくれるのが、スフィンクスという少女の存在だった。最初は無理矢理弟子入りを迫られたが、今思えばいい決断であった。ハンナは心からそう思う。
「じゃ、順番を決め……」
ハンナがそう言いかけたところで、部屋の扉をノックする者があった。
スフィンクスは金庫にギュッと抱きつき、ハンナも書き物机から腰を上げる。
「……誰?」
「コーヒーをお持ち致しました」
女の声。それはハンナたちをこの部屋に案内した、メイドの声だった。
ハンナは剣の束に手を掛けたまま、慎重に扉を開く。案の定、30代くらいのぽっちゃりとしたメイドが、コーヒーポットの乗った木製のトレイを持ち、廊下に控えていた。
他に人の気配はない。
「こんな時間にコーヒーの差し入れ……?」
ハンナは警戒し過ぎて、まず礼を言うことすら忘れていた。
けれどもメイドは嫌な顔ひとつせず、言葉を返す。
「はい。寝ずの番には、やはりご入用かと思いまして」
ハンナは訝し気にメイドの様子を伺った。
誰が敵で誰が味方か分からないのだ。用心に越したことはない。
そう考えて、ハンナはさらに質問を重ねる。
「それは、あなた個人の好意? それとも他に誰か……」
「デイ・ポッセ様のお言い付けです」
メイドはトレイを持ったまま、身じろぎもせずそう答えた。
ポッセ老人の名前を出されても、ハンナの表情は猜疑心に満ちたままだ。
じっとポットを見つめた後、ゆっくり唇を動かす。
「そう……ありがとう……」
ハンナはトレイを受け取り、メイドに初めて礼を述べた。
メイドは会釈を返すと、そのまま廊下の奥へと消えて行く。足音が遠ざかり、廊下は再び静寂を取戻す。
ハンナはすぐに扉を閉め、鍵を掛けた。それからテーブルの上にトレイを置くと、湯気を立てるポットとふたつのコーヒーカップの前で、腕組みをする。
「ハンニャ様? ニャにしてるんですかニャ? 冷めますニャ」
飲みたくてうずうずしているのか、スフィンクスのしっぽが踊っている。
けれどもハンナは返事をせず、さらに1分ほど思案に耽った。
「……飲むのは止しましょう」
スフィンクスは金庫に抱きついたまま、ハニャと首を傾げた。
「本当にポッセの差し入れか、分からないでしょ? 毒でも入ってたらどうするの?」
ハンナの言い分に、スフィンクスは納得しつつも残念そうな顔をする。
「ニャー……このまま徹夜ですかニャ……」
「徹夜じゃないってば。交代で寝るって言ったでしょ?」
ハンナはそう言って、右手を差し出す。
それを見たスフィンクスは、今度は反対側に首を傾げる。
「握手ですかニャ?」
「握手してどうするのよ……じゃんけんよ、じゃんけん。勝った方が先に寝るの」
「ニャハ、そういうことですかニャ」
スフィンクスも右手を差し出し、ふたりで拳を握り合う。
「「じゃんけんポン!」」
ハンナがパー、スフィンクスがグー。ハンナの勝ちだ。
「ニャー、負けてしまいましたニャ……」
悔しそうな顔をするスフィンクスを他所に、ハンナはさっさとベッドに足を向ける。
「交代なんだから、勝ち負けは関係ないでしょ。じゃ、3時間後に起こしてちょうだい」
そう言ってハンナはシーツを頭から被り、電球の光を遮ると、すぐに寝てしまった。
数分後には、スースーという規則正しい寝息が聞こえてくる。
スフィンクスは顎を金庫の上に乗せ、ニャーとひと鳴きした。
「……暇だニャ」
書き物机の上にある置き時計が、カチコチと音を立てる。しばらくそれを見つめていたスフィンクスは、催眠術にかかったように大きくあくびをした。
「ニャハー……これはいかんニャ……」
30分くらいは何とか眠気に耐えていたスフィンクスだったが、時計の針が10時を過ぎた頃には、猛烈な睡魔に襲われ始めた。いくら夜中に動き回るのが義賊の生活とはいえ、物を盗むのと部屋の中でじっとしているのとでは、わけが違う。
「ネズミが1匹……ネズミが2匹……ネズミが……」
意識が飛びかけたスフィンクスは、ハッと首を上げる。
だがすぐに眠気が再来し、とてもではないが3時間も我慢できそうになかった。ハンナを起こして、一度交代してもらうか。そう思ったスフィンクスだが、気持ち良さそうに寝ているハンナを見ると、どうにも起こすのが憚られた。
仕方なくスフィンクスは、テーブルの上のコーヒーポットに、その猫目を向ける。
「コーヒー飲みたいニャ……」
スフィンクスは舌舐めずりをすると、ふらりと立ち上がり、テーブルに歩み寄る。
「ハンニャ様は考え過ぎだニャ……オイラたちの正体はバレてニャいんだから、毒ニャんて盛られるわけニャいニャ……」
こぽこぽとカップに黒い液体を注ぎ、スフィンクスは匂いを嗅いでみる。それから舌先でぴちゃりとひと舐めした。
どちらにも異常は見られない。
「ニャハ、やっぱり大丈夫だニャ」
スフィンクスは犬歯を剥き出しにして笑い、ごくりと一息に飲み干す。
すっかり冷めてしまっていたが、これはこれで味がある。
口元を袖で拭ってから、スフィンクスは持ち場へと戻った。
金庫を抱き直し、ホッと溜め息を吐く。
「これでもう大丈夫だニャ……」
スフィンクスは、カフェインの作用で目が冴えるのを待った。
ところが眠気は全く収まらず、反対にどんどん頭が重くなっていく。
「ニャニャ……変だニャ……」
あくびをしても頬をつねっても、睡魔は去ってくれない。
とうとうスフィンクスは、自慢の犬歯で自分の手の甲を噛んだ。
「ハ……ハニャ……」
痛みを感じる間もなく、スフィンクスの意識は闇に沈んだ。
○
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賑やかな小鳥のさえずりが聞こえてくる。
カーテンを閉め忘れた窓から差し込む朝日に、ハンナは目を覚ました。
上半身を起こし、うーんと大きく背伸びをする。
「あー、よく寝た……」
ハンナはふと、自分の台詞に疑問を抱く。……何かがおかしい。
昨晩、一度も見張りを引き受けた記憶がない。
ハンナは恐る恐る金庫の方を見た。
「ニャー……もう食べられませんニャ……」
そこには金庫にしがみついたまま涎を垂らし、寝言を呟くスフィンクスの姿があった。
ハンナはシーツを撥ね除けてベッドから飛び降りると、スフィンクスの胸ぐらを掴む。
「このバカ猫! なに熟睡してるのよ!?」
ハンナはスフィンクスを揺さぶるが、それでも起きる気配がなかった。
こうなったら奥の手と、ハンナはスフィンクスのしっぽを思いっきり引っ張る。
「ギニャー!?」
スフィンクスは大声を上げて目を見開き、床から10センチほど飛び上がった。
「ニャ! ニャにするんですかニャ!?」
スフィンクスはしっぽの付け根を押さえながら、カンカンになって抗議した。
だが仁王立ちをするハンナの形相に、スフィンクスは怯まざるをえない。
「それはこっちの台詞よ! あんたこそ何やってるの!? 見張りはどうしたの!?」
ハンナの叱責に、スフィンクスはハッと固まる。
「ご、ごめんニャさい……寝ちゃいましたニャ……」
「ごめんじゃないでしょ! 金庫は無事なの!?」
ハンナは金庫に異常がないかを調べる。
幸い、開けられた形跡も壊された形跡もなかった。
それを見たスフィンクスの表情が緩む一方で、ハンナはドアの鍵をチェックしに行く。
ドアノブをガチャガチャと揺らし、扉が開かないことを確認した。
「……鍵も掛かってるわね」
そう呟いて、ハンナもようやく胸を撫で下ろした。
「良かったですニャー」
能天気なスフィンクスの一言に、ハンナは怒りを露にして振り返る。
「良かったじゃないでしょ。何で3時間くらい我慢できないの?」
「そ、それがですニャ……」
スフィンクスが弁明を始めたところで、急にドアがノックされた。
早朝の雰囲気に相応しからぬ、激しい叩き方だ。
ハンナは胸騒ぎを覚えながら鍵を開け、ドアノブを回す。
間髪置かずに、昨晩のメイドが部屋へと飛び込んで来る。顔が真っ青だ。
「ポッセ様が……! ポッセ様が……!」
メイドの次の言葉を待つまでもなく、ハンナは自分たちの失態を悟った。




